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第4話 結城紡はバイトを探す

「もしもし、結城です。あ、いつもお世話になってます」


 金曜日の放課後。週に一度の大切な「病院」のスケジュールを済ませ、家へと帰り自室に腰を落ち着けた俺を待っていたのは、単発日雇いバイトの派遣元から連絡の連絡だった。


「……はい、今週末にある商業施設のイベントスタッフですね、はい、そうです。……えっ、ブッキングですか? そうですか……いえ、大丈夫です、わかりました。ええ、また機会があればよろしくお願いします。はい、それでは、失礼します」


 通話が終わると同時に、暗転したスマホの画面を見ると、そこにはあからさまに気落ちする自分の顔が映っていた。


「かぁ~! 土日の単発、ブッキングで両方キャンセルってマジかよ……」


 スマホを枕元に放り投げると、俺はベッドに大の字になって横たわった。実入りの大きい土日のバイトが、派遣元の手違いで定員オーバーによるキャンセルになったとくれば、そんな態度をとりたくなるのも無理からぬ話というものだ。

 単発日雇い派遣をする上で一番恐れることが、まさにこのドタキャンで、過去にも何度か集合場所まで行ったら、定員オーバーで交通費だけ渡されて帰されることがあった。こうなると、その日はバイトが入れられないので、少しでも多く金の欲しいこちらとしては、たまったものじゃない。今回は連絡が前日にあっただけ、まだましな方だったともいえる。


「しかし、今から入れるバイト探すのもなぁ……」


 かといって、前日に連絡されても、翌日に参加できる割のいいバイトが残っていることはほとんどない。大概、きつめの肉体労働を伴う、人気にんきのない業務が残っているのがオチだ。そんなバイトを選んだら、少し前に手放した疲労感が、再びこの体に舞い戻ってくること請け合いである。


「……ぼやいてても仕方ないか。ならいっそ、今週末はバイト探しにてるかなぁ」


 そこで俺は、降って湧いたこの休みを、バイト探しに費やすことに決めた。

 以前に、バイトの時間を削ることを決めた以上、これからのバイトにはより安定性が求められる。だから、土日のバイトは突発的なキャンセルがある単発日雇い派遣ではなく、長期契約の方が都合がいい。

 ちなみに、一番お世話になっている中華料理店のバイトは、飯時のピークタイム以外に中休みがあるので、フルタイムでの募集はしていないため、土日は働けない。だから、今回のバイトは完全に新規開拓する必要があって、そのためには、ある程度まとまった時間が。


「とりあえず、コンビニにいって飯を買うついでに、無料の求人雑誌でもとってこよう」


 バイトを入れていない金曜日はまかないもないため、夕食を自分で用意する必要がある。節約のため普段は自炊しているし、食材もスーパーで買っている。

 しかし、職探しをするとなると、今から腰を据えて求人とにらめっこしないといけない。


「しかたない。必要経費と割りきって、今日の夕食はコンビニにするか、っと」


 そう呟いて、ベッドから飛び起きた俺は、鞄の中から財布をつかんで、夕闇が迫る街へと繰り出すのだった。



◇◇◇



 しばらくして帰宅した俺は、買ってきた弁当ーー運良く割引シール付きのものが残っていたーーをレンジで温めてから、食卓の前に腰を下ろす。冷蔵庫から取り出していた水出しの麦茶をコップに注ぎ、一口飲んで喉を潤したところで食卓を見渡す。広々とした食卓の上には、よく見るとうっすらと埃が積もっていて、長期間その役目を果たしていなかったことがうかがえる。

 一人暮らしの自分にとって、食卓に座ることは、かつてそこにあった団欒だんらんを思い起こさせて、いつも物寂しい気分になる。最近はもっぱら、部屋にある学習机まで食事を運んで食べていたのだが、今日は求人雑誌を置くための、広いスペースが必要だった。寂しさを紛らわせるために、俺は積もった埃を隠すように、食卓いっぱいに雑誌を広げた。

 最近は、アプリでバイトを探すことが主流な時代になっているが、俺は逆に、アプリよりも紙媒体の求人雑誌を頼ることが多い。紙媒体の求人はアプリと違って配るエリアが絞られているため、地元に特化した求人を見つけやすい。それに、頻繁に更新できるアプリと違って、紙の求人は発行にコストや手間がかかるため、いい加減な求人が排除されているというメリットもある。だから、意外とアプリから漏れた優良な求人が転がっていることがあるのだ。

