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第6話

「盛大に振られたらしいじゃないですか」

 如月くんは基本的に容赦がない。


 あれから一週間後の金曜日。腕にあった彼の嚙み跡がすっかり綺麗になってしまった頃。

 僕は如月くんのお店で、駆けつけ三杯水割りを煽った。理由も聞かずに水割りを作ってくれたのはさすがだとは思うけどね。

「はー……」

「気が済みましたか」

 俯いて肘をついた手で顔を覆う。視界の端で、僕が飲み干した三杯目のグラスを細い指が取り上げたのが見えた。入れ違いにナッツの入った小さな器がカウンターに置かれる。

「……ボトル入れるよ」

「なににしますか?」

「如月くんのおすすめでいいよ」

「あなた年収はおいくらでしたっけ」

「ボトル入れる時に年収聞くとかどれだけぼったくるつもり?」

 ひとつアーモンドをつまむと、口に放り込んだ。

 榊原に聞きましたよ、と、新しいボトルを空けながら話してくれた。僕が月曜日から死んだメンタルで仕事をしたせいで酷いミスをやらかしてしまい、理由を聞いた同期の榊原くんに洗いざらい話してひどく怒られたところまで彼は知っていた。だって、いくら技術部に電話をかけて楓真くんと連絡取ろうとしても取れなかったのだ。落ち込みすぎて、この店にすら足が向かなかった。

「罰が当たったんですよ、今までのしっぺ返しじゃないですか」

 相変わらず心があるんだかないんだかわからない不思議な様子で、如月くんは淡々と四杯目の水割りを作ってくれている。

 如月くんの言う通りなのかもしれない。

 好きになった直後にその人から縁を切られることがどれだけ傷つくのか、初めて知った。心が死んだ。僕と身体を繋げた子たちは多かれ少なかれ僕のことを好きだと言ってくれたのに、また会いたいと言ってくれたのに、彼らの愛情や誠意を踏みにじっていた。僕は馬鹿だった。

 でも楓真くんは、僕の愛情や誠意を踏みにじった訳じゃない。そういうことはしない子だというのは、一か月一緒に仕事をしてきたからよく知っている。

 ノンケだったから、目が覚めた時に男に抱かれた現実から逃げ出そうとして、あの場から走り去ったんだと思う。

 ノンケだったから、きっとゲイの僕のことも気持ち悪いって思ったんだと思う。飲ませて自分をホテルに連れ込んだ僕を憎んでいるかもしれない。

 そうだ、彼はノンケだ。それが、世に言う『普通』の感覚だ。いつも僕があまりにうまくノンケの子を落とせていたから、世間では普通、ゲイの恋心はノンケに受け入れられないっていう現実を忘れていた。

「……楓真……」

 彼と会いたいのに、僕はもう二度と会えない。一生会えない。嫌われた。憎まれた。僕がゲイで、彼の男としてのプライドを踏みにじったからだ。あ、だめだ。涙が出てきた。

「いい勉強になったんじゃないですか? これに懲りてもう少し誠実なお付き合いしてみたらどうです」

「嫌だ、楓真以外の子とお付き合いなんてしたくない。如月くん、僕出家する。悟りを開いて煩悩を断ち切るよ」

「僕の実家、お寺なんですけど、うち来ますか?」

「……煩悩断ち切れる?」

「断ち切ってたらこんなところで水割りなんて作ってませんよ」

 僕は四杯目の水割りを手探りで手に取ると、もう一度煽った。舌が慣れたのかまるで水みたいだ。

「まったく。……ほら、お花でも見て心を和ませてください。綺麗でしょう?」

 ことん、とコースターの隣に一輪挿しのクリスタルの花瓶を置かれた。真っ赤なバラが挿してある。華やかだけど、落ちついて気品がある格好いいバラだ。

「珍しいね、花なんて。お客さんから?」

 けれど如月くんは何も言わない。ちらりと壁にかかっている時計に目をやってから何故か、含みのある微笑みを見せた。

「バラか……」

 バラと言えば、楓真くんだ。バラみたいな男だなんて喩えられた。なんて名前だったっけ。武士みたいな名前のバラ。あっしまった、また涙が出てきた。僕が目頭を押さえるのと、僕の背後の扉が勢いよく開いたのは同時だった。

「『サムライ』だ」

 聞いたことのある声がかけられて心臓が爆発するかと思った。

「バラの中で俺が一番好きな、……花の中で一番好きな、花だ」

 息を切らせているのは、走って来たからに違いない。

「あんたに似てるからな。陽一」

 聞きたかった声。一生会えないと思っていた声。でも振り向くのが怖い。だってこんなの、嘘みたいだろう?

