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第92話 宴の前夜に渦巻く思惑と心の変化


梨紗はずっとトヨタ・センチュリーが好きだった。前から目をつけていた車で、その魅力には逆らえなかった。


彼女はキーを受け取り、車に乗り込んでひと回りドライブしてきた後、興奮気味に言った。


「本当に最高!さすが日本が誇るトップブランドね。」

「今日の昼、車を買いに行った時は、最初はマイバッハとかも考えてたんだけど、センチュリーを見た瞬間、一目惚れしたよ」と裕亮が言う。「この車で出かけても、値段がそこまで高くなくても、誰も文句は言わないし、節約にもなる。」


実は、これは梨紗に内緒で買ったのだ。もし事前に伝えていたら、梨紗は絶対に反対したに違いない。会社がもっと儲かってからにしようと言い張るはずだ。


ここ最近、紀康たちは外出のたびに自分の車で移動していて、梨紗を送ろうとしたことは一度もなかった。それを見て、裕亮は内心腹が立っていた。


海外にいた時から、日本車の質がかなり良くなったと聞いていて、実際に見に行ったらいくつか気に入った車があった。色々悩んだ末、センチュリーに決めたのだ。


梨紗は車を降りて、「会社が利益を出したら、会社の経費で落としましょう」と言った。


「そんなこと気にしなくていいよ。会社は俺たち三人で持ってるし、将来的に古株の社員に分けるくらいだろ?もし共同経営じゃなくても、梨紗と思織のために車を買ってあげたい、それだけだよ。」


梨紗は感動して、小さくうなずいた。「うん、わかった。」


「それなら決まりだな。」


会社に入ろうとした時、裕亮が梨紗の肩に手をかけた瞬間、誰かが呼び止めた。「梨紗。」


振り向くと、そこには紀康が立っていた。


裕亮は梨紗を見て、明らかに心配そうな顔をした。


梨紗は淡々と微笑み、「大丈夫よ、先に入ってて。ちょっと話してくるから」と言った。


「何かあったら電話して。」裕亮はそう言い、紀康を鋭く睨んだ。


梨紗は軽くうなずいた。


紀康は険しい表情で、彼女を今朝那須太郎と会ったカフェへと連れて行った。


ちょうどその時、小野田蕭一が通りかかり、その様子が気になって車の中からしばらく様子を伺った。だが、二人の間に特別な動きは見られなかった。


彼は心の中で、どうせまた梨紗が紀康に会いに来て、きっと冷たく突き放されたんだろう、と思っていた。


梨紗は確かに少しは美人かもしれないが、若菜には到底及ばない。紀康が梨紗に惚れるはずがない。


「梨紗、お前には妻としての自覚がないのか?」紀康は開口一番、皮肉っぽく言った。


梨紗は思わず笑いそうになった。以前ならこんなことを言われたら傷ついていた。でも今となっては、紀康が自分の行動をどう思おうが、どうでもよかった。


紀康は彼女の反応を見て、妙な不安を覚えた。最近の梨紗は別人のようで、彼の予想をことごとく裏切ってくる。まるで、何かが静かに離れていくようだった。


「笑いたいのか?」

「まずは自分の言葉を考えてからにしたら?」

「他の男とそんなに親しくして、俺を刺激できるとでも思ってるのか?そんなの無駄だ。でも、自分の行動には気をつけろよ。俺はともかく、父さんに知られたら……」


梨紗は聞く気もなく、「用がないなら、もう行くわ」と立ち上がった。


「梨紗!」紀康は少し怒りを抑えきれなかった。


梨紗は無視した。


「父さんに、今夜お前のことを公表しないように言っておけ、と伝えに来たんだ。」


梨紗は椅子から立ちかけていたが、その言葉を聞いて再び紀康をじっと見つめた。


紀康は眉をひそめ、不快そうだったが、気にせず続けた。「これはお前のためだ。どうしても公表したいなら、止めはしないが。」


「もっとまともな言い方できないの?」


紀康の眉間にさらに深いしわが寄った。


梨紗は今までこんな言葉を紀康に言ったことがなかった。


「そんな言い方しかできないなら、黙ってて。気分が悪い。」


梨紗はそう言って、今度こそ席を立った。


出口に向かう彼女に、紀康は冷たく言い放つ。「梨紗、最後に恥をかくのはお前だ。」


梨紗は振り返ることなく、扉を押して店を出て行った。


紀康の目は、どこか複雑な色を浮かべていた。


夕方近く、宗一郎からドレスが届けられ、彼からも電話がかかってきた。


「梨紗、君がどんなドレスが好きかわからなかったから、デザイナーに選んでもらったよ。スタイリストも予約してあるから、直接行けばいい。」


梨紗は感激して、「お父様、本当にありがとうございます」と伝えた。


「時々、君が息子の嫁じゃなくて、本当の娘だったらどんなに良かったかと思うよ。こんな娘がいたら、きっと幸せだっただろうな。」


梨紗の目が少し潤んだ。「私も、お父様が本当のお父さんだったらよかったのに。」


彼女は神崎家に父親の話をしたことはなかったし、神崎家も特に聞かなかった。母が離婚し、亡くなった後、父親は一度も現れなかったから、きっとろくな人じゃないと思われていた。


「お父様、ひとつお願いがあります。」

「何でも言いなさい。」

「今夜……私のことを公にはしないでください。」


電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。


少しして、宗一郎は静かに尋ねた。


「本気かい?よく考えてのこと?」

「はい、もう決めました。」

「梨紗、もしかして……」


宗一郎が言いかけたところで、梨紗は説得される前に、適当な理由をつけて電話を切った。


宗一郎が何を言いかけたか、今は考えている暇もなかった。自分の存在を公にされることは、かつては夢だった。紀康こそが自分の大切な人だと、皆に知ってほしかった。


特に、祖父母がいじめられていた時には、夫が必ず守ってくれると胸を張って言いたかった。


だが、歳月が流れ、希望は徐々に色褪せていった。


この決断は、那須太郎や紀康のせいではなく、ただ単に、いずれ離婚するだろうと感じていたからだ。できれば、誰にも自分たちが夫婦だったことを知られずにいられたら、それでよかった。


梨紗はドレスを持ってスタイリストのもとへ向かう。


裕亮も付き添ってくれた。思織は都合があり、夜は直接会場に来るとのことだった。


梨紗がヘアメイクを終えて出てくると、裕亮は満足そうに「すごく綺麗だよ、絶世の美女って言ってもいいくらいだ」と言った。


梨紗は苦笑し、「からかわないで。もう時間がないから、急ごう」と促した。


その頃、ホテルでは――


宗一郎は病気になってから誕生日を祝うことが少なく、多くの人がこの機会に神崎家と親しくなりたがっていたが、なかなか接点がなかった。


みんな紀康が冷たく、近寄りがたい性格だと知っていたが、宗一郎の人柄は温厚で、紀康も父親の言うことならよく聞くという噂だった。だからこそ、この宴には早くから多くの人が集まっていた。


宗一郎は早々に宴会場に姿を見せ、笑顔で来客に挨拶をしていた。機嫌もとても良さそうだった。


招待客たちは積極的に声をかけ、宗一郎も親しげに応じていた。


その傍らで、玲奈は雅子に焦った様子で耳打ちした。


「お母さん、どうしよう?お父さん、やっぱり梨紗さんのことを公表するつもりみたい。もしそうなったら、若菜姉さんは……」

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