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第2話 結城紡はいつも気だるげ


 ……くん、つむぐくん。


 思考の片隅に割り込むように、どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。どうやら、考え事をしながら、少し微睡まどろんでいたらしい。意識が明瞭になるにつれて、突っ伏している学習机の天板の冷たさが頬を刺す。


「紡くん……紡くん……」

「んん……?」


 徐々に感覚を取り戻しながら、やはり、声が幻聴ではなかったことに気づく。誰かが俺を起こそうとしているようだ。

 それでも、だるさからあえて動かずにいると、今度は指で右肘の辺りをつつかれた。声の主は、よほど俺のことを起こしたいらしい。

 2、3回つつかれたところで、ようやく、緩慢な動きで頭を上げる。そのまま右側を見ると、隣の席に座る幼馴染みでありクラスメイトでもある少女、花山田はなやまだ花菜はなのぱっちりとした目が、こちらを見つめていた。彼女は、教科書を目の前で立てるように広げて、自分の顔を隠しながら、チラチラとこちらを窺い、何やら落ち着かない様子だ。彼女がこちらに視線を送るたびに、反動でボブカットの髪の裾がふわりと舞う。その動きが、寝起きの目をチカチカと刺激する。


「どうした……?」


 何かトラブルでもあったのかと、寝起き特有のしゃがれた声で問いかけると、相変わらず教科書で顔を隠したまま、花菜はこちらに顔をズイッと近付け、耳打ちするように囁く。


「どうしたもこうしたもないよ、紡くん。そろそろ起きないと、もうすぐ音読の順番だよ」

「…………マジ?」


 花菜の一言で、意識が急速に覚醒する。例えるならそれは、友達と遊ぶ約束をした日の朝に、思ったよりもぐっすりと二度寝してしまい、目が覚めた瞬間に遅刻を確信したときのような、嫌な感覚だった。


「今、教科書何ページよ!?」

「68ページの4行目だよ~、急いで急いで!」


 急かされるままに教科書を開くのと、前の席のクラスメイトが、音読を終えて椅子に座るのは、ほぼ同時だった。前方の視界が開けて、教壇に立つ、クラス担任でもある島田しまだ佐和子さわこ先生の、ぎらついた三白眼と目があった。


「おっし、じゃあ次の文を結城ゆうき、読んでみろ」

「は、はい」


 仕事は人生の暇潰し、と公言してはばからない島田先生の気だるげな声に促され、教科書を手に席を立つ。


「えー……、The cop警官は, thinking the crookその悪党が was about to draw a gun銃を抜こうとしていると考えて, said言った, “Go ahead撃ってみな, make my day!俺を楽しませてくれ”」


 音読を終えた瞬間、謎の沈黙が教室を支配した。その訳を知るために、とりあえず一番近い花菜に視線を送ってみたが、彼女は教科書で顔を隠して、こちらに視線を合わそうとしない。

 訳の分からない沈黙が続くなか、それを打ち破ったのは壇上の島田先生だった。


「結城ぃ、いい発音だなぁ。ネイティブ顔負けじゃあないかぁ」

「あ、ありがとうございます……?」


 別段、気合いを入れて音読したわけではなかったが、島田先生は、ねっとりとした口調で、やけにこちらを褒めてくる。その様子にいぶかしむ視線を送る俺だったが、先生はこちらを一瞥もせず、何度も頷きながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。


「いやぁ、本当にいい発音だ。んだがなぁ」

「……あ」


 島田先生が手の上でポンポンともてあそんでいる、教科書の表紙に書かれた『現代の国語』の文字を確かめた瞬間、俺は全身の血の気が引いていくのを感じた。顔をひきつらせながら教科書から視線を上げると、そこで初めて、目の前までやってきた先生と目が合った。


眠気覚ねむけざまし、一発いっとくか、Mr.結城ぃ?」

「……うっす」

「よぉし、Go aheadいい声で鳴け, make my day.私を楽しませろ


 次の瞬間、島田先生の持つ教科書の背表紙が、薪割りの斧よろしく脳天に振り下ろされる。俺が「ぐへぇっ!?」と情けない断末魔の叫びを上げるのと同時に、教室にはどっと笑いの花が咲いた。

 痛む頭をさすりながら席に座るとき、花菜の方をちらりと一瞥する。彼女はこちらを見て「あちゃあ」と言わんばかりの表情で、額に手を当てていた。



◇◇◇



「ツム、生きてっか~」

「すげぇ音したよな、脳天割れたんじゃねぇの」

「うっせぇ、俺が割れてんのは腹筋とケツだけだっつーの」

「なんだよー、せっかく心配してたのに、冷たいじゃん」

「心配してる奴はな、お前みたいにニヤニヤ笑ってねぇんだよ。声が脳に響くから、さっさと散れ散れ」

「脳に響くって、やっぱり頭が割れてんじゃないの~」

やかましいわ、しっしっ!」


 休み時間に入り、授業中の失態を次々にからかいにやってくるクラスメイト達アホどもを、野良犬を追い払うように適当にあしらうと、俺は大きなため息をついた。

 島田先生の放った一撃は恐ろしく鋭く、直撃を受けた部分は髪の毛越しでも触ればわかるほどに腫れていた。今、身長を測れば1cmぐらいは伸びているかもしれない。


「くっそ~、サコめ、割りと本気で叩いただろ……」


 「サダコ」というのは、島田先生のあだ名だ。手入れをするのが面倒なのか、いつもぼさついたロングの黒髪に、国語教師なのに冷え性対策で痩躯そうくに羽織った白衣というルックスが、ホラー映画の『リング』に登場する悪霊、貞子にそっくりだから、もう何代も上の先輩からずっと引き継がれているあだ名らしい。

 『リング』の貞子は、ビデオを見たものを呪い殺すが、こっちのサダコは、どうやらへまをした生徒を、教科書の背表紙で殴り殺すらしい。できれば、貞子のように普段はビデオテープの中に引きこもって、なるべく出てこないでほしいものだ。


「でも、居眠りしてた結城くんも悪いよ~」


 痛む頭をさすりながら、島田先生への不満をぼやく俺に話しかけてきたのは、俺の側から離れていなかった花菜だった。といっても、彼女の席は俺の隣だから、離れたとしてもいずれは戻ってくるのだが。

 花菜は、いわゆる「ゆるふわ系女子」というやつで、ルックスも言動も全体的にほんわかしている。そんな彼女にたしなめられると、こちらも気勢をがれて「まぁ、そうなんだけどさぁ」と批判のトーンも、いくらか下がってしまう。


「でも、理屈では悪いとわかってても、感情が許さないときってあるだろ。疲れてるんだよ、こっちは」


 花菜の言うことは正しいのだが、それでも、思ったよりもダメージが大きかった俺は、少し食い下がった。

 確かに、授業中に居眠りをしているのはこちらが悪い。十中八九どころか、十中十でこちらの落ち度だ。

 ただ、人間を含めた生物というものは、四六時中走り続けることなどできないわけで、必ずどこかで休まなければならない。やんごとなき理由で働き詰めな俺にとって、それがたまたま、今日の国語の授業だったというわけだ。普段は、なるべく真面目に授業に参加しているのだから、こんなときぐらい温情をかけてくれても罰は当たらないはずだ。


「疲れてても、授業はちゃんと受けないとダメだよ~」


 しかし、そんな個人的な理由は花菜には関係ないことなので、彼女は相変わらず正論を言ってくる。正論が人の心を救うことなど滅多にないのだが、真っ直ぐな目でこちらを見ながら、そんなことを言われると、さすがの俺も「はいはい」と同意するしかない。


「それに、休むならちゃんとしたときに休まないと。紡くん、最近ずっと顔色悪いよ」

「そうかな、自分ではあんまりわかんないけど」

「うん、何だか血の気が引いてるというか、覇気がない感じなんだよね」


 自分で自分の顔を見るのは鏡を見るときぐらいなので、気がつかなかった。でも、最近の体調を考えると、調子が悪そうに見えても不思議じゃない。


りぃ、俺も気を付ける」


 もとから、花菜を含めて周囲の人間には何だかんだと気を遣わせている立場だ。そう考えると、自然と謝罪の言葉が口から零れていた。


「うん、働いて紡くんも倒れたら、もとも子もないからね。まずは自分のことを考えないとダメだよ」


 確かに、無理をし過ぎて俺が倒れたら、元も子もないのはその通りだ。俺が「そうだな」と頷くと、花菜も「そうだよ」と言ってにっこりと笑った。多分、自分の言葉に同意してくれたと思ったのだろう。

