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第5話



 また、あの茶藝館に行きたいのにどうやればあそこにたどり着くことが出来るか、解らない。

 彼は『誘ったのは恭介だ』と言っていたはずだった。その言葉の意味もわからないし、約束も解らない。


 何もかも解らないことばかりで、ため息しか出なかった。


 仕事に打ち込もうとしても、なんとなく、気がそぞろになってて、集中出来ない。気が付くとぼんやりしてしまう時間が増えたことで、上司は、メンタルクリニックの受診を勧めてきた。交差点のど真ん中で立っていたという事を考えても、それが上司の対応としては妥当だろう。


(けど、メンタルじゃないんだよなあ……)

 どちらかと言えば、スピリチュアルとか、霊能力者が居れば良いのに、と恭介は思う。


 外回りの最中、この季節は酷く暑い。東京はアスファルトが焼かれて、歩いていても足の底が熱いと感じる時もある。容赦なく下と上から照らされて、汗だくになる。日傘が有れば上からの直射日光は防ぐことが出来るが、取引先の中には『男のくせに』日傘を使っていると文句を言う人がいるので、日傘も持ちにくい。


 従って、信号待ちの場合、ビルの影になるところまで後退して、信号が変わるのを待つ。隣には似たようなサラリーマンがズラリと横に並んでいるので、ここの店のひとは迷惑して居るだろうとは思う。


 何の店なのだろう、と普段は気にならないことが気になったのは、ふいに、線香のような薫りが鼻先をくすぐったからだった。


(仏具屋さんとか……)


 好奇心で外から硝子窓を覗いてみる。すると、そこはカフェのようだった。灼熱地獄の外に比べて、中はいかにも涼しそうで、居心地が良さそうだ。


 時計を見やる。


 次の約束まで、三十分以上時間が空いていた。


(少し、涼んでいくか……)


 水分補給はした方が良い。コンビニでペットボトルに入った水を買っても良かったが、実はあのペットボトルの空容器が困りもので、取引先に連れて行くには、かさばるし、500ミリリットルの水は一気に飲み干すには、少し多い。それならば、割高だが、喫茶店へ入るのもよいだろう。


 ドアを開けて、喫茶店に入った瞬間、ものすごい冷気が頬を叩いた。


 温度差だけでいうなら、風邪を引きそうな程、店内は涼しい。良く見れば、店員は皆、長袖のシャツを着ていた。贅沢、なことだ。けれど、この店は、涼をも売っているのだろうから、致し方ないことなのかも知れないが……。


 席に通されて、氷のたっぷり入った冷たい水と、アツアツのおしぼりを出される。今時珍しいサービスだが、この炎天下を歩いてきたあとには、なにより嬉しい心遣いだ。


 どうせ注文するのは冷たいコーヒーだと思いながらも、メニューにざっと目を通した時、ふと、目に留まったのは『温かい烏龍茶』の所だった。『東方美人』という銘柄に、見覚えがあった。


 あの茶藝館で、彼が入れてくれた茶のはずだった。


 あの時―――彼の薫りにばかり気を取られて、お茶の香りは解らなかったが……。

 こっくりとした、蜂蜜のような甘い薫りが混じった、はずだった。



『あなたが、私を……誘ったのでしょう……?』



 あの声が、頭の中をぐるぐると回っている。


 切れ長の美しい黒瞳。朱くて薄い唇。白くて細い、指。あの指を……。


「ああそうだ……」

 あの指に触れてみたかった。冷たくて、繊細なあの、指に。

 あの指に触れて、口に含んで、なめ回したかった。


 その時―――彼は、どんな表情をするだろう。


 多分、その表情も、解っていた。

 悦楽と屈辱の入り交じった顔をして、湧き上がる歓喜を、唇を噛んで押し殺す。

 あの、陶磁器のように白くて滑らかな肌には、ほんのりと、紅の色が乗る。一番紅い薔薇から取った芳しい染料を、水で何万杯にも引き延ばしたような―――本当にかすかな、至近距離でだけ解る紅色のはずだ。


 また、彼に逢いたい。

 どうすれば良いか解らなかった。どうやればあそこへたどり着くことが出来るのか。


 なんとなく、その時。

 脳裏に響いた声があった。


『夕月。私は夕月と呼ばれて居るんです』


 これは一体いつの記憶なのか、全く解らなかった。

 かつて、どこかで名前を聞いたのだろうか。幼い頃に。けれど、あの人が、幼い子供に名前を教えるだろうか。

 ぼんやりしていると、店員が注文を聞きにきた。

 冷たいコーヒーを頼むべきだったが、つい、聞いてしまった。


「この、東方美人っていうお茶は、なんなんですか?」


 こんな季節に熱い烏龍茶の説明を求められると思っていなかったのだろう。店員は、一瞬目を丸く瞬かせてから、すぐに笑顔を作って応えた。


「これは、英語だと、オリエンタル・ビューティと呼ばれる、烏龍茶というか、中国茶の中でもかなりメジャーな茶葉になります。独得な甘い風味を持っているので、とても華やかで呑みやすいのも特徴ですよ。台湾で栽培されているのですが、茶葉を作る時に、雲霞うんかという小さな小さな虫が茶葉を噛むことで、この素晴らしい薫りが立つそうです」


「虫に噛まれて素晴らしい薫りになるなんて、面白いですね」

 はは、と笑った恭介は、ハッとした。


 彼は―――彼の名前が『夕月』だと仮定して―――夕月は、芳香異体だった。

 そして、彼は、恭介が近付けば近付くほど、身体中から甘い薫りを放っていた。


 あの、甘やかな肌を、暴いて、貪りたい。

 幼い日に見た、あの男のように。


(俺も殺されるかな……)

 そう思った時、はた、と気が付いた。


 行方不明掲示板。

 あそこに掲示されていた行方不明者の男。あの男は―――死んで、蓮になったはずだった。

 そして、あの池一杯に咲いた、蓮。

 願掛けで、百万本の蓮の花が必要だと、彼は言っていたはずだった……。


(もし―――……)

 あの蓮の一本一本が……、あの茶藝館に迷い込んだ男だとしたら……。

 店主に貪り付いて、彼の肌に傷を付けて、そして死んで蓮になった者だとしたら……。


(それでも、俺は……あの、甘い肌を貪って、思う存分犯しつくしたいが……)


 東方美人を注文した恭介は、ふと、自分の指に視線を落とした。

 そこに、あの、朱い糸がついている。


 糸をたぐり寄せようとして、恭介は思いとどまった。きっと、夕月は、すぐ近くに居るはずだった。それでなればこうして、朱い糸など見ることは出来なかっただろう。ついさっきまで、指には朱い糸は見えなかったのだから。


 おそらく、これは、夕月が付けた、マーキングのようなものなのだろうとは思ったが、それならばそれで、恭介は嬉しかった。

 この糸がほどけずにあるということは、すなわち、この糸の端と端は、彼と、恭介で分かち合っていると言うことだから。


 恭介は、きょろきょろとあたりを見回す。その、視界の端に、ひときわ美しい黒い点が、ぽつんと落ちた。それは、次第に大きくなって、恭介に近付いてくる。恭介にだけ見ているもののようだったが、構わなかった。


「夕月」


 呼びかけると、黒い点がうっすらと笑ったような気がした。

 そして、そのまま、手を伸ばすと甘やかな、蓮の香りが、闇に満ちていて、くらくらした。






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