それから、数週間ほどが経った。だが、いまだにアシムは祖国からの命令を果たせていない。
もちろんアシムも何もしていなかったわけではなく、この数週間の間、あの手この手でルークを誘惑しようとしていた。時には大胆にキスを迫ったり、特には寂しそうな顔をしてルークから迫らせようとしてみせたり。しかし、どんな手を使っても、ルークはアシムに手を出そうとはしなかった。
アシムのために、アイシュリング王城や王国内の名所を案内したり、郷土料理を食べさせたりはしてくれる。それに、顔を真っ赤にしながらも「綺麗です」「大好きです」とはしょっちゅう言われる。
それなのに、全く距離を縮められないのだ。
身体の関係を持たないどころか、まだキスさえもできていない。
まさかここまで手こずるとは思わず、アシムはもう意地でもルークと寝ようと思っていた。祖国からの命令だとかは置いておいても、ここで引き下がっては魔性の王子の名が廃るというもの。
もはや半分意地でアシムは誘惑を続けていたが、心のどこかではこの時間を終わらせたくないという気持ちもあった。アシムは、ルークとの時間を楽しんでいたのである。
いつまでも任務を果たさないアシムに対し、国王は今頃痺れを切らしているかもしれないが……。
申し訳ございません、父上。
必ず任務は遂行いたします。ですが、もう少しだけ……私に時間をください。
アシムは心の中で父に謝ってから、与えられた客室の中で、念入りに香油を塗っていた。
今夜は、アイシュリング王国の舞踏会の日だった。アイシュリング式のダンスとはまた違うのかもしれないが、アシムも踊りには自信がある。
ルークにダンスを披露したら、どんな顔をするだろうか。ルークと一緒に踊ったら、きっとまた大げさにうろたえつつ、手をとってくれるんだろうな――気がつけば、アシムはルークのことばかり考えてしまっていた。
いつもよりもさらにきらびやかな布を選び、舞踏会によく映えるゴージャスな宝石も髪や胸元につける。
抜かりなく準備を終えたアシムは、大広間へと向かった。
王族だけではなく貴族も集まる大広間には数えきれないくらいの人がいて、まばゆいシャンデリアがキラキラと輝いていた。いつもは日光が差し込むステンドグラスの窓からは、今夜は月の光でまた別の表情を見せている。
幻想的な空間の中、優雅な音楽に合わせ、ドレスや正装に身を包んだ人々が踊っていた。
あまりにも人が多く、ルークがどこにいるのか見つけられそうになかった。
しかし、たくさんいる人の中でも、アシムは一際目立っている。アシムの美しさもあるが、身につけている衣装がこの国の人とは明らかに違うからだろう。
今夜ぐらいアイシュリング風の正装をしようか迷ったのだが、アシムはあえて自国の衣装を選んだ。きっとこの衣装を見て、ルークの方から見つけてくれるだろうから。
アシムは人を避け、壁際に寄りながらルークを待つ。
しばらくそうしていたら、第一王子のヴィクターが美しい女性と踊っているところが視界に入った。
弟のルークよりも暗めの金髪を持つヴィクターは、ルークとはまた違う系統の美青年。だが、噂通りの女好きのようで、見る度に連れている女性が違った。
相変わらずだな、とアシムは思っていた。しかし、なぜかヴィクターが女性から離れ、こちらに向かって歩いてきているのに気がつく。
「これはこれは、アシム殿下。めずらしいですね、今宵はお一人なのですか」
ヴィクターはうさんくさい笑みを浮かべながら、アシムに話しかけてきた。
「ええ、どなたにも相手にしてもらえず」
「まさか、あなたほどの素敵な方が。今宵のあなたは砂漠に咲く一輪の花のようで、いつも以上にお美しい。きっと恐れ多くて、声がかけられないのですよ」
「そうだと良いのですが」
「僭越ながら、私があなた様のお相手を願いでてもよろしいでしょうか。一曲踊っていただけますか、アシム殿下」
ヴィクターは片目だけをつむり、軽薄な仕草でアシムを誘う。
「私のような者に殿下のお相手が務まるでしょうか」
アシムは作り笑顔を浮かべ、自分を卑下することでやんわりとヴィクターの誘いを断る。
