新入社員の教育係を任されるのは慣れている。
「『鷹司』なんて君も初めて見た苗字だろう?」
口にしながら、僕は首から下げたIDをつまみあげる。
「下の名前は『陽一』だけど、苗字のインパクトは大事なんだ。営業をしてると、第一印象ってすごく大事だからね。だから君の『禊』って苗字も相当使えると思うよ。どこ出身なの? って絶対言われる」
昼下がりのオフィスはどことなくゆったりとした空気が流れる。数人が営業に出かけているため、僕の所属する営業二課は空席が目立つ。新入社員の禊楓真くんがデスクワークに一区切りをつけるタイミングを見計らって、声をかけた。ついさっき、彼の初めての名刺が届いたのだ。
新入社員が入社した初めの一か月は、本来の配属先とは違う部署へランダムに配属される。工業大学出身の禊楓真くんは、一か月といえども技術系が希望だったらしいが、何の因果かこうして営業二課に配属されてしまった。
彼は結構目立つ容姿をしている。浅く焼けた肌に、明るい髪の色。整った顔立ちは鋭くて、口数も少なく近寄りがたい雰囲気を纏っている。彼が入社した時、女子社員が揃って色めき立ったのも記憶に新しい。一部の女子社員は果敢にもぶつかってゆき、すげない対応をされて撃沈していったという噂だ。
「鷹司先輩は見た目だけでも充分インパクトがあるじゃないですか」
けれど話してみれば悪い子じゃない。むしろ、ちっともすれていない。礼儀正しいくらいだ。いきなり距離のない対応をされるとシャットアウトしてしまうらしいが、話はきちんと聞いている。こちらが丁寧に接すれば心を開いてくれるのだ。
コミュニケーションには自信がある僕が、彼のペースを読みつつ声をかけたり教えたりしていくうちに、いろいろ話してくれるようになった。例えば、小麦色の肌と陽に透けると金髪にも見える髪は海外の血が入っているからだとか、細身だからジムで鍛えるのが今の趣味だとか。最近、こうして軽口まで叩いてくれるようになった。相当な進歩だ。
「インパクトって」
「背が高くて洒落てて男前だけど、親しみやすい。営業向きだ」
「ははは、これでも営業向きになるように努力したんだよ?」
彼はさっきからずっと、渡されたばかりの自分の名刺を入れた名刺入れを握って離さない。名刺がよほどうれしいらしい。一見表情が動いていないように見えるけど、彼と接するようになって二、三週間経った最近、彼の仕草と雰囲気で、彼が何を考えているのか大分見分けられるようになった。
「じゃあ次は、それ使って名刺交換のやり方教えるよ」
ちょうど書類仕事が終わった僕は、彼を手招いた。 呼べばひょこひょことヒヨコのように近づいてくる。本人に言ったら絶対怒るから口にしないけど、とても可愛い。多分、僕は彼に相当懐かれている。
僕はポケットから革製の名刺入れを取り出した。名刺交換に関する一通りの流れを口頭で教え、彼が理解した様子を確認すると実際にやって見せる。
「君の配属先は技術部だったっけ。さっきも言ったけど、名刺は社会人にとって大事な武器のひとつだからね」
差し出すのは簡単な動作だけどルールはある。彼は渡されたばかりのぴかぴかの名刺を、僕を真似た動きで「こうか」と差し出す。たどたどしい動きだけど、きっと要領のよい彼ならすぐに自分のものにするだろう。なんだか気分は保父さんだ。
「そう。渡すのはなんとなくわかるかな。じゃあ今度は受け取り方だよ」
彼が差し出している名刺を、名刺入れの上に重ねるようにして、両手で受け取る。受け取るときのルールを教えると彼は素直に頷いて、教えた動きで僕の名刺を受け取った。ピヨ、という擬音が聞こえた気がした。
「うんそう。指の置き方に注意してね。目を通して、一礼して。そうそう、で、席に着いたら名刺入れの上に置く」
傍にあった他人のデスクの上に名刺を置いて見せる。が、なぜか彼は僕の名刺を顔の前に持ったまま動かない。
「……禊くん?」
「ああ、すいません。こうですよね」
名前を呼ばれ、慌てて僕の名刺を机に乗せる。僕のやり方と同じように、机に向かってきれいに直角に置いた。僕は、彼のこういう丁寧なところにとても好感を持っている。
「どうした?」
けれど、名刺について雑談をしていると、ちらちらと僕の名刺に目をやる。僕の名刺そのものに興味を持っているようなのだ。尋ねれば、少し困った顔をして謝られた。
「その……鷹司先輩の名刺、いい匂いがして気になって」
「ああ、これか。君、鼻がいいんだね」
なるほど彼の興味を理解した。僕は名刺入れを再び持ち出すと、中から長細い紙を取り出して見せる。
「アルメニアペーパーって言うんだ。気に入っててさ」
匂い紙、とでも言えばわかりやすいだろうか。名刺を香らせる目的で、名刺入れにいつも入れている。僕がいつもつけている香水と同じメーカーで、香りがケンカしないから重宝している。
「ふうん……」
興味深そうに細長い紙と手元の僕の名刺を見比べる。名刺を手に取って、鼻先にくんくんと近づける。
「あ、ちょっと、ダメだよ? 客先でそんなことしちゃ。さっき扱い方を説明しただろう?」
「え、ああ、そうか」
名残惜しそうに鼻から離す。じっと見つめながら、名刺を再び机の上の乗せた。
「先輩、この名刺、頂いていいですか?」
「いいけど、なに? 気に入った?」
すると彼は少しだけ口元を緩ませて、頷いた。
「……好きな匂いだ」
僕の名刺をじっと見つめる。それからもう一度取り上げると、鼻にあてて、すう、と息を吸った。
まるでキスしているみたいに。