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第七話 予期せぬ中絶診断書の落下


梨紗は楽屋の前で立ち止まり、指先を戸板に添えてためらいながらも、ついにノックした。

中は静まり返っている。少し待った後、そっと半開きの扉を押し開けた。


目に飛び込んできた光景に、彼女は思わず息を呑んだ――

紀康が若菜を腕に抱き、二人は親密な様子だった。

物音を聞いた瞬間、二人はまるで弾かれたように離れ、若菜は乱れた髪を慌てて整える。唇のルージュは、どこか艶めかしい跡を残していた。


紀康は梨紗に気づくと、その目つきは一瞬で険しくなった。

「誰が入っていいと言った?」


「アンナと監督に新しい台本を届けるように言われて……」

梨紗は説明しようとしたが、彼の冷たい視線に言葉を飲み込んだ。


「出て行け。」

その声は、まるで氷のように冷たかった。


梨紗は思わず二歩下がり、扉を閉めた。

だが手の中の台本を見つめ、深く息を吸い、再び扉を開けて中へ入った。


ちょうどその時、若菜が優しく紀康をなだめていた。

「紀康、そんなに怒らないで。梨紗さん、本当に急いでいたのかも……」

言い終わらないうちに、梨紗がまっすぐ二人の方へ歩み寄ってきた。


「、入っちゃダメ!」と、ひとりのアシスタントが慌てて彼女を引き止め、紀康に向かって謝った。


「申し訳ありません神崎社長、さっき私がトイレに行っていて、目を離しました……」


アシスタントは、梨紗がわざと入ってきたのだと思っていた。

いつも紀康を無意識に見つめている彼女の姿は、周囲から片思いだと噂されていたのだ。

だが、八年の結婚生活の中で、梨紗の心はもうすっかり冷え切っていた。


梨紗はアシスタントの手を振りほどき、台本を若菜の隣のドレッサーにそっと置いた。

「届けました。アンナと監督に聞かれたら、私が渡したと伝えてください。」


その瞬間、一枚の折りたたまれた紙が指の隙間から滑り落ちた。

梨紗の瞳が大きく見開かれる――

それは病院で発行された中絶診断書だった。

彼女が拾おうと身を屈めたが、紀康が先にそれを手に取った。


胸の鼓動が激しくなり、全身がこわばる。彼の動きをじっと見つめる。


紀康は紙を広げて一瞥し、冷たい目で彼女を見上げた。

「これは何だ?」


若菜が興味津々に覗き込もうとするが、紀康は身をずらして見せようとしない。

そのまま紙を梨紗に返し、まるで他人事のような無表情で言った。

「別に。」


梨紗は紙を受け取った。指先は冷たかった。

もし彼が本当に気にしていたなら、あの日病院で一緒に検診に付き添うこともなかったはずだし、自分が苦しんでいる時に無関心でいることもなかっただろう。今の問いかけも、ただ偶然見つけただけの形式的なものだった。


もう何も説明せず、梨紗はそのまま楽屋を出た。


アンナを探すと、彼女は忙しく立ち回っていた。梨紗の姿を見るなり、手を止めて問いかけた。

「まだここにいたの?着替えに行くように言ったでしょ?」

「辞めさせてください。」


「えっ、辞めるって?」

アンナは驚き、梨紗をじろじろ見た。


「最初、代役をやるのを嫌がってたのを、神崎社長が説得してくれたんじゃないの?どうして急に……」

少し言いよどみ、値上げ交渉だと勘違いしたのか、続けた。


「じゃあ、河瀬プロデューサーに頼んで、日給二万円増やすってことでどう?」


「お金のためじゃありません。」


「梨紗さん、欲張りすぎよ!」

アンナの声が鋭くなる。

「うちが払ってるのは破格なのよ!これ以上値上げなんて、絶対無理だから!」


「本当に、もうやりたくないんです。」

このドラマには裸やキスの代役シーンが多く、最初から抵抗があった。

今となっては、もう譲歩する理由などなかった。


アンナの顔が険しくなる。

「このドラマ、あなたがいなきゃ困るのよ!早乙女さんと体型が一番近いのはあなただけ。あなたが辞めたら、早乙女さん本人にやらせるわけ?辞めたければ、紀康社長にサインしてもらいなさい!契約もあるし、違約金が発生するのを忘れないで!」


アンナの背中を見送りながら、梨紗は拳を握りしめた。

確かに契約があるが、まだ道は残されている。

彼女はアンナを追いかけた。

「この作品が終わるまではやります。でも、その後はもう早乙女さんの代役はしません。」


「自分で紀康社長に言いなさい。」

アンナはそう言い残し、忙しそうに去った。


梨紗はほっと息をついた。とりあえず目の前の問題は片付いた。

このドラマが終われば、紀康との離婚手続きも進めるつもりだ。その時こそ、この代役という役割からも完全に解放されるだろう。


メイクを終えて楽屋を出ると、廊下の突き当たりで紀康の姿が見えた。

彼は背を向けて電話しており、珍しく穏やかな声だった。


「パパは約束しただろう、ななちゃんに会いに連れて行くって。でも今日は体調が悪くて、撮影も詰まってるんだ……」


電話の向こうから、拓海の幼い声が響く。

「ななちゃん大丈夫?この前の僕の風邪と同じくらい辛いの?パパ、絶対に一番いいお医者さんに連れて行ってあげてね……」


梨紗はその場に立ち尽くし、親子の会話を聞きながら胸が痛んだ。

自分が中絶で意識を失っていた時に、息子はななちゃんを呼び、体調が戻らないうちから自分の存在を願わなくなった。今では、若菜の健康を気にかけている。


実の母親である自分は、彼の人生の中で、すでにどうでもいい存在になってしまったのだろうか――


梨紗は紀康の背中を見送りながら、中絶診断書を握りしめた。

紙の端がしわくちゃになるほど力を込めても、心の中の痛みはそれ以上に深く刻まれていた。


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