父にもヴィクターは捨ておけと言われているし、アシム自身も彼には全く興味がない。しかし、仮にも自分が身を置く国の第一王子だ。あまり無下にするのは得策ではないだろう。
「ご謙遜を。アシム殿下ほど美しい方は、我が国にもいませんよ」
誘いを断っても、なおヴィクターは引き下がらない。
ヴィクターは女性専門だと思っていたが、そうでもないのだろうか。
ルークは案外口が硬いし、ヴィクターから機密を聞き出すのもアリか? アシムは思考を巡らせ、どう行動するのが最善か考える。
「それでは、失礼して」
答えを出す前にヴィクターに手を握られ、引っ張られる形で、広間の中央にアシムたちは躍り出る。ヴィクターのステップに合わせ、アシムも身体を揺らす。
「驚きました。アシム殿下はダンスにも精通されていらっしゃるのですね」
ヴィクターはアシムの腰に手を回し、至近距離で囁く。
「ヴィクター殿下のリードがお上手だからですよ」
「アシム殿下こそ口もダンスもお上手だ。ぜひ一度ベッドでもお相手をお願いしたいものです」
ヴィクターはねっとりとアシムの腰を撫で、下心を隠さない目つきで誘う。
「あなたがどんな風にベッドで踊るか、私に見せてはいただけませんか?」
これは、応じるべきなのだろうか。
機密情報を聞き出されば良いが、ヴィクターは遊び人だ。情事には慣れているだろうし、一度身体を許したぐらいで、やすやすと機密を漏らすとも思えない。
そうなると、自分が損をするだけ。それに、もしもヴィクターと関係を持ったと知ったら、ルークはどう思うだろうか。純真なルークの目を自分はまっすぐに見つめ返せるだろうか。
アシムの中で迷いが生まれる。
だが、ここでヴィクターからの誘いを断ったら、間違いなく立場が悪くなるだろう。
「私ではなくても、ヴィクター殿下ほどの方なら喜んでお相手したい人が数多もいるでしょうに。殿下の誘いに応じたら、私が他の女性に恨まれてしまいますよ」
曖昧な笑みを浮かべて逃げ切ろうとしたが、そんなことで逃すヴィクターではなかったらしい。
「私があなたをお守りしますよ」
ヴィクターは逃さないとばかりにアシムの腰を右手でキープしつつも、左手をアシムのあごに添え、クイっと上を向かせる。
ルークにも同じようなことを言われたが、あの時とはまるで感じ方が違う。ルークのソレには、軽薄さを少しも感じなかったのに。ヴィクターから言われても、少しも心が動かない。軽い言葉にしか感じない。
アシムのアゴを掴んだヴィクターの顔がどんどん近づいてきて、何をしようとしているのかは明確であった。
たかが唇と唇が触れるだけ、大したことではない。
それなのに、アシムは嫌だと思ってしまった。キスをするなら、ルークが良い。
しかし、立場的にヴィクターを拒絶することはできず、アシムは仕方なく目をつむる。
「兄上!? 何をなさっていらっしゃるのですか!」
唇が重なる前に、アシムの耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。アシムが目を開けると、やはりそこには正装したルークがいた。いつもの軍服とは違い、ブルーのジャケットに身を包んだ今日のルークは少し大人びて見える。
「ああ、ルークか。アシム殿下を口説いてたところだよ。お前の恋人ではないようだから、構わないだろう」
「なっ……! 構いますよ! 大切な客人に妙な真似はなさらないでください!」
ルークを血相を変え、ヴィクターからアシムを引き剥がす。
「客人を口説いてはいけない決まりでもあるのか?」
「いい加減にしてください! 兄上にはいくらでも他の方がいらっしゃるじゃないですか。私にはアシム様しかいないんですよ!」
ルークはヴィクターから守るようにして、アシムを背中に隠す。
ヴィクターはしばらく何も言わなかったが、やがて声を立てて笑い始めた。
「はは……! 色事にはまるで興味のないと思っていたお前がそこまで言うなんてな。まあ、いいさ。今日のところは引いてやるよ。それではまた、アシム殿下」
ヴィクターは楽しそうに笑いながら、去り際にアシムの頬をすっと撫でていった。
「あ……、ちょ……! 兄上、あなたって人は……!」
ルークが後ろから怒りで声を震わせても、ヴィクターはただ片手を上げるだけだった。