 僕の目の前で、如月くんがくすくすと笑いだした。

「ねえ鷹司、固まってないでなんとか言ってやりなさい。その子、社内であなたの同期の榊原って情報だけで榊原を探し出して連絡取ってきたんですって。しかも出会って早々榊原に食いついたんだそうですよ。会社以外であなたに会える方法を聞かせろって。その日すぐさまこのバラ持って現れて、毎晩ここに通おうとしたんです。健気でしょう? あなたが来たら連絡入れるからこの店には来るなって言っといたんですよ。だってその子、ノンケですから」

 如月くんの笑みを含んだ声。僕もまだ固まっているし、彼も動く気配がない。もう一度如月くんが口を開く。

「その子ねえ、懐いてた先輩に手を出されるのは嫌じゃなかったそうですよ。でも遊ばれたと思って逃げだしたとか」

「違う」

 やっと動いた彼がどかりと僕の隣のスツールに陣取る。

「死ぬほどイケメンで仕事がめちゃくちゃできるのに、少しも鼻にかけないあんたを尊敬していた。あの時貰った名刺は俺の宝物だ」

 スツールに腰掛けたまま、できるだけ僕に近づく。

「あの時あんたに求められて、少しも不快じゃなかった。ただ、あんたに抱かれて、尊敬が恋になった。いや、きっと俺はずっと恋をしていた。だが俺だって馬鹿じゃない。俺と会う最後の日を狙って酒を飲ませた時点で、俺のことなんかただの遊びだったんだと思った」

 ドキリとする。

「だから、あんたの冷たい目を見る前に、愛されたような思い出だけ持って逃げ出した。怖かったんだ。そうしないときっと耐えられなかった。それくらい俺はあんたのことが」

 震えるような深呼吸と共に、彼は続きの言葉を飲み込んだ。

「けど、連絡先は知らない。技術部の仕事は信じられないほど忙しくて、連絡できる時間にはいつもあんたは帰ってた。だから榊原さんからあんたの話を聞き出して、この店を教えてもらって、居ても立っても居られなくなった」

 そして、僕の顔を見つめた。僕の大好きな、まっすぐな瞳で。

「俺はあんたが好きだ、陽一。あんたはいい男で、周囲の期待に応えるためにいつも陰で努力することを欠かさない。俺はそんなあんたを尊敬してる」

「なんで、知って」

 誰も知らない、気づかないはずの、僕の秘密だ。

 周囲から「努力もなしになんでもできるスーパーマン」という理想を押し付けられていた。学生時代からずっと。だから誰にも気づかれないように、陰で必死に努力していた。

「朝早く来て、書類に全部目を通して、裏付けを取って、ってしてた。俺が教えたアプリだって次の日には使いこなしてただろ」

「……」

 心の奥の大事な場所に、温かい手が触れた音がした。

 言葉が出てこない。

「抱かれて、あんたに惚れた。もしかしたら初めから惚れていて、抱かれた時に気付いただけかもしれない」

 楓真くんの声は震えていた。だけど不器用ながら、彼の中にある気持ちを一つ一つ形にして伝えてくれる。

「あんたがもし俺のことを少しでも好いていてくれるなら、一つだけ頼みがある。抱いてくれなんて言わない。なんでもいい。一言でいい。俺に言葉をくれ」

 一輪挿しからバラを抜いて、僕の唇に花を宛がった。

「あんたの言葉を抱いて生きていく。頼む、陽一」

 何が起きたのだろう。頭が理解に追いつかない。

 一生手に入らないと思っていた、きらきらしたものが目の前にいる。

 しかも、僕のことを好きだと言ってくれている。

 これは夢なんだろうか。きっと夢だろう。あまりに僕に都合がよすぎる。ああ、どうか夢なら醒めないでくれ。

 はじけたような笑い声が聞こえた。如月くんだ。彼にしては珍しい、大きな笑い声だ。

「そんな間抜け顔のあなた、初めて見ましたよ。あなたそんな顔もするんですねえ。人間、信じられないことが起きるとこんな顔になっちゃうんですか。ほら鷹司、返事待ってるじゃないですか。返事したらどうです? この子こんなに必死なんですよ、ほら、たまにはちゃんと誠意には誠意で返して、……鷹司、鷹司? あ、あああ、あー、……泣いちゃいましたか」





                              おわり

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