 実は、今、お世話になっている中華料理店も、無料の求人雑誌で見つけたバイトなのだ。だから、街中で無料の求人雑誌を見かけたときには、何かいいバイトはないかと、しばしば家に持ち帰るようにしていた。


「さーて、何かいいバイトはないかなー」


 弁当をつまみながら、誌面に目を通す。雑多な求人が並ぶ誌面だったが、求める条件に合う求人は中々見つからない。

 こちらの希望としては、土日のフルタイムなのだが、フルタイムのシフトだと、土日歓迎のところでも、週3,4日は出て欲しいという条件のところが多く、土日のみというところは意外と少ない。その条件がマッチしても、学生不可だったり、有資格者のみなどの条件で弾かれてしまう。


「はぁ~、上手く行かないもんだなぁ」


 右手で箸を動かしながら、左手は箸にも棒にもかからない雑誌のページを捲って、思わず溜め息をつく。

 こうなってしまう理由はなんとくわかる。俺の欲しがっている、フルタイムで実入りのいい求人は、高校生活の片手間にやる小遣い稼ぎのバイトではなくて、フリーターや社会人向けの求人なのだ。がっつりと生活費を稼ぎたい人間向けだから、拘束される日数もおのずと増えるわけである。

 もちろん、こうなることを想定して、高校をやめて働くことを考えなかったこともない。でも、バイトを探している内に、中卒と高卒では働ける職種や賃金にかなりの差があることに気づいた。今後、どれだけの金が必要になるかわからない以上、就職の選択肢を増やして、賃金のベースを上げてくれる高卒の資格ぐらいは、せめてとっておきたかった。


「やっぱり、ただの高校生に世間は厳しいか……」


 社会の中に片足を踏み入れて、俺は初めて、資格というものは、社会をスムーズに動き回るための通行手形なのだということを理解した。

 まだ、高校卒業という資格すら持たない俺に、世間の風は厳しかった。ほんの少し前まで、まさか自分がこの歳で働くなんて毛頭考えていなかったから、スキルや資格なんて呼べるものは一つもない。

 もし、こうなるとわかっていたなら、工業高校にでも進学して、手に職でもつける道を選んでいたはずだ。

 しかし、現実はそうはならず、今の俺は、どうにもならないことをどうにかしようとして、あえいでいるような有り様だ。「人生は配られたカードで勝負するしかない」とはよく言うが、まさか、カード資格が配られる前にゲーム社会に参加させられるとは思ってもみなかった。現実というやつは、人生という名の天秤を、こちらの都合などお構い無しに傾けてくるから性質たちが悪い。


 ……さえ起こらなければ、俺だって、もっとましな人生を送っていたはずなのにな。


 どうにもならない現実を突きつけられる度に、俺は決まってある事件を思い出す。それは、自分を今の状況に追いやった元凶で、今さらどうしようもない過去の出来事だ。

 それでも、理解と納得は別物のようで、心が落ち込むと、いつだって考えるのは事件が起こらなかった未来ifのことだ。

 事件がなければ、俺は今でも家族で食卓を囲んでいただろうし、金のために必死になってバイトを探すこともなかっただろう。高校生活も人並みの青春を送れただろうし、幼馴染みに心配をかけることもなかっただろう。

 これらは皆、あり得ない未来だが、それと同時にあり得たはずの未来でもあった。人間、全く手の届かない幻想を否定されるよりも、少し手を伸ばせば届くかも知れなかった可能性を否定されることの方が、よほど精神的にこたえるものだということを、嫌というほど思い知らされた。


「……もう、考えるのはやめよう」


 俺はあえて口に出して、暗い思考を放棄した。言霊ことだまとでもいうのだろうか、最近、考えは口に出した方が行動に移しやすいと感じるようになってきた。いつまでもうじうじと、自分の中だけで考えをこね繰り回すよりも、声という形で一度出力した方が、精神衛生上でもいいのかもしれない。

 元々は、一人暮らしの寂しさを紛らわすために、独り言でも喋る癖をつけていたのだが、それが今になって、思わぬ形でプラスに働いていた。


「今、俺がやることは仕事探し、仕事探し!」


 自分に言い聞かせるように、語気を強めてやるべきことを口にする。何かをしている間は、余計なことを考えることもない。俺はひたすら雑誌を捲り、情報を処理することに集中する。


