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第六話 みんなの時間を無駄にしないで


拓海は熱で意識が朦朧とし、全身が火照っていた。

こんな時、一番恋しいのは、母親の優しいまなざしと、おでこに落ちるキス、そしてどんな小さな願いも叶えてくれるその存在だった。


紀康は息子の弱々しい顔を見つめ、身をかがめて言った。

「ちょっと待ってて。パパがママを呼んでくるから。」


「うん……待ってる。」

拓海の声は蚊の鳴くようにか細い。


紀康は携帯を取り出して、何度も梨紗に電話をかけたが、なかなか繋がらない。

ついに我慢の限界が来て、自分で迎えに行こうとしたその時、ようやく電話が繋がった。


「……もしもし?」

声は今にも途切れそうなほど弱々しい。


紀康は怒りを抑えながら、低い声で命じた。

「梨紗、いい加減にしろ。拓海が39度の高熱だ。すぐ戻ってこい。」


また「いい加減にしろ」だ。

梨紗は携帯を握りしめ、心がすっと冷えた。


「行けない。」

そう言って一方的に電話を切った。


無機質な呼び出し音を聞きながら、紀康の顔色はみるみる険しくなる。

「行けない」だと?くだらない言い訳を!

息子がこれだけ苦しんでいるのに、なんて冷たい女なんだ!


怒りを押さえつけながら、息子の部屋に戻ると、家庭医が拓海に点滴をしていた。


拓海は顔を真っ赤にして、夢うつつに泣きながら叫んだ。

「パパ……ママは?ママが来たら、拓海は元気になるのに……」


その叫びが紀康の胸に突き刺さる。

梨紗、お前、本当に「動けない」んだろうな。


その時、使用人の松本が顔を覗かせた。

「旦那様、奥様がココお嬢様をお届けにいらっしゃいました。」


紀康はリビングに向かうと、妹の娘ココが立っていた。


「奥様からのご指示でお連れしました。ココお嬢様はお兄様と遊びたいそうですし……奥様にも会いたがっていました。」

ココが梨紗を頼りにしていることを、紀康も知っていた。


「妻は今、家にいない。拓海も病気だし、うつるといけないから連れて帰ってくれ。」

紀康は冷たく言い放つ。


奥様がいない?それに坊ちゃんまで病気?

今までは誰かが病気になれば、梨紗は決してそばを離れなかったのに……。

これ以上は何も聞かず、ココを連れて帰った。


本邸では、拓海の病気を知った雅子も、無理に子どもを預けるのをやめた。


……


梨紗は長い眠りからようやく目覚めた。


何杯もお湯を飲んでも、体はまだ冷えが残り、虚ろな汗が止まらない。

それでも、先ほどまでの骨身に染みる寒さよりは少しマシだった。


携帯は静まり返っている。お姑さんからココの世話を頼まれることもなくなった。

拓海が病気なのを知って、感染を恐れているのだろうか。


もともと体は丈夫だった。宗一郎の腎臓移植のためにひとつ腎臓を提供したが、神崎家の物質的な配慮でどうにか体力も戻った。

しかし、妊娠中は腎臓ひとつでの負担が大きく、ほとんど寝たきりで、出産も命がけだった。

それでも、子どもへの愛で後悔はない。


だが、どんなに丈夫な体でも、中絶の後の心身のダメージには耐えきれなかった。


息子が病気でも、神崎家には最高の医療がある。自分がいなくても困ることはない。

もしかすると、自分がいないことを察したのか、その後半月近く拓海から連絡もなければ、メッセージすらなかった。


梨紗は心置きなく休息し、体力の回復に専念した。


小田監督からは頻繁に新作のキャスティングについて連絡が来ていた。

「梨紗、主演は間宮和夫で決まった。彼が若菜をヒロインに推してるが、君はどう?」


梨紗はしばらく黙った後、「ヒロイン……絶対に若菜じゃないとダメですか?」と尋ねた。


「いや、そこまでじゃない。ただ、若菜が出演するなら神崎社長が必ず出資してくれる。君の脚本は三作連続でヒットしてるし、神崎社長の後押しがあれば将来は安泰だよ!」

小田監督は期待を込めて続ける。


梨紗は眉をひそめた。

「知ってるでしょ、表に出たくない。」


「わかってるよ!」

小田監督は慌てて相槌を打った。

「神崎社長が若菜のために専用の映画会社まで作った。君が専属脚本家になれば、将来は間違いない!」

要するに、紀康の後ろ盾を確実にしたいのだ。紀康もまた、若菜のために最高のチームを作ると言っていた。


「でもさ、必要な付き合いはした方がいい。いろんな人と会って視野を広げないと。」

小田監督は勧める。


梨紗は少し考えてから、「興味あるパーティーがあれば教えて。行きたいと思ったら検討する」と答えた。


小田監督は大喜びだ。

「わかった!その時は先輩たちに紹介するよ!」


「それで、若菜の件は……」


「ごめんなさい。やっぱり無理。」

梨紗はきっぱりと言った。

「彼女はヒロインの核心的なイメージに合わない。他に適任を探してみる。」


小田監督は残念そうに、「わかったよ。まだ撮影までは時間があるから」と答えた。

実際、これは間宮の推薦であって、紀康や若菜本人からの話ではなかった。



電話を切った直後、制作の河瀬プロデューサーから着信があった。辞めて半月も経って、今さら何の用だろう。


「梨紗、もう十分休んだだろ?いつ現場に戻ってくるんだ?」


梨紗も負けずに言い返した。

「電話もメールもして、ちゃんと辞めるって伝えたでしょ?」


「知ってるよ!でも、俺の一存じゃ決められない。アンナが君を指名してるし、神崎社長の指示でもある。契約だってあるんだぞ!勝手に来なければ進行に支障が出るし、これ以上休んだら違約金だ!」


確かに、アンナの指名と紀康との取り決めはあったが、契約は制作側とのものだ。

辞めたくて河瀬に連絡しても、結局アンナや紀康に回されるだけ。どうせ結果は同じだが、きちんと話をつけるしかない。


窓の外を見ながら、梨紗は現場で直接アンナに会って話そうと決めた。


タクシーで撮影所に向かった。

中に入った途端、目の前に紀康が現れた。

目が合い、梨紗の心臓が一瞬止まる。離婚の手続きはいつするのか訊きたかったが、彼はまるで梨紗が見えていないかのように冷たい目で通り過ぎていった。


こうして無視されるのは初めてじゃない。

必要とされない時、自分はただの空気だ。もう慣れた。

どうせ離婚するのだ。これからは、顔を合わせても知らぬふりでいい。


気持ちを切り替え、梨紗はマネージャーのアンナを探した。

声をかける間もなく、アンナが腕をつかんできた。

「ちょうど良かった!この新しい台本を若菜の楽屋に届けて。終わったらすぐ戻ってきて、次はアクションシーンの代役よ!」


断ろうとしたが、アンナはもう慌ただしく走り去っていた。


その時、監督の怒声が響いた。

「してる!早く台本を届けろ!みんなの時間を無駄にするな!」


今は目の前の仕事を片付けるしかない。梨紗は台本を手に、若菜の楽屋へ向かう。


思い返せば、さっき紀康が向かっていたのも、あの楽屋の方角だった……。

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