「おいおい、本社の上層部が視察に来たぞ、みんな気を引き締めろ!」
玲子はちょうど建材職人と細かい打ち合わせをしていたが、その声を聞いた瞬間、心に暗い影がさした。
ついさっき、神崎とあんなに険悪な空気になったばかりだ。
今「本社」の人間と言えば、他に誰がいるというのか?
こんなに早く引き返してくるなんて、また避けられない口論の始まりだろう。
彼女はただただ、心身ともに疲れ果てていた。
そんな思いが頭をよぎった直後、すでに一団の人々が――中心に圧倒的な存在感を放つ男を囲んで――こちらへ向かってきていた。
玲子は眉をひそめ、正直この場面を乗り切る気力はなかった。
「彼女はここで何をしている?」神崎はきっちりとしたスーツに身を包み、すでにあの全てを見下すような態度を取り戻していた。冷たい声で問い詰める。「彼女にレンガ運びなんてできるのか?」
周囲の人々は顔を見合わせ、まさか社長が突然こうして噛みつくとは思わず、しかも標的が玲子だとは誰も予想しなかった。
誰一人として、火の粉をかぶるのを恐れて口を開けない。
玲子は周囲を見渡した。無数の視線が自分に集まっている。
神崎の狙いは明らかだった――皆の前で彼女に恥をかかせるつもりなのだ。
彼女はよく分かっていた。この場には自分を助けてくれる人などいない。ならば、とことんやってやろうと、彼の視線を真っ直ぐに受け止めて言った。「確かに私はレンガを運べません。会社の命令で建材の監督に来ているだけです。社長が不満なら、どうぞ私をクビにしてください。」
その場に一斉に、驚きと息を呑む音が響いた。普段はあまり喋らないこの女性が、まさかこんなに言い返すとは! しかも、あの憧れの社内職をだ。
神崎の表情は一瞬で氷のように冷たくなった。「俺が本当にクビにできないとでも思ってるのか?」
「むしろ、そうしてもらえたら助かります!」玲子は一歩も引かず、きっぱりと言い切った。
業績も将来も、すべてどうでもいい。ただ今目の前のこの男から完全に解放されるなら、それだけで十分だった。
人々は密かに目配せし合い、玲子の度胸に驚きつつも、彼女の職が危ういことを惜しんだ。
張り詰めた空気の中、心臓の鼓動さえ聞こえそうな静寂が続き、対峙する二人はまるで氷の彫刻のように動かない。
「彼女を外に出せ。」神崎はやがて言い放った。その声はまったく感情の色を帯びていなかった。
言い終わると、彼はもう彼女を一瞥すらせず、その場を去っていった。
周囲の人間は命令を受け、慌てて彼女に近寄った。顔にはどこか申し訳なさそうな表情を浮かべている。「水野秘書、あの、その……」
「無理に引き止めなくていいです。もともと残るつもりはありませんでしたから。」玲子は静かな表情で、むしろ少し顎を上げていた。
埃舞う現場で、彼女の背筋の伸びた姿は周囲と不釣り合いなほど高貴にさえ見えた。
社長にここまで真正面から反抗できるのは、彼女だけだろう。事情を知らない同僚たちも、思わず同情の眼差しを向けた。
暮色が迫り、空には鮮やかな夕焼けが広がっていた。玲子はタクシーも呼ばず、一人で仮住まいのホテルまで歩いて帰った。
「お父さん?」彼女は家に電話をかけた。その足取りも自然とゆっくりになる。
母は早くに亡くなり、父・水野
「おお、玲子か!」水野利安の声はどこか弾んでいた。彼は若い頃ずっと工場のライン作業で重労働をしていたが、玲子が立派になり仕送りできるようになると、ようやく引退できたのだった。
「もう夕飯は食べたのか?」利安は優しく問いかける。
「食べたよ。」たわいない会話、だけどそれが玲子の冷え切った心の奥に、少しだけぬくもりを与える。
「この前話してた、あの……神崎社長、とはどう?」利安は何かを思い出したように、慎重に問いかけた。
玲子は苦笑いを浮かべる。思い出すのは、かつて父にどんなふうに神崎のことを話したか――背が高くてハンサムで、優秀な上司だと。父は薄々、彼女が彼に惹かれていたことに気づいていた。
「お父さん、私はもう彼のことなんて思ってないよ。」玲子は努めて明るい声を出し、目を空に向ける。そこには、かすかに新月が浮かんでいた。手を伸ばせば届きそうで、でも本当はとても遠い。「あんな人、私には……到底、釣り合わないよ。」
「何を言ってるんだ! うちの娘にどこが劣ってるっていうんだ!」水野利安はすぐに反論した。彼にとって、娘は世界一だ。
玲子はこれ以上この話を続けたくなくて、また神崎の影にこの温かな時間を壊されたくなくて、話題を変えた。
利安も結局、娘が幸せならそれでいい、もう年頃だしと、これ以上は何も言わなかった。
「玲子よ、」ふと彼が思い出したように、何気ないふりをして尋ねた。「最近……新しい友達とかできたのか?」