◆◆◆
「これでよしっ」
満足げに一言発すると、それまで黙々と作業に没頭していた少女──と見紛うほど中性的な顔立ちの少年は、強度を確かめようと天井から垂れ下がるロープを何回か引っ張った後、意気揚々と輪に首を通す。
「よいしょ……っと」
そのまま、つま先立ちで足場にしていた椅子を──蹴り倒した。
ガタンッ! と大きい音を立てて、室内灯の真下で横倒しになるデスクチェア。
「ぐぇ゛っ!?」
直後、容赦なく首を締め付ける縄。
〝何これ!? 何が起きてるの!?〟
彼は完全にパニックに陥りながら、それでも現状を理解しようと必死に思考を巡らせた。
眼下には開きっぱなしのダンボール箱がいくつか。それと、見慣れた自室の中ではなく、全く知らない部屋の風景が目に入る。
〝そうだ、確か荷解きの途中で〟
どうやら自分は、引っ越し先で荷物を整理する途中で、とつぜん首を吊り始めてしまったらしい。
というのを、今になって少年は
「げぇ゛っ……! ご、ぇ゛っ」
〝た、助けて……母さん!〟
呼吸できない苦しみの中、頸部の圧迫により意識をもうろうとさせつつも、無我夢中でポケットからスマートフォンを取り出す。
〝ああっ!〟
しかし焦っていた為か、するりと、手から滑り落としてしまう。
スマホが床に転がり落ちて、その画面がこちらを向いている──いや、
正確には、真っ暗な画面に反射で映り込む何者かに、少年は、じっと見られていた。
「がぐ、ぇ゛、ぇ゛……」
〝助けて〟という声が出ない。
画面越しに
酸欠により暗くなってきた視界を窓に向けると、みんな楽しそうにおしゃべり中。だけど外は真っ暗で、みんなはガラスに映る部屋の中。
「しおれはじめている」
「あなたはもうじき、かれてしまう」
もの言う花々は、口々にこちらに語りかけてくる。それだけで自身の結末を悟る。
花だけじゃない、木馬そっくりなハエも、火のついたぶどうのトンボも、体がお菓子でできた蝶々も──。
ザァァァァァァァァァァァァァァ……。
次第に、視界の暗転と共にテレビのノイズめいた音が近づいてくる。或いはどしゃ降りの雨。終わりが近いのだろうか。
「ぁ゛ぇ゛……」
完全にブラックアウトしていく世界。脳内が恐怖と焦燥とSOSで埋め尽くされる。
〝助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、たすけて──〟
◇◇◇
「たすけて!!」
がばっ、と飛び起きる。
掛け布団が勢いよく捲れ上がり、少年の着ているフリルの付いたネグリジェは、全身が汗でびっしょりと濡れていた。
辺りを見回すと、いつもの風景。そこは見慣れた自室だった。
「はっ、はっ……はぁ……ぁ」
うまく呼吸ができなかった。〝なんだ夢か〟という安堵は皆無。〝夢の中で死んだ〟という事実に、冷や汗と、身体の震えが止まらない。
「あっ、あぁぁ……!!」
まだ、喉が圧迫され気道の塞がれる〝死の感覚〟が残っている。死んだ。死んだ。死んだ。自分は首を吊って死んだ──
「あぁ……あああああああ!!!! ああーっ!! あぁぁーっ!!」
膨らみ続ける恐怖に耐えきれず、
その時、ドンドン、と荒々しい足音を響かせ、何者かが部屋に近づいてくる気配があった。
「……うるせえぞ、
声を荒げる男は、バンッと乱暴にドアを開け放つ。そのまま、ずかずかと部屋に侵入する。その振動で、壁際の棚に飾られた人形やぬいぐるみが少し揺れた。
「あぁーっ! あぁ──」
「うるせえって言ってんだよ」
パァン、と乾いた鋭い音が響く。零市の視界が横に跳ね、頬に熱がにじむ。
「ひっ……!」
ゴッ──。
痛む頬を押さえる零市に、容赦なく振り下ろされる拳。
鈍く重たい音が連続して室内に響き、そのたびに零市は呻き声をもらした。
「ぃ、痛い……父さん、ごめ……」
少年の悲痛な泣き声もむなしく、暴力は繰り返された。
「はぁ……はぁ、お前、次何かやったら今度こそ殺すからな」
何発かの殴打の後、疲れてきたのか肩で息をしながら、父親は吐き捨てるように言う。
「ひっ……」
『殺す』というワードに過剰なまでに反応してしまい、反射的に顔を腕で守る。
「チッ」
その仕草さえ不快だったのか、父親は大きく舌打ちをした後で、来たときと同じく乱暴に部屋を出て行った。
「ひっ、ぐ」
残された少年は、顔を隠していた腕をゆっくりと下ろした。本来ならば「端正な顔立ち」と形容されるであろう顔面には、先ほどの暴行による青あざ、それに治りかけの傷もいくつかあり痛々しい。
「ふぅ、ひ、ぅ……」