「いいバイト、いいバイト……ん?」


 その求人を見つけたのは、ちょうど雑誌の最後のページを捲ったときだった。掲載企業の一番最後尾に載った求人、それは俺の目を疑うような内容だった。


「勤務形態応相談、シフト自由、土日歓迎、勤務日数不問、資格等条件無し、月給……40万円から!?」


 募集条件の後半部分を読む俺の声は、気がつけば叫び声に変わっていた。最大が40万ではなく、最小が40万の求人で、ここまで緩い条件は初めて見た。


「いや待て、これは絶対にまともな求人じゃないだろ……ひょっとして、今、流行りの闇バイトとかか?」


 しかし、数々の求人情報を見比べてきた俺はすぐに冷静になった。ここまで好条件の求人は、大概どこかに落とし穴があると相場が決まっている。こちらの条件にマッチしているかだけではなく、相手の提示するすべての情報を精査することが肝心だ。


「業態は『BtoW』……?『BtoB』じゃないのか? 事業内容は『原料となる資源の輸出業』で、業務内容は『現地訪問を伴う輸出用資源の確保』か。表向きは、貿易商社の営業職だけど……考えられる線としては、自動車窃盗や銅線窃盗あたりの闇バイトか」


 求人情報に書かれた情報を読んで、真っ先に思い浮かんだのが、今、社会的にも問題になっている闇バイトのことだった。

 業務内容に「資源の確保」と書かれているが、「確保」の手段が「契約ごうほう」か「窃盗ひごうほう」かどうかはわからない。それに、銅線などは様々な工業製品の「原料」になるため、書かれた情報にも矛盾しない。勤務日数が不問な点も、犯行に及ぶ日だけが勤務日と考えれば説明が付く。

 いくら実入りのいいバイトでも、犯罪の片棒を担ぐわけにはいかない。もし、警察の厄介になることがあったら、色んな意味で一巻の終わりだ。余計なリスクを負わないためにも、判断は慎重に下さなければならない。


「しかし、仮に銅線窃盗だとして、月40万も報酬が貰えるのか?」


 一方で、闇バイトの線を考えたとき、俺が疑問に思ったのは報酬の高さだ。スマホで軽く調べたところ、銅線の取引価格は、現在1トンで100万弱らしい。運搬などにかかる諸経費を差し引いて考えると、一人で1月500キロほどの銅線を確保できれば、40万の報酬はあり得ないとはいえない。

 しかし、そんなに大量の銅線をコンスタントに盗めるものなのだろうか。一度犯行が露呈すれば、しばらくの間は警戒されて、間違いなく次の犯行は厳しくなるだろう。かといって、警戒を避けて各地を飛び回れば、求人情報に書かれた拘束日数の少なさと矛盾する。

 それに、シフトはこちらで自由に組めるのだ。もし何らかの犯行に及ぶなら、そのシフトは企業側が指定してくるはずだ。


「もしも合法シロなら、扱う商材がかなり特殊なタイプの商社って可能性はあるか」


 いわゆる「隙間産業」的なタイプの商社なら、競合する企業がなければ、販路はんろを独占して小規模な会社でも大きな利益を生んでいることは十分に考えられる。

 もし、そうだとしたら、この求人は大きなチャンスだ。ここでバイトとして経験を積んで、あわよくば正社員として登用されれば、これ以上の給与を得ることも夢ではない。そうすれば、俺が抱えている金銭面の問題はかなり楽になることは間違いない。


「……怪しいところが無いとは言えないが、ひとまず、連絡するだけなら、まぁ、アリかな?」


 後になって思えば、このときの俺はどうにかしていたとしかいいようがない。普段の俺なら、リスクを天秤にかけて、間違いなくこんな怪しい求人には応募しなかった。電話をかけるにしても、番号を非通知にするなり、録音機能を使うなり、リスクを避ける何らかの手段を使っていたはずだった。 

 しかも、時刻はもう、普通の会社なら終業時刻を回っている頃だった。電話が繋がらない可能性も十分にあったし、そもそも、勤務時間外に電話をかけるのは失礼に当たるということも知っていた。

 それなのに、俺の手はあまりにも無警戒に、記載された電話番号をスマホに打ち込んで送信ボタンをタップしていた。

 数回のコール音の後、受話器が上がるノイズが響いてから電話が繋がった。


「もしm……「あっれぇー!? マギア~、なんかこれ持ったら、ベルの音が止まったッスよ?」


 俺の声に割り込むように、電話口から聞こえてきたのは、若い女性の声だった。少女といっても差し支えのない声質を持つ声の主は、電話の操作が覚束おぼつかないようで、受話器を口元から離してはいるのだろうが、その声量のせいで戸惑う声がこちらまで駄々漏れだ。

 その背後からだろうか、内容こそ聞き取れないが、何やら彼女に向かって指示を出しているような声も聞こえてくる。どうやら電話の向こうには複数の相手がいるらしい。


「何なんスか、これ? え、何、繋がってる? まじッスか?」


 ここでようやく、電話の彼女はこちらと通話が繋がっていることに気づいたらしい。それから、なにやらごそごそと動く音が聞こえてから「あのー?」と、こちらの様子を探るような声が聞こえる。


「もしもし、繋がってますか?」

「あっ、どうもッス! 私はエマっていうッス!」


 電話の向こうの彼女が、恐らく「エマ」と名乗った瞬間、スピーカー越しにでもわかるほど大きな「ゴツン」という鈍い音が響いて、少し間を置いて「うぎゃー!?」という、耳をつんざくような断末魔の絶叫が木霊こだました。「ゴツン」が聞こえた段階で、スマホを耳から離していたことは、まさに英断だったといえるだろう。スピーカーに耳を押し当てたままだったら、俺の鼓膜はどうにかなっていたに違いない。

 しかし、電話越しとはいえ、明らかに事件性のある叫び声を聞いてしまったこちらの心中は穏やかではなかった。安否を確認するために、俺は慌てて、電話の向こうで痛みにもだえているであろう彼女に向かって呼びかけた。


「もしもし、大丈夫ですか!? もしもーし!?」 

「……申し訳ない、うちのが失礼した」


 スピーカーから聞こえてきた声は、先程の彼女とは似てもにつかぬ落ち着いた声だった。電話の相手が突然変わったことに戸惑った俺は、「えっ、あっ、どうも」と、なんともぎこちない返事をしてしまう。

 声を聞く限り、今度の相手もまた若い女性のようだ。しかし、「社員」という言葉を強調したことから、今電話に出ている相手の方が先程電話に出た彼女よりも役職が上であるということがわかる。


「彼女はまだ、こういった対応に慣れていなくてね。もし、気分を害したなら申し訳ない」

「いえ、お構いなく。こちらこそ、夜分に突然のお電話、失礼しました」


 気を取り直して、電話の相手と社交辞令の言葉を交わす。何度聞いても声は若い女性のものなのだが、その鷹揚おうような口調や、どことなく威厳を感じる言い回しからは、どこか老成した雰囲気も感じられる。何やら正体の掴みどころがない、不思議な声の持ち主だった。


 もしかすると、この人はこっちが思ってるよりも、かなり上の立場の人間かもしれないな。


 そう感じた俺は、相手に気取られぬように呼吸を整えると、電話の前で居住いを正す。こういうときは、相手に見られていなくても、きちんとした振る舞いをすることが、相手に誠意を伝えるために重要なことを、今までの経験則から理解していた。

 心を落ち着けて、相手の出方を窺っていると、それほど間を置かずに、先方から再び会話の口火が切られる。


「申し訳ないが、こちらの不手際で、まだお名前とご用件を伺っていなかった。恐縮だが、伺ってもよろしいかね」

「はい。わたくしは、県立翔陽しょうよう高等学校、第2学年に在籍しております、結城ゆうきと申します。この度、情報誌に掲載されておりました、御社の求人を拝見して、ご連絡しました。まだ、募集はされていらっしゃいますか」

「ああ、求人を見てくれたのだね。採用の枠はまだ空いているよ。そうすると、これは採用希望の連絡と考えて構わないかな」


 かなりの優良求人だったが、やはり怪しさから敬遠されたのだろうか、どうやらまだ採用は決まっていなかったらしい。心の中の歓喜を表に出さないように努めて、「はい、よろしくお願いします」と簡潔に伝える。

 そのとき、電話の向こうからかすかなざわめきが聞こえた気がしたが、それを遮るように再びスピーカーから声が響く。


「では、直接合って詳細な話がしたいのだが、ご予定はいかがかな」

「直近ですと、土日で恐縮なのですが、明日と明後日は終日都合がつきますが、いかがでしょうか」

「ありがたい申し出に感謝するよ。こちらも、なるべく早く人手が欲しかったのでね。それでは、明日の午前9時に、こちらのオフィスまでお越しいただけるだろうか。場所がわからないようなら、口頭でよければ伝えさせていただこう」

「少々お待ちください」


 スマホを肩と頬で挟みながら、求人雑誌の紙面に目を落とす。そこに添付されている会社付近の略図から、ここからそう遠くない場所だということがわかる。こちらの行動圏内のため、まず迷うことはないだろう。


