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第11話 指先に残る温もり 

美月の視線は、無意識のうちに司のはっきりとした胸元に数秒間留まってしまい、思わず目的を忘れてしまった。


部屋の中にいる司は、濡れた髪の隙間からわずかに微笑みを浮かべた。


彼の視線は、美月の耳元にうっすらと赤くなった部分を一瞥し、そのまま部屋に戻り、ゆったりとした白いコットンTシャツを身につけた。


「……ゴホン」


ドアの外で、美月は気まずそうに咳払いし、視線をそらしてから、手に持った袋を差し出した。


「その……仕事帰りで、まだ夕飯食べてないかなって思って。ついでに、あなたの分も買ってきました」

頬を赤らめながら、少し言葉が詰まる。「今日引っ越してきたばかりで、ちゃんとした挨拶もできていなくて……これからよろしくお願いします。口に合うか分からないけど……」


司は袋を受け取ると、中身を確認することなく、「ありがとう。きっと美味しい」と言った。

手に取ったスマートフォンを上げて「夜食、いくらだった?後で送金するよ」——ついでにLINEも交換しようかと思った。


「そんなのいいよ!」美月は慌てて手を振る。「たいしたことじゃないし、これからお隣だ、顔を合わせることも多いと思うから、私のおごりで」

そう言うと、すぐにその場から離れたくなった。服は着ているとはいえ、さっきの光景が頭から離れず、なんとなく気まずかった。


「じゃあ……戻るね――」


司はスマートフォンを強く握り、指先が白くなるのを感じ、少しだけ後悔の感情が胸をかすめた。


彼女が立ち去ろうとした瞬間、司がまた口を開いた。


「そういえば、このフロアの配線が古いみたいで、よくブレーカーが落ちるんだ。管理会社もあまり対応してくれない、夜だと電話も繋がらないことがある。ブレーカーは階段の踊り場にあるから、もしわからなかったら、声をかけて」


美月はその言葉に、軽く微笑んだ。「親切にありがとう!もし管理会社が頼りにならなかったら、そっちに頼るしかない。その時は迷惑かけても許してね」


「気にしなくてもいい」と司は低い声で答えた。「でも、たまにドアをノックされても気づかないかもしれない」


彼はじっと美月を見つめ、反応を待つ。


案の定、美月はすぐにスマートフォンを掲げてみせた。「じゃあ……LINE交換してもいい?」


司はわざと少し間をおいて、淡々と「いいよ」と返した。


美月は一歩近づき、司のQRコードを読み取り、友だち追加を送信した。


自分の部屋に戻ると、すぐにLINEの通知音が鳴った。新しい友達のニックネームは冷たい一文字の「R」、アイコンは深い黒。


美月は数秒スマートフォンを見つめ、「このLINE、本人の雰囲気そのままだな……近寄りがたい感じ」と心の中で呟いた。


スマートフォンを置き、未完成のデザインをタブレットで開き、夜食をつまみながらアイデアを考えようとした。

だが、二口ほど食べたところで、ライトが「パチン」と音を立て、突然消えてしまう。


あたりは一気に真っ暗になり、タブレットの画面だけがかすかな光を放っている。


「きゃっ!」

美月は驚いて飛び上がりそうになり、心臓が激しく鼓動する。しばらくしてようやく、停電だと気づいた。

まさか本当にこうなるとは……引っ越しの初日からこれか?!と半ば呆れた。


すぐにスマートフォンを手探りで取り出し、管理会社に電話するが、二度かけても話し中。


「そりゃ家賃も安いわけだ……」と心の中で毒づきつつ、安さの裏にこういう理由があるのかと納得するしかなかった。


スマートフォンのかすかな明かりを頼りに階段の踊り場へ向かい、司が言っていたブレーカーの箱を探し当てる。

美月の身長は170cmあるが、つま先立ちしてやっと手が届く高さで、どう操作すればいいのかも全く分からない。


仕方なく、さっき追加したばかりの真っ黒なアイコンのLINEを開く。


【Rさん、今階段のところにいるんだけど、ブレーカーの直し方が分からなくて……来てくれないか?】


2分ほどして、隣の部屋のドアが静かに開く音がした。

司の姿が現れた。背後の部屋から暖かい光が漏れ、逆光の中で高身長のシルエットがまるで光の中から現れたように見えた。


彼は先ほどの白いTシャツのまま、下はグレーのラフなパンツに着替えており、スーツ姿の時よりもずっとリラックスした雰囲気だ。あの圧迫感もいくらか和らいでいる。


「ごめんね、いきなりこんなことになって。管理会社にも電話が繋がらなくて…」と美月は申し訳なさそうに言う。


「大したことじゃない」と司は低い声で返し、余計なことは言わず彼女を追い越してブレーカーを確認する。

美月がつま先立ちでやっと触れた場所も、司なら簡単に手が届く。


突然2人の距離が近くなり、美月は無意識にその存在感に押されて、慌てて後ろに下がった。


「もし無理だったら、今日はもう寝る、明日また管理会社に……」


「ペンチ」

司は振り向きもせず、低い声で言った。「そこの隅にあるから取ってくれる?」


「うん、わかった!」

美月はスマホのライトを壁際に向け、足元の工具やネジが散らばる中からペンチを探そうとする。

ペンチは雑多なものの一番奥に埋もれていた。


慎重につま先立ちして手を伸ばす。あと少しで届きそうなその時、足元に転がっていた丸いネジを踏んで、右足が思い切り滑った――


「きゃ――!」

体のバランスが崩れ、尖った工具が散乱す地面に倒れ込みそうになる。

美月は息もできないほど怯えた。


だが、予想した痛みはやってこなかった。


熱い掌が、稲妻のような速さで彼女の腰をしっかりと支えた。


「気をつけて」


その手の温もりが、薄いルームウェア越しにはっきり伝わってくる。

男性の温かな息が額の髪をかすめ、暗闇の中で美月は彼からふんわりと香る清潔なバスソープの匂いと、湯上がりの涼しい空気を感じた。


階段の踊り場は真っ暗で、どれほど距離が近いのか分からないが、しっかりと支える大きな手と、背中に触れる暖かな胸板が、その距離の近さを否応なく実感させる。


美月は慌てて立ち直り、火傷でもしたかのようにその腕から飛び出した。


ちょうどその時――


「パチッ」


ライトが何度か点滅し、突然明るくなった。

眩しい光に、美月は思わず目を細める。


明かりが戻った瞬間、さっきまで司の腕の中にすっぽり収まっていた自分に気づき、お互いの心臓の鼓動が伝わるほどの距離だったことに顔が真っ赤になる。


美月は慌ててもう一歩離れ、距離を取った。


「直ったみたいで、部屋の電気も確認してみて」


「……うん、ありがとう!」

美月はペンチを置くと、足早に階段を駆け戻った。あの狭い空間に残る男性の残り香と、腰に残る感触に胸がざわつき、礼を言うのもそこそこに逃げ出してしまった。


彼女の足音が廊下の奥に消えていくのを聞きながら、司はひとり明るくなった踊り場に立ち、静かに右手を見つめる。


指先には、さっき触れた美月の細くしなやかな腰の感触が、薄いコットンのルームウェア越しに、まだ鮮明に残っていた。


彼は目を伏せ、喉をわずかに鳴らす。


修理したブレーカーと、その横に自分でわざと乱雑にしておいた工具の山に視線を落とし、司の唇には、かすかな微笑みが浮かんだ。


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