なんとか呼吸を整え、痛む頬に手を伸ばしかけて、胸もとの首飾りをぎゅっと握りしめる。
もう片方の手で、枕もとに置いてあったスマートフォンを掴み、画面を確認した後で耳にあてた。
一つ深呼吸をする。
「……母さん?」
呼びかけると、ほどなくして応答があった。少年は緊張が解けたように笑みを浮かべつつ続ける。
「ごめんね、こんな夜遅くに電話しちゃって」
『大丈夫よ。なにかあったの?』
母親を心配させまいと空元気で微笑む。ぎゅう、と身を縮こませ、体育座りのような姿勢で少年は通話を続けた。
「ちょっと、悪い夢を見ちゃってさ……大袈裟かもだけど、本当に怖くて、飛び起きちゃったんだ」
『そっか、よっぽど怖かったのね。大丈夫?』
「うん……ありがとう。いつもごめんね」
『いいのよ』
「
『そうね。じつは杏那も最近〝怖い夢を見る〟って言って……今日は私と一緒のお布団で寝てるのよ』
「えぇっ? ははっ……杏那も来月には高二になるってのに、相変わらず甘えん坊だなぁ」
『ふふっ、でもやっぱり、お兄ちゃんとしては心配でしょう?』
「そりゃ、双子とはいえ、たった一人の妹だもん。元気かなっていつも考えてるよ……でも、母さんと一緒ならきっと大丈夫だよね」
それからしばらく、零市は母親と他愛のない会話を続けた。
零市の東京での生活を伝えたり、母と妹が住んでいる〝
話している間に、いつしか身体の震えは止まっていたようだ。
──それじゃ、杏那によろしくね。いつもありがとう。母さんも元気でね。
落ち着きを取り戻した彼は、そう言って通話を終える。
スマートフォンを枕元に置いて、体育座りの姿勢のまま、膝の間に顔を埋める。
「……会いたいよ。母さん、杏那」
自らの膝を抱きながら、弱々しく呟く。
ふと視線を壁際の棚に向けると、零市が今まで集めてきた人形やぬいぐるみたちが並んでいた。
〝……人形になれたなら、痛いのも怖いのも感じなくて済むのに〟
頬のひりひりとした痛みを思い出して、はぁ、とため息を一つ。それからもう一度布団に潜り、眠気に身を委ねた。
◆◆◆
「えっと……死恐怖症、ですか?」
「うん。別名──タナトフォビア」
茹だるような夏の日。風鈴や扇風機の音に混じって耳に入る聞き慣れない言葉に、零市は首を傾げつつ繰り返した。
そこはこぢんまりとしたクリニックで、待合室には零市以外の患者はおらず、歩くたびに床板が軋むような、もはや廃病院寸前といった様相を呈していた。
そんな場末の精神科で、白衣を着崩した胡散臭そうな男から零市に告げられた病名は、あまり聞き馴染みのないものだった。
「ほらー、色々あるじゃん。先端恐怖症とか、高所恐怖症とかさ」
「はぁ」
男は妙に芝居がかったような、演技じみた口調で続けた。
「ある特定の〝モノ〟とか〝場所〟に強い恐怖を感じる……ってのが恐怖症の一般的な症状なんだけど、君の場合は〝自身の死〟がそれに該当する」
零市は「なるほど……」と頷きながら話を聞く。
「で、君のそれは日常生活に支障を来たすレベルなんだろう?」
「はい。例えば、自分が死んじゃうリアルな夢とかをよく見るんですけど……」
零市は男に、症状を説明する。毎回悪夢から覚める度に、息が上手に吸えなくなることや、冷や汗、体の震え、そして耐えきれなくなって叫び声をあげてしまうこと。
「なんとなく、高校生になれば治まるかと思ったんですけど……ぜんぜん治らなくて。もう16になるのに、こんな……」
「ははっ、恐怖症に年齢は関係ないよ」
おずおずと、伏し目がちに答える零市に軽口をたたきつつ、白衣の男はそれらをパソコンに入力しながら答える。
「ふむふむ、呼吸困難に発汗、震え……。典型的な恐怖症の発作だね」
カタカタ、という軽快なキーボードの音が止む。彼は再び零市に向き直った。
「それで、治療法の話なんだけど、まずは原因の特定を──」
「す、すみません! その前にちょっと……」
「なんだい?」
どこか慌てたような零市が遮るように口を挟むと、男は怪訝そうに眉をひそめる。
「あの、もう一つ気になる事があって」
零市は、これから話すことを信じてもらえるかどうか心配で、「えっと、その……」と、ためらいがちに語り出した。
「実は……僕、その、読み取れるんです。〝物〟の……を」
「うん? モノの、何が読み取れるって?」
「えっと……」
零市は覚悟を決めるように、一呼吸置いてから言った。
「その……記憶です。特に、持ち主との思い出とか……そういうの」
「へえ、凄いじゃないか」
特に疑うそぶりもなく、男は興味深そうに言葉を返す。