 しかし、今の言葉についての認識は、俺と花菜ではまるで違う。

 花菜は、ただ純粋に、俺の体調を心配する意味で今の言葉を言ったはずだ。彼女の面倒見がいいことは、幼馴染みの俺は今までの経験からよく知っている。目の前で困ったり弱ったりしている人間を放っておけないから、気遣いで声をかけてくれたのだ。

 でも、俺は今の言葉を「俺が倒れたら、これから一体、誰が金を稼ぐんだ」と認識していた。

 確かに、金を稼ぐのは大切だ。大切だが、無理をして倒れて、一時的にでも収入が失われるのは不味い。これから先、俺にはまだまだ金が要る。だから、無理なく継続して金を稼ぐサイクルを作ることが肝要なのだ。

 しかも、俺が倒れたら、せっかく稼いだ金が、俺を治療するために浪費されてしまう。そうなったら最悪だ。何のために働いているのか分からなくなる。


 だって、


 金がなくて、俺が貧しい思いをするのは平気だ。たとえ、どれだけひもじくても、惨めでも、生きていける。何なら、一生かけて使いきれない大金が手に入ったら、それと引き換えに俺は死んでも構わない。

 でも、そんな都合のいい話はないから、俺は生きなければならない。生き続けて、金を稼がなくてはならない。それだけが、今の俺の甲斐がいなのだから。


「本当にありがとうな、花菜。おかげで、目が覚めた」


 大切なことを再認識させてくれた花菜に対して、深々と頭を下げると、彼女は慌てた様子で首を左右に振った。


「そ、そんなにかしこまらなくてもいいよ! 私は、と、友達が元気でいるのが一番嬉しいからねっ!」

「そりゃどうも。……少しバイトの量を見直してみるかな」


 俺自身に言い聞かせるように呟いた言葉に、花菜はまるで自分が言われたかのように「うんうん」と何度も頷いた。


「それがいいよ! それでね、もし時間ができたらさ、前みたいに、たまには一緒に帰ろうね」

「んー、それはどうかなぁ」

「え~!? なんでぇ~!?」

「ウソウソ、冗談だよ冗談」

「もー!」


 少し元気を取り戻した俺が、花菜をからかって遊んでいると「お前ら、帰りのHRやっから、五秒で支度しろ。異論は認めん」と言いながら、島田先生が教室に入ってくる。もたついていると、今度は出席簿が脳天に落ちてくるので、急いで帰る準備を始める。

 鞄に教科書を詰めながら、俺は顔だけを花菜の方に向けて、「今日はバイト休むからさ、久しぶりに一緒に帰るか」とさりげなく言った。すると彼女は、少しの間、きょとんとした表情をしていたが、すぐに満面の笑みを浮かべて右手の親指と人差し指で輪っかを作ってみせた。



◇◇◇



 生きるということは、天秤の釣り合いを取ることに似ている、と俺は思う。

 人は生きていくなかで、様々なものを手に入れるが、その全てを手元に留め置くことはできない。人は誰もが心に天秤を持っていて、片方の皿には人生が乗っている。そして、その価値が釣り合うように、空いているもう片方の皿へと、手に入れたものを積み上げていくのだ。

 もちろん、皿の大きさには限りがあるし、反対側に載った人生との釣り合いも考えなくてはいけない。不要なものを削ぎ落とし、必要なものだけを残さなければ、天秤はいずれ大きく傾いて、皿の上から全てを取りこぼすことになるだろう。

 今、俺の人生の反対側にある皿の上は、金で溢れ返りそうになっている。金のために、人生で得た様々なものを皿の外へと投げ棄ててきた俺だったが、彼女の笑顔はまだ、皿の上に載っている。

 それでも、今の生活を続けたら、いつか、その笑顔すら棄てなければならないときが来るかもしれない。あるいは、そのときには、棄てるという選択肢すら与えられないかもしれない。


 ……もし、そのときがきたら俺はーー大丈夫、大丈夫。なんとかうまくやっていけるさ。


 頭に浮かんだ悪い考えを閉じ込めるように、俺は教科書を詰め終えた鞄の留め金を、カチリと音を立てて閉じた。



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