梨紗は楽屋の前で立ち止まり、指先を戸板に添えてためらいながらも、ついにノックした。
中は静まり返っている。少し待った後、そっと半開きの扉を押し開けた。
目に飛び込んできた光景に、彼女は思わず息を呑んだ――
紀康が若菜を腕に抱き、二人は親密な様子だった。
物音を聞いた瞬間、二人はまるで弾かれたように離れ、若菜は乱れた髪を慌てて整える。唇のルージュは、どこか艶めかしい跡を残していた。
紀康は梨紗に気づくと、その目つきは一瞬で険しくなった。
「誰が入っていいと言った?」
「アンナと監督に新しい台本を届けるように言われて……」
梨紗は説明しようとしたが、彼の冷たい視線に言葉を飲み込んだ。
「出て行け。」
その声は、まるで氷のように冷たかった。
梨紗は思わず二歩下がり、扉を閉めた。
だが手の中の台本を見つめ、深く息を吸い、再び扉を開けて中へ入った。
ちょうどその時、若菜が優しく紀康をなだめていた。
「紀康、そんなに怒らないで。梨紗さん、本当に急いでいたのかも……」
言い終わらないうちに、梨紗がまっすぐ二人の方へ歩み寄ってきた。
「、入っちゃダメ!」と、ひとりのアシスタントが慌てて彼女を引き止め、紀康に向かって謝った。
「申し訳ありません神崎社長、さっき私がトイレに行っていて、目を離しました……」
アシスタントは、梨紗がわざと入ってきたのだと思っていた。
いつも紀康を無意識に見つめている彼女の姿は、周囲から片思いだと噂されていたのだ。
だが、八年の結婚生活の中で、梨紗の心はもうすっかり冷え切っていた。
梨紗はアシスタントの手を振りほどき、台本を若菜の隣のドレッサーにそっと置いた。
「届けました。アンナと監督に聞かれたら、私が渡したと伝えてください。」
その瞬間、一枚の折りたたまれた紙が指の隙間から滑り落ちた。
梨紗の瞳が大きく見開かれる――
それは病院で発行された中絶診断書だった。
彼女が拾おうと身を屈めたが、紀康が先にそれを手に取った。
胸の鼓動が激しくなり、全身がこわばる。彼の動きをじっと見つめる。
紀康は紙を広げて一瞥し、冷たい目で彼女を見上げた。
「これは何だ?」
若菜が興味津々に覗き込もうとするが、紀康は身をずらして見せようとしない。
そのまま紙を梨紗に返し、まるで他人事のような無表情で言った。
「別に。」
梨紗は紙を受け取った。指先は冷たかった。
もし彼が本当に気にしていたなら、あの日病院で一緒に検診に付き添うこともなかったはずだし、自分が苦しんでいる時に無関心でいることもなかっただろう。今の問いかけも、ただ偶然見つけただけの形式的なものだった。
もう何も説明せず、梨紗はそのまま楽屋を出た。
アンナを探すと、彼女は忙しく立ち回っていた。梨紗の姿を見るなり、手を止めて問いかけた。
「まだここにいたの?着替えに行くように言ったでしょ?」
「辞めさせてください。」
「えっ、辞めるって?」
アンナは驚き、梨紗をじろじろ見た。
「最初、代役をやるのを嫌がってたのを、神崎社長が説得してくれたんじゃないの?どうして急に……」
少し言いよどみ、値上げ交渉だと勘違いしたのか、続けた。
「じゃあ、河瀬プロデューサーに頼んで、日給二万円増やすってことでどう?」
「お金のためじゃありません。」
「梨紗さん、欲張りすぎよ!」
アンナの声が鋭くなる。
「うちが払ってるのは破格なのよ!これ以上値上げなんて、絶対無理だから!」
「本当に、もうやりたくないんです。」
このドラマには裸やキスの代役シーンが多く、最初から抵抗があった。
今となっては、もう譲歩する理由などなかった。
アンナの顔が険しくなる。
「このドラマ、あなたがいなきゃ困るのよ!早乙女さんと体型が一番近いのはあなただけ。あなたが辞めたら、早乙女さん本人にやらせるわけ?辞めたければ、紀康社長にサインしてもらいなさい!契約もあるし、違約金が発生するのを忘れないで!」
アンナの背中を見送りながら、梨紗は拳を握りしめた。
確かに契約があるが、まだ道は残されている。
彼女はアンナを追いかけた。
「この作品が終わるまではやります。でも、その後はもう早乙女さんの代役はしません。」
「自分で紀康社長に言いなさい。」
アンナはそう言い残し、忙しそうに去った。
梨紗はほっと息をついた。とりあえず目の前の問題は片付いた。
このドラマが終われば、紀康との離婚手続きも進めるつもりだ。その時こそ、この代役という役割からも完全に解放されるだろう。
メイクを終えて楽屋を出ると、廊下の突き当たりで紀康の姿が見えた。
彼は背を向けて電話しており、珍しく穏やかな声だった。
「パパは約束しただろう、ななちゃんに会いに連れて行くって。でも今日は体調が悪くて、撮影も詰まってるんだ……」
電話の向こうから、拓海の幼い声が響く。
「ななちゃん大丈夫?この前の僕の風邪と同じくらい辛いの?パパ、絶対に一番いいお医者さんに連れて行ってあげてね……」
梨紗はその場に立ち尽くし、親子の会話を聞きながら胸が痛んだ。
自分が中絶で意識を失っていた時に、息子はななちゃんを呼び、体調が戻らないうちから自分の存在を願わなくなった。今では、若菜の健康を気にかけている。
実の母親である自分は、彼の人生の中で、すでにどうでもいい存在になってしまったのだろうか――
梨紗は紀康の背中を見送りながら、中絶診断書を握りしめた。
紙の端がしわくちゃになるほど力を込めても、心の中の痛みはそれ以上に深く刻まれていた。