「あの、例えば幻覚とか、妄想とか……そういうのではないんでしょうか?」
「その点は心配ないよ。さっき受けてもらった検査で、君には何の精神異常も見られなかったからね」
零市の検査結果が記入された資料に目を通して答えると、そのまま男は続けた。
「そいつはサイコメトリーと言って、物体の残留思念を──」
およそ病室には場違いな電子音が響いて、〝
〝あ、これ夢か……〟
◆◆◆
目を開けると、見慣れた部屋の天井が目に映る。
「……ふぁーい」
眠い目を擦りながら、のそのそと布団から出て玄関に向かう。
配達員は零市のケガを見てぎょっとしていたが、顔を伏せるようにして荷物を受け取ると、ぱたぱたと自室に戻ってくる。
時刻は11時。父親はすでに仕事に行っていて居ないため、零市は一日中好きなだけ〝趣味〟に没頭できると考えると、思わず顔を綻ばせた。
さっそくダンボール箱を開けると、中から出てきたのは西洋風のアンティークドール。青いリボンが特徴的で、布地の色は褪せていたが、ほつれは丁寧に縫い直されていた。何度も繰り返されたであろうその針跡に、以前の持ち主の愛情が滲んでいる。
人形を絨毯の上にそっと座らせると、零市は右手をかざす。すると、〝霧〟が彼の手のひらから出現して、糸状になってドールに伸びる。それが繋がったタイミングで目を閉じると、彼は唱えた。
「……
瞬間、零市の視界が一変する。
『ただいま。今日もいい子にしてた?』
少女の澄んだ声が、やさしく人形に降り注ぐ。針と糸の音。ほどけたリボンを縫い直す小さな指。窓辺の午後、ひだまりの中の暖かな日常。
抱きしめられ、撫でられ、ドレスを整えられた記憶が、柔らかな布の間に染み込んでいた。
零市のまぶたの裏に、かつて人形の瞳に映った景色が、次々と浮かんでくる。
それは例えば、小さな椅子を用意して、一緒に食卓についた朝。
例えば、窓辺で子守唄を歌って聴かせた雨の日の夜。
例えば、こっそりドールハウスから持ち出して一緒に眠ったこと。
そのどれもが愛情に溢れていて、零市は心が温まるのを感じていた。
静かに目を開けると、ふっ、と霧が消える。
「っ」
零市の身体がフラリと傾きかけ、とっさに手を床につく。どうやら、能力をちょっと長く使い続けてしまっていたらしい。
普段から気をつけていることだが、どうしても、夢中になって
零市は
「素敵な思い出をありがとう。キミはとっても愛されて、大切にされてきたんだね」
どこか羨むようにも言いながら、人形を抱えて棚の空いている場所まで運んだ。読み取った記憶のあたたかな余韻が、手のひらにまだ残っている。
零市にとって、人からの愛情を擬似的に追体験できるこの時間は、何よりの至福であった。
この謎の〝能力〟に気付いたのは、たしか幼稚園の頃。とつぜん手のひらから霧が噴き出して、『れいちくんのおててからゆげでてるー!』と、同じ組のことちゃんに驚かれ大騒ぎになってしまって以来、誰にも見られないようにこっそり使ってきた。
一度、高校の遺失物保管所──つまり落とし物コーナーで能力を使ってみたところ、すべての物品の持ち主を特定できたことがある。
定期的に落とし物の持ち主を確認しては、さり気なく席まで行って机に置いておく……というのを繰り返していた結果、『この学校には落とし物を届ける霊がいる』といつの間にか怪談話めいた噂が立っていた。
「これでよし。僕も大事にお世話するからね。これから、よろしくね」
そう言って、アンティークドールに微笑みかける。それから、少し向きのズレていた他の人形やぬいぐるみたちを整えると、零市は部屋を見まわした。
自室にある物は、〝一つの器物〟を除いて全て
そのなかで、二つ気付いた事があった。
一つは、零市が過去に関わったことのある器物の記憶を読み取ると、自分との思い出が優先されること。
もちろん、他の持ち主や使用者との過去も見る事ができるが、残留思念に深く潜る必要があるため、少し疲れてしまう。
もう一つは、この能力を長く使っていると、先ほどのように貧血っぽい症状に襲われて、気分が悪くなってしまうこと。しかし、その原因はよく分かっていない。
──ただいまー。
「あ……」
その声を聞いた途端、零市は表情を曇らせる。
〝やばい、もうこんな時間……?〟
零市の顔が、さっと青ざめる。時計は午後7時を示していた。
〝まずい、きょうの夕食当番は僕だ……〟
昨日の今日で父親の不興を買ってしまっては、今度こそ何をされるか分からない──そう思った零市は、〝頼むから、今日は
