「……はい、はい、すみません。明日は出られますんで、はい、よろしくお願いします。……ありがとうございます、それでは、失礼します」
通話終了のボタンを押すと同時に「連絡終了」と呟いて、俺はベッドに倒れ込んだ。
今まで、一度も当日欠勤をしたことのない俺からの連絡に、店長は少し驚いた様子だった。幸い、今日は余裕があったようで、店長は俺のことを労って、調子が悪いなら無理せず明日も休んでくれて構わないとまで言ってくれた。
「ありがたいなぁ……」
ベッドに仰向けに転がったまま、一人呟く。帰宅したときのまま電気も点けず、ブラインドを閉めたままの部屋には、心地よい薄暗がりが広がっている。なにもせずに横たわっていると、疲れから今にも
「……だめだ、先にやることをやらないと」
閉じそうになる瞼を無理やりこじ開け、ほほ緩慢な動きで勉強机へと向かう。椅子に座りデスクライトを灯すと、足元においていた鞄から手帳を取り出し、今月のスケジュールが書かれたページを開く。学校で花菜の前で口に出した、バイト予定の見直しをするためだ。
「口に出した以上は、ちゃんと見直さないと、後で絶対、文句を言われるからなぁ」
そうぼやきながら開いたページには、ほぼ余すところなく、びっしりと文字が書き込まれている。そのほとんどが、バイトに関するものだ。スケジュールを一つ一つ、人差し指叩いて確認しながら、減らせそうなシフトはないか考えていく。
「流石に、土日に全部、単発入れてるのはヤバいか。でも拘束が長い分、実入りが一番いいのもここなんだよなぁ……」
人差し指が真っ先に止まったのは、健全な高校生であれば週休日であるはずの土日の部分だ。丸二日、融通が効くこの日は、俺にとって単発で長時間拘束の日雇いバイトをいれるにはうってつけの日だった。
確かに、本来なら休むはずの日を労働で埋めている分だけ、ここのバイトが疲労蓄積の原因になっている感は否めない。
だとしても、出きるだけ金を稼ぐという目的がある以上、俺が稼ぐ金の中でかなりの割合を占める、ここのバイトは削りたくない。それに、土日のバイトを削っても、放課後に花菜と帰る時間は取れないので、結局、後で彼女からお小言を貰いそうなことに変わりはない。
「……うん、やっぱり土日はそのままだな。次は、早朝の新聞配達とポスティングか」
次に目を付けたのは、早朝にやっている新聞配達とポスティングだ。もしこれを削るなら、下校は無理でも登校は一緒にできるので、花菜もなんとか
しかし、よくよく考えてみれば、新聞配達は休刊日以外は毎日のことで、配達エリアの都合もあって、週の中で1日だけ別の人に頼むというのは難しい。ポスティングの方はというと、実質的に新聞配達との
かといって全部削るかといわれたら、今の俺にそんな余裕がないのは自明の理だった。
「…….これも無理かぁ。となると、最後は、放課後に週四で入れてる『東洋楼』か」
最後に上がった選択肢は、先ほど欠勤の連絡を入れてた『東洋楼』だ。しかし、確認を後に回したことからもわかるように、ここのバイトはできれば減らしたくない。
その理由はいくつかある。まず、『東洋楼』は個人経営で、今日のようにシフトの融通をかなり柔軟にしてくれるから。それに、シフト面以外でも、こちらの事情に色々と配慮してくれているため、シフトを開けるのが申し訳ない。
次に、一番長くバイトしているので、仕事に慣れているから。仕事に慣れているかどうかは、バイト後の疲労感に大きく影響する。多くのバイトを掛け持ちする以上、なるべく疲労を溜めないバイトを多く入れるのが望ましい。
最後に、ここのバイトは
俺は今、やむにやまれぬ事情があって一人暮らしをしている。必然、家事の類いは
そんなときに、賄いの付くバイトは、家事を時短する意味でも、食費を軽減する意味でも大きな意味を持ってくる。複数のメリットを兼ね備えたバイトを、あえて削る必要性があるだろうか。
そこまで考えたところで、俺は大きなため息を一つ吐くと、天を仰いだ。
「……削れるバイト、無くない?」
やはり、どう考えても削れるバイトはない。そもそも、どれも今の自分にとって、金を稼ぐために必要だからこそ、これだけ密にバイトを入れているのだ。必要がないなら、俺はとっくにバイトを減らして、もっとまともな高校生らしい生活を送っている。
友人との時間や休息の時間、そして花菜の笑顔などを確保することも、俺にとっては確かに大切だ。しかし、心の天秤で釣り合いを取るときに、たとえ同じ皿に載っていても金とこれらの価値が全て等しい訳ではない。もしも天秤が傾いて、皿に載ったものを棄てることになるとしたら、金よりも先にこれらの中から棄てるものを選らばなければならない。
俺にとって、最優先なものは金だ。だからこそ、優先順位が低いものを残すために、最優先のものを皿から棄てる計画を立てるという今の行為は、明らかに利に適っていない。そうなると、考えがまとまらないのも当然だった。
「やっぱり、どうにもならないかぁ。でもーー」
再び指で予定表をなぞりながら、あるところで俺の指が止まる。それは金曜日の放課後。毎週この時間だけは、バイトの文字がなく、それと置き換わるように「病院」の2文字が書かれている。
「ーーないな、ここは絶対にない」
一瞬止まった指をすぐに離して、浮かんだ考えを否定するように頭を左右に振る。
この「病院」の時間だけは絶対に削ることはできない。なぜなら、ここに俺が金を必要とする全ての理由が詰まっているからだ。いくら時間がほしいからといって、ここを蔑ろにしてしまうと、本末転倒になってしまう。
「……やっぱり、疲れてんなぁ、俺」
あり得ないようなことを、一瞬でも考えてしまった俺は、改めて自分の疲れを認識して、手帳をなぞっていた左手で目頭を押さえた。目の奥はじんわりと重く、血液の代わりに鉛でも流れているかのような錯覚すら覚える。今はもう何も考えない方が、まだましかもしれない。
「……少し寝よう」
そう決断して、デスクライトを消すと、倒れるようにベッドに横になった。今度は、瞼が落ちるに任せるまま、自分でも気がつかないほど一瞬で、俺は眠りの淵へと落ちていった。
◇◇◇
人体というものは、不安定にできているようで、どうやら体が疲れすぎていても睡眠の質は下がるらしい。浅い眠りから覚めた俺が時計を確認すると、まだ2時間ほどしか経っていなかった。
バイトを休んだおかげで、今日の夜はまだまだ長い。久しぶりに、体をゆっくり休めようと考えた俺は、風呂掃除を済ませてから、湯船にたっぷりとお湯を張った。
いつも、バイトを終えてから家に帰ると、家事や学校の課題が待っているので、夜は湯船に浸かる時間すら惜しい。ガス代なんかを節約することも繋がるから、最近はずっと、入浴はシャワーで済ませていた。
湯船に浸かる前に体を洗うため、シャワーの前に立つ。浴室に据え付けられた鏡をみると、そこには、暖色の照明を受けてもなお、
「確かに、花菜も心配するわけだわ」
人としての生気を失いつつある自分の顔に、流石の俺も危機感を覚えた。よくよく見ると体の方も、前より痩せたというよりは、なんだかやつれた印象を受ける。バイトでは力仕事もしているため、筋肉のメリハリはあるものの、それと引き換えに生存に必要な部分が少しずつ削ぎ落とされているような、隠しようのない歪さが浮き彫りになっていた。自分の変化というものは、存外に自分自身では気付けないものだと実感する。
そういった意味では、今日、花菜の誘いに乗って仕事を休んだことは、まさに英断だったかもしれない。
「まったく、幼馴染み様々だな」
体を洗い終えた俺は、花菜への感謝を呟きながら、湯船へと足を入れていく。全身が湯に浸かると、思わず「ふーっ」と溜め息が出る。
「ああ……やっぱり風呂はいいな」
湯のもたらす温かさを全身に感じながら、普段はシャワーで済ませる自分も、やはり風呂文化で育った日本人であることを実感する。疲れて冷えた体が熱を求め、熱が体内に入ると、それと引き換えに疲れが湯船へと溶け出していくような感覚に陥る。
実際、体の緊張が解れて、同時に正常な思考力も少し戻り始めたように感じる。
「そうだ、バイトの回数が減らせないなら、一回当たりの時間を少し減らせばいい。申し訳ないけど、『東洋楼』のバイトを週に2回は時短してもらって、そのときは花菜と一緒に帰ったり、自分のために時間を使ったりする……これだな」
疲れで凝り固まった頭が
完璧に取り除くことができなければ、少し削ることで調整する。こんな簡単なことすら思いつかないほど疲れていたのかと、思わず苦笑してしまう。
あるいは、何事も天秤に掛けるのに慣れすぎて、0か1でしか物事を考えられなくなっていたのかもしれない。
今度は、頭の中で凝り固まった考えを洗い流すように、湯船のお湯を両手で掬って顔を洗うと、また新しい考えが浮かんでくる。
「それで、土日のバイトは内容を少し見直そう。単発日雇いより実入りは悪くても、定期で安定したバイトを見つけて体を慣らしていけば、今より疲れることもなくなるだろう。うん、それがいい」
ひとまず、現状を打開するプランを立てた俺は、先ほどまで顔に浮かべていた苦笑を微笑へと変えて、口元までとっぷりと浸かるほど、湯船に体を深く沈めた。
明日からは、仕事探しでまた忙しくなるから、今日くらいはできるだけ休息を満喫しないとな。体だけじゃなくて、頭もしっかりと休めとくか。
そこまで考えると、俺は思考を放棄した。瞼を閉じ、湯の温かさに身を任せると、永遠にこの時間が続けばいいとさえ思えてくる。
それからしばらくの間、俺の口から時おり漏れる吐息の泡が、水面に上って弾ける音が聞こえるほどに、心地よい静寂が風呂場に満ちていた。