「はい、求人に載った場所でよろしければ、大丈夫です。それとは別に、一つ確認させていただきたいのですが、当日は何か準備していくものはございますか」

「ああ、場所はそこで間違いない。準備の方は……そうだな、筆記用具と印鑑、身分を証明するもの、そして、簡単な経歴書のようなものがあれば話が早い。少し性急な話で申し訳ないが、準備できるだろうか」

「はい、ご指定のものは全て手元にありますので、本日中に用意しておきます」

「それは結構、では、明日のお越しを心待ちにしているよ。私は、代表取締役の……真木マギだ。よろしく頼む」


 相手の――どうやら、真木さんというらしい――口から出た「代表取締役」の言葉を聞いて、俺は自分の予想が間違いでなかったことに安堵あんどした。考えうる限りの無難な対応はできた自負があるし、ここまで話が進めば、あとはもうこちらのものだ。


「真木様ですね、承知しました。本日は急なお電話にご対応いただき、ありがとうございます。それでは明日、よろしくお願いいたします」

「承知した。では、私はこれで失礼させていただくよ」

「はい、失礼いたします」


 真木さんが受話器を置いて、通話が切れたことを確認してから、俺は自分の部屋まで走っていくと、ベッドの上に仰向けに身を投げ出し、両手の拳を天へと突き上げた。


「おっしゃあ! 面接の約束アポ決まったぁ!」


 話がトントン拍子に進んだことと、電話の連絡の緊張から解放された俺は、なかば叫ぶように声を上げる。

 先ほどまでの会話では、先方からの印象は悪くなさそうだった。ここから先、何度選考があるかはわからないが、「人員の確保を急いでいる」と言っていたので、早ければ明日にでも採用が決まることだって大いにあり得る。

 もし、土日のバイトが決まれば、毎回、日雇い派遣のバイトを探す必要もなくなる。そして何より、金銭面の問題が解決に向けて大きく前進することがありがたかった。


「いくら印象が悪くないとはいえ、ここから絶対に失敗するわけにはいかないからな。とりあえず、早めに履歴書だけでも書いとくか」


 「鉄は熱いうちに打て」ということで、寝たばかりのベッドから飛び起きると、学習机に向かった俺は、引き出しから履歴書を取り出して、ペンで枠を埋めていく。

 もう何十枚と書いた履歴書の文面は、何も見ないでもそらんじることができるぐらいだ。その分、それを文字に出力するときに、丁寧に書くことに力を費やす。今となっては入力も一般的になった履歴書だが、書ける資格の少ない俺は、手書きの文字の美しさで、少しでも付加価値を付けることを忘れない。

 ゆっくりと、しかし、止まることなく動いていたペンは、志望動機の記入欄でピタリと止まる。


「そういえば、真木さんの会社の名前って、漢字でどう書いたっけ」


 会社の社名に使われていた漢字は、いわゆる「薔薇ばら」のような「読めるけど書くときに合っているかどうか迷うタイプ」の漢字だった。流石に、これから採用面接に伺う会社の社名を間違うのはまずいので、改めて求人雑誌を開いて社名をを探す。

 そして、目当ての社名を見つけると、間違わないようにしっかりと見比べながら、履歴書に漢字を書き写す。それから、再びペンはさらさらと履歴書の上を走り始めた。


「『たちばな商会』かぁ……。一体、どんな会社なんだろうな」


 履歴書に、自分の手で記された社名を見ながら、俺はまだ見ぬその会社に想いをせていたのだった。



◇◇◇



 今思えば、このとき俺が想いを馳せるべきことは、もっと他にあった。

 いつもなら、人生の選択についてのリスクヘッジは、もっと念入りに行うはずなのに、なぜ情報を詳しく調べもせずに、すぐに電話をかけたのか。

 電話の向こうで、明らかに怪しい人物たちによる、明らかに怪しいやり取りがあったのに、なぜそれを不審に思わなかったのか。

 勤務時間外に連絡したにも関わらず、代表取締役にまで取り次げたのは、話があまりにもトントン拍子に進みすぎてはいないか。

 他にも考えるべきことはたくさんあったはずだ。

 もしかすると、俺は求人雑誌をみたときから既に、あの「社長」によって、のかもしれない。本人は否定するだろうが、十中八九そうに違いない。

 まぁ、それも今となってはせんなきことだ。


 もう俺は、彼女たちから逃げることはできないのだから。



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