扉の前で深呼吸を一つしてから、ドアノブを捻って中に入る。父親はソファでくつろいでいた。
意を決して、零市は父に話しかける。
「と、父さん……おかえり。ごめんね、ちょっと今日体調悪くて……その」
おどおどと話す様子を見て察したのか、父親は身を起こしつつ零市に言う。
「ああ、いいよ。それなら今日は父さんが作ろうか」
そう言って、父はキッチンに向かった。
──良かった、今日は恐くなかった。零市はホッと胸を撫で下ろす。
「……ところで、零市」
「う、うん……どうしたの?」
解けかけていた警戒を、再び入れ直す。
「昨日はごめんな。殴っちまって……本当にごめん」
しかし、予想に反して、掛けられた言葉は優しいものだった。
父親は台所に立つと、居間の入り口にいる零市に向かって頭を下げていた。
「だ……大丈夫だよ。 平気へいき。もう傷も……まだちょっと痛むけど……でも母さんにも『怖い夢を見た』って相談したら──」
「おい」
途端、リビング内の空気が変わる。
零市は〝しまった──〟と慌てて口を押さえるが、もう遅い。
「零市、俺いっつも何て言ってる?」
「ぁ……」
言葉が出ない。声だけではなく、身体もがたがたと震え始める。壁掛け時計の秒針の音が、異常に大きく耳に刺さった。
「母さんの話は、するなって言ってるよな」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」
小さく弱々しい声で、繰り返し唱える。背筋を冷たい汗が伝った。
やがて、カチャ、と金属が擦れる音が鳴り。父親がキッチンから出てきた。
「え……?」
その右手に握られているものを見て、零市は呆然とする。鈍く光る、刃。
父親は包丁を手に、零市をまっすぐ見て一歩ずつ確実に近づいてきている。瞳孔が開いた目は、もはや正気を失っていた。
「俺言ったよな? 『次何かやったら今度こそ殺す』」
「あ、あ……」
半ば停止した思考のまま、じりじりと後ずさる零市。そして後ろ手にドアノブを掴む。その間にも、二人の距離は確実に縮まっている。
その時、プルルルル……という無機質なベル音が、張り詰めていた静寂を破って響き渡った。
「っ──!」
その音を皮切りに、零市は勢いよくドアを開け、廊下を疾走する。
そしてトイレの前まで来ると、電気も付けずに中に入り、鍵をかけた。
玄関から外に出る気にはなれなかった。どうしても、追いつかれて恐ろしいことになってしまう想像が頭をよぎったのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
息を切らせるほどの距離を走ったわけではないのに、呼吸が乱れている。
ドンッ!
「おい! 開けろ」
「ひっ……」
ドアを強く叩く音が何度も響き、零市はうずくまる。耳を塞いでぎゅっと目を閉じる。
「開けろっつってんだろ!」
バンッ! と、怒りをそのままぶつけたような、一際大きな音が扉を叩く。零市は、びくっ、と全身を震わせる。
──それから少し経ち、静かになって零市が顔を上げると、ドアの前の気配は既にない。それでも、零市は外に出る気にはなれなかった。
やがて、廊下を乱暴に踏みしめる音と共に、再び気配が近づいて来るのを感じた。
「お前の大事なお人形、持ってきてやったぞ」
ドサドサ……っと、何かが床に投げ捨てられる音が聞こえる。
〝僕の、人形……?〟
「おらっ!」
ドスッ──!
「ま、待って──!」
「おらぁっ!」
ドスッ! ザクッ! ブチブチブチッ──!
「やめて、お願い……!」
ミシミシッ……パキッ!
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
零市は必死に謝り続けた。
それでも、耳を塞ぎたくなるような破壊音は一向に止まない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
……どれだけの時間が経っただろうか。
泣きながら謝罪を繰り返す零市の扉越しには、父親が息を切らせて立ち尽くしていた。
そして無言のまま、扉を離れる。発散し尽くされたのか、足音に怒気は感じられなかった。
完全に気配が去った後も、零市はしばらく動けずにいた。数分、数十分……あるいは数時間か。暗闇の中、うずくまったまま固まっていた。
──それから、よろよろと立ち上がる。音を立てないよう静かに鍵を開けて、ドアをそっと押し開けた。
「あ、ぁ……」
零市は膝から崩れ落ちる。目の前には、思わず目を背けたくなるような惨状が広がっていