美月はほとんど眠れなかった。
鏡を覗くと、目の下に薄くクマが浮かんでいる。念入りにコンシーラーを重ねて、ようやく徹夜の痕跡を隠すことができた。
カラフルジュエリースタジオのオフィスに入ると、すぐにの笹木嵐に呼ばれた。カラフルは二人のオーナーが共同経営しているが、実質的な権利を持つメインオーナーは滅多に姿を見せない。今、目の前にいる四十歳手前の笹木嵐が、スタジオの運営を任されている。年齢よりずっと若く見え、二十代後半と言っても通じるほどだ。
「嵐さん、すみません。」
美月は一週間も休んだため、てっきり叱られると思い、先に謝った。「この前は体調が悪くて、私用も重なり、ご迷惑をおかけしました。」
しかし、嵐はにこやかに微笑んだ。「ちゃんと納期を守ってくれれば問題ないのよ。今日呼んだのは、叱るためじゃなくて、ボーナスを渡すため。」
「ボーナス?」美月は目を丸くする。
「星野夏がレッドカーペットで着けていたあのネックレスのおかげで、カラフルの知名度が一気に上がったの。あなたのおかげよ。」
そう言って嵐は書類を手渡した。「今回は特別に五十万円のボーナス。今日中に振り込まれる。」
美月は慌ててお礼を言った。入社以来、最高額のボーナスだった!
五十万円のボーナス、そのニュースはすぐにスタジオ中に広まった。自分のデスクに戻ると、隣の席の同僚が羨ましそうに声をかけてきた。
「すごいですね、一度に五十万円なんて、私もいつかそんなチャンスが来ないかな?」
「カラフルももう、マイナーじゃないですよね?」
そんな会話が飛び交う中、突然鋭い声が割って入った。「どうせ運が良かっただけでしょう。星野夏にたまたま選ばれただけ。」
顔を上げると、それはデザイナーの吉田奈江だった。美月とはずっとライバル関係で、吉田は「カラフルのトップデザイナー」の座を争う競争相手として、美月を目の敵にしている。今回、美月のデザインが一躍でスタジオを有名にしたことで、吉田の嫉妬はさらに燃え上がり、何かと嫌味を言ってくる。
吉田はコーヒーを持ちながら、わざとヒールで美月の後ろを通り過ぎる。「みんな、ネットの話題見てないの?カラフルのジュエリー、安っぽく見えるって言われてたよ。本来は“こだわりの小物”が売りなのに、あのネックレスでブランドイメージも台無し。」
すかさず同調する声もあった。「そうそう、表向きは星野夏のことを叩いているけど、実際はあのネックレスをけなしてるんだよね。」
先月、美月の従兄・小早川哲が、彼女に頼んで彼女の恋人をカラフルに入社させたことがあった。しかし、その女性は入社一週間で高価な花瓶を割り、同僚にも横柄な態度をとって、結局美月が頭を下げてやっと収まった。
この一件で一部の同僚たちは美月に良い印象を持っておらず、吉田はこの機に小グループを取り込んで、陰で美月の悪口を広め、わざと孤立させていた。
冷ややかな嫌味が続く中、美月は最初は黙って耐えていたが、吉田の言葉はどんどんひどくなり、ついに集中できなくなった美月は、勢いよくペンを置いて吉田を真っ直ぐ見据えた。
「ちゃんとネットのコメントを見れば、褒めてくれてる人の方が多いって分かるでしょう?『安っぽい』って言ってるのは星野夏のアンチだけ。もしかして、うちのスタジオにもネット工作員がいるの?」
一拍おいて、刺のある口調で続けた。「嵐さんに言っておこうかな、暇そうな人がいるから、もっと仕事を振ってあげた方がいいって。」
その瞬間、スタジオは水を打ったように静まり返った。さっきまで吉田に同調していた人たちも、慌てて仕事を始めた。美月は今や五十万円のボーナスをもらい、しかも上司のお気に入りになった。誰も簡単に敵に回したくないのだ。
だが、吉田は引き下がるつもりはなさそう。成金の家庭で育ち、いつも「お嬢様が夢を追う」という自負から、他人を見下す傾向がある。「たかが五十万円のボーナスでしょ?そんなの大事にするのは、親のいない人くらいよね。」
美月は冷たく笑った。「そうね、五十万円をバカにできる人もいるけど、あなたのデザインなんて五十万円の価値もないでしょう。一生、女優にレッドカーペットで着けてもらえることなんて、夢のまた夢じゃない?」
肩をすくめて無邪気な口調で「私のデザインがカラフルの格を下げたって言うけど、そもそも格があるデザインをしたことない人には分からないでしょうね。」
たまらず誰かが噴き出し、吉田は怒ってコーヒーカップを机に叩きつけた。「今、誰のこと言ってるの?私のデザインが格下だって?星野夏にネックレスを着けてもらったからって、私はあんな人に興味ない!」
「あなたを名指ししたわけじゃないよ。そんなに気にするなんて、心当たりがあるの?」
美月は片眉を上げ、目尻にあざけりを浮かべた。
吉田は言い返せず、鼻で笑って黙ってしまった。ようやく美月がデザインに集中し直そうとした時、吉田がまた声を張り上げて周囲に自慢し始めた。
「みんな知ってる?三日後は九条家のパーティーがあるんだって。あの、これまで表に出たことのない九条家の御曹司がついにお披露目されるらしいの。私、招待状もらっちゃった!」
その言葉に、周りの同僚たちは一斉に羨ましそうな眼差しを向けた。九条家は東京でも屈指の名家で、経済界の重鎮。滅多に姿を現さない九条家の御曹司に会える機会など、招待状一枚にも価値がある。吉田は得意げに顎を上げて、美月の方をちらりと見た。
「いくらデザインが良くても、所詮は貧乏くじ。一生、九条家の敷居すらまたげないんだから、本当に哀れよね。」
美月はまったく気にせず、デザイン画に集中する。
その時、スマホが「ピンポン」と鳴った。悠からのメッセージと写真が届く――
そこには、高級の招待状が二枚。メッセージにはこう書かれていた。
【めっちゃキラキラのドレス選んどいたよ!三日後の九条家のパーティー、絶対に誰よりも美しくなってやるから!霧島誠司に後悔させてやろう!!】