秋の雨がしとしとと降りしきり、大粒の雨がガラス扉を叩きつけ、ぼんやりとした水の幕を作り出していた。
小早川美月は、雨の中を車で走り去っていく男性の背中を見つめたまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。
ウェディングドレスを試着していたスタッフの女性が、そっと声をかけてきた。「小早川さん、あと三着残ってますけど、続けますか?」
美月は我に返り、少しうわの空で答えた。「もういいです。着替えさせてください。」
鏡に映った純白のドレス姿の自分を見つめると、胸の奥が痛み、もうすぐ涙が溢れそうになった。
あの迷いもなく雨の中を駆け出して行った男性は、美月の婚約者――霧島誠司だった。
ほんの数分前、美月が最初のウェディングドレスを着たばかりのとき、カーテンが開くと同時に誠司の携帯が鳴った。雨音で外はうるさかったが、美月には電話越しに聞こえた女性の声がはっきりと耳に残った。
「誠司さん、すごい雨で傘もなくて、タクシーも捕まらないの。どうしよう?」
誠司はすぐに答えた。「清夏ちゃん、心配しないで。すぐ迎えに行くから。」
電話を切ると、美月を見ることもなく、「ドレスは君が決めておいて、用事があるから先に行く。」とだけ言い残し、振り返ることなく外へ走り去った。
美月が我に返ったときには、すでに車のテールランプさえも雨の中で見失っていた。
少し前までは幸せそうに笑っていた美月の顔が、今は苦笑いしか浮かばない。
美月はあの女――水野清夏のことを知っていた。それが誠司にとって“特別な人”だということも。けれど、二十年以上の幼なじみという絆が、突然現れた女性によって壊されるなんて信じられなかった…。
何度も頼み込んで、やっと誠司がウェディングドレスの試着に付き合ってくれた。それなのに、水野清夏からの一本の電話――しかも、傘を忘れたという小さな理由で、彼はすぐに美月のもとを離れてしまった。
本当は、もっと早く気づくべきだったのかもしれない。
八年の想いは、結局“運命の人”には敵わなかった。
美月は生まれてすぐ、誠司と婚約を交わし、共に育ってきた。十六歳で恋人になり、あの頃彼女は誠司にとって唯一無二の存在だった。誠司が十八歳で留学に行く前、「必ず帰ってきて君を迎えに来る」と約束してくれた。
六年ぶりに帰国した誠司は、昔とは何もかもが変わっていた。約束通り、結婚しようとしてくれたけれど、その心はもう、美月ではなくなっていた。
冷えきった心は、どれだけ努力しても温まることはなかった…。
美月は重くて繊細なドレスを無表情で脱ぎ捨て、鏡の中に映る自分を見つめると、まるで滑稽なピエロのようだった。スタッフが慰めの言葉をかけようとしたが、言葉が見つからず、ただため息をついた。心の中で思わず呟く「こんなに美しいのに、あの婚約者は本当に見る目がない。」
ドレスを片付けていたスタッフが気づかぬうちに、美月はそっと扉を開けて外に出た。
「小早川さん!雨がひどいので、少し待ってください!」スタッフは傘を持って追いかけたが、強い雨に足を止められ、美月の背中が雨に消えていくのを見送ることしかできなかった。
東京に秋が訪れて初めての冷たい雨。寒さが骨の髄まで染み込んでいく。タクシーも捕まらず、美月は傘もささず、ただふらふらと歩いて帰ることにした。全身がびしょ濡れのまま、シャワーを浴びてベッドに倒れ込んだ。
どれくらい眠ったのかは分からない。目を覚ますと、頭が割れるように痛む。携帯を手に取ると、すでに夜の十一時を過ぎていた。ぼんやりとした意識の中で、無意識に誠司に電話をかけていた。「誠司…熱があるみたい…」
誠司の声は明らかに不機嫌だった。「熱があるなら薬を飲め!今、接待中だから邪魔しないでくれ!」
電話を切る直前、向こうから水野の声がはっきりと聞こえた。「誠司、お風呂入ったよ。あなたもどうぞーー」
美月の頭が一気に冷え、胸が締めつけられるような痛みに襲われた。携帯の画面を見つめながら、しばらく呆然とした。
病院へ一人で行き、点滴を受けることになった。うとうとと眠っていると、突然手に鋭い痛みを感じて目が覚めた。ナースコールを押すと、看護師が慌てて謝ってきた。「すみません、血が逆流してしまいました。急患対応で手が足りなくて…」
「大丈夫です。」美月の声はかすれていた。
看護師は心配そうに「どうして一人で来たの?こんな夜遅くに、付き添いもいなくて…あれ?泣いてるの?」と尋ねた。
美月は驚いて顔を拭き、初めて頬に冷たい涙が流れていることに気づいた。乾いた唇を舐め、針の跡を指さし「…ちょっと痛かっただけです」と小さく呟いた。
「本当にすみませんでした!」看護師はもう一度丁寧に謝り、布団を整えて部屋を出て行った。
静かな病室で、美月は天井をぼんやりと見つめていた。手の痛みで涙が出たわけではない。その涙は、崩れ落ちた心の仮面から溢れたものだった。
こんなことは何度目だろう。最も必要な時、誠司はいつも水野のところに行ってしまう。美月は、もうこれ以上我慢できなかった。
二十四歳。前の十六年を誠司と過ごし、残りの八年を恋人として過ごした。かつては心の底から彼を愛していた。ただ、今その愛は、皮肉なほど痛みを伴うものに変わってしまっていた。
点滴の液体が一滴一滴、美月の心に重くのしかかる。
もう十分すぎるほど、失望した。
美月は携帯を取り出し、誠司とのLINEを開き、指が少し震えるが、しっかりと文字を打ち込んだ。
「ここまで。」
送信ボタンを押した瞬間、泣き崩れそうになったが、不思議と心は静かだった。むしろ、ほっとした気持ちさえ湧いてきた。目を閉じ、そのまま深い眠りに落ちた。
翌日、日帰り入院を終え、退院の手続きを済ませた。病院を出ると、叔母の小早川華子から電話がかかってきた。美月は八歳の時に両親を事故で亡くし、叔父の家で育てられてきたのだ。
「叔母さん、どうかしましたか?」美月は淡々と答える。
「美月、兄の哲が仕事でトラブルがあって、昨日会社を辞めたの。モリトオグループに入れてあげたいんだけど、偉いポジションじゃなくてもいいから、係長くらいで十分。もうすぐ誠司さんと結婚するんだし、頼んでみてくれない?」
叔母の一方的な話を、美月はさえぎった。「私と誠司は別れました。結婚しません。」
電話の向こうでしばらく沈黙があり、すぐに叔母の激しい声が飛んできた。「美月!何を言ってるの!助けてくれたくないから嘘ついてるんでしょ?」
美月は携帯を強く握りしめた。「嘘じゃありません。本当に終わったんです。手伝えません。切ります。」相手の怒鳴り声を無視して、さっと電話を切った。
空っぽで冷たい部屋に戻ると、見慣れた景色さえ息苦しく感じる。ここは誠司のマンション。もう一秒たりともいたくなかった。息をするたびに、胸に焼けた刃物が刺さるようだった。美月はスーツケースを閉じ、迷うことなくその場を後にした。