砂漠が広がるイース王国から出た船は海を渡り、一週間ほどかけてアイシュリング王国の港に着いた。
到着を知り、全身を黒い布で覆った人間が一番奥の船室に向かう。その者は目元以外は全て布で隠していて、性別も年齢も外見からは判断できない。
ほとんど音を立てずに開いたドアの先には、絹のクッションが敷かれた椅子に座り、本を読んでいる人間がいた。
本を持つ両手の指には、高価な宝石がついたリングがいくつもはめられている。着用している深紫を基調としたロング丈のチュニックはくるぶしの辺りまであり、繊細な刺繍と装飾が施されていた。そして、チュニックと同じデザインの布を頭にも深く被り、外部からは顔をよく見えないようにしている。しかし、布で顔を覆っていても、その他大勢の人間とは違う特別なオーラを放っている。
「アシム殿下、お支度を」
船室に入ってきた者がスッと姿勢を低くして、自国の第五王子の名を呼ぶ。アシムと呼ばれた男は優雅な動作で本を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
「着いたか」
アシムの声は甘く掠れていて、囁くような話し方だった。
「はい。お役目を全うされますよう、願っております」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
アシムは口元だけに薄く笑みを浮かべ、顔を覆っていた布を外す。
浅黒く艶のある肌のアシムは目鼻立ちがはっきりしていて、エキゾチックでミステリアスな雰囲気の美青年だった。なによりも特徴的なのは、見つめた人を全て虜にすると言われている金色の瞳。さらにはウェーブのかかった黒髪は紫がかり、妖艶な色香を放っている。
「王子様だろうが何だろうが、口説き落としてみせるさ」
そう言って、アシムは立ち上がる。
身長は、百八十センチにわずかに満たないぐらい。ほどよく筋肉のついたしなやかな手足は長く、立っているだけでも人目を引きそうだった。
アシムの声を聞けば腰砕けになり、姿を見れば心奪われる。老若男女問わず手玉にとってしまう彼は、生まれながらの魔性だ――母国では、そう噂されていた。
アシムは机の上に置かれたいくつかの香油瓶を手に取り、それを身体に塗り始める。
黒い宝石がついた金色の耳飾りが垂れ下がっている耳には、華やかな大輪の花の香り。
首には、甘くエキゾチックな花の香り。
さらに手首と足首には、森林の香りをまとう。
さわやかな森の香りの中に、ほんのりと香る甘さ。
目、耳、鼻。第一印象で感じとれる全てを武器として、アシムは父王から言いつかった任務を全うするつもりだった。
資源獲得のために知略を張り巡らせ、領土拡大を虎視眈々と狙うイース王国。一方、圧倒的な武力を誇り、正々堂々たることを良しとする騎士の国アイシュリング。
両国はこれまでに何度か戦になっているが、ようやく今回休戦協定を結んだところだった。和平の証として、両国は自国の布や宝石を贈りあうことに。アシムもまた、イース王国からアイシュリング王国に贈られるたくさんの貢ぎものの一つであった。だが、アシムの真の役目はソレではない。
もしも本当の目的がバレたら間違いなく死罪であるのに、アシムは悠々とした足取りで船を降りる。
日差しが強く、常に熱気がまとわりつく母国とは違い、アイシュリングの地にはさわやかな風が吹いていた。緑の平原がどこまでも広がっていて、自然豊かな国であることが一目で分かる。
だが、美しいアイシュリング王国の景色を見ても、アシムの心は動かなかった。ここは敵国であり、ただ任務を果たすために来た場所にしか過ぎないから。
アシムは船に積んでいたラクダの背に乗り、何人かのお付きの者と共に王城へと向かった。
◇
エメラルドグリーンの湖がすぐそばにある城には、剣と盾が描かれたアイシュリング王家の旗が風になびいていた。甲冑を着た騎士たちに出迎えられ、アシムはラクダから降りる。
「それでは、私たちはこれで」
母国からのお付きの者たちが足を踏み入れるのは、ここまでしか許されていない。全身を布で覆った者たちがアシムに頭を下げる。
「ご苦労だったな」
アシムは彼らに声をかけてから、少し離れたところで待っていた騎士に近づく。
騎士たちが背にしている白い城はロマンティックな雰囲気で、イース王国の赤く情熱的なエネルギーを帯びた宮殿とはまるで違った。長い廊下には赤い絨毯が敷かれ、両端には銀色の燭台がズラリと並んでいる。
アシムはそれらを視界の端に入れながら、騎士の後に続く。清涼な空気の中にも、時々アシムが身にまとう香油がふわりと香る。騎士たちはアシムを気にしながらも、徹底して彼を見ないようにしていた。
「使者様、ようこそいらしてくださった」
王の間に通されたアシムは、アイシュリング国王や王子たちから手厚い歓迎を受ける。アシムは彼らに対してにこやかに接しながらも、さりげなく辺りの様子を窺う。
この場にいる王子は二人、姫が一人。聞いていた人数からは、一人足りないようだが……。
アシムがそんなことを思っていたら、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
慌ただしく入ってきたのは、百八十センチは余裕で超えているだろう長身の年若い男。アイシュリング風の白い軍服には銀色の刺繍がされていて、肩には王家の紋章が描かれている。
それから、虹色のステンドグラスの窓から差した光に照らされた黄金の髪は、キラキラと輝いていた。
昔絵本で見た西の国の王子様みたいだ、とアシムはわずかに目を細める。
今年で二十になるアシムよりも若干若そうだから、彼が第二王子のルークなのかもしれない。
白く、透明感のある肌。アイシュリングの澄み切った空のように青く、無垢な瞳。さわやかで顔立ちは整っているものの、彼の声にも顔にもまだあどけなさが残っていた。
「遅れて申し訳ございませんっ! 客人がいらっしゃることをうっかり忘れて、今まで訓練していて……」
金髪の男は、腰にさした剣の柄に手を当て、軽く息を切らしながらも、国王に頭を下げる。
「何をしているんだ、ルーク。遠路はるばるいらしてくださったアシム様に失礼だろう。早く挨拶なさい」
国王はため息をつき、金髪の男にそう促す。
アシムの予想通り、やはり彼が第二王子のルークで合っていたようだ。
「はっ、はいっ」
顔を上げたルークは、ピッと背筋を正す。
アシムはルークを観察しながら、予想とはだいぶ違うなと密かに思う。年若いながらに外交の才もあり、武芸にも秀でていると父から聞いていたような男とはとても一致しない。もちろん見かけでは判断できないが、立ち居振る舞いも含め、まだ子どものようにしか思えなかった。
「あ、お、遅れてしまい、大変失礼いたしました。アイシュリング王国第二王子、ルーク・アイシュリングと申します」
ルークはあわててアシムの方に向き直り、お辞儀をする。斜めにした姿勢を元に戻した瞬間、ルークは目を見開いた。
「え。あ……」
何も言わなくても、アシムに見惚れているだろうことは簡単に見てとれる。アシムはクスリと笑みを漏らし、ルークと視線を合わせる。
「お初にお目にかかります、ルーク殿下。イース王国から参りました、アシム・ブル・イースと申します」
右手を胸に当てたアシムは上半身を少しだけ傾け、母国での正式な挨拶を披露してみせた。出国したのは初めてにも関わらず、アイシュリング王国の言語を流暢に話し、祖国なまりなどまるで感じさせない。
アシムは顔を上げ、その魅惑的な金の瞳でルークを見つめる。瞬間、ルークの白い肌が赤く染まっていく。
「あ……。よ、よろしく、お願いします……?」
ぎこちなく言葉を返したルークは、まるで機械じかけの人形のようだった。
これが父が危険視していた第二王子、か。思ったよりも早く任務を達成できそうですよ、父上。――アシムは心の中でそんなことを思いながらも、ルークに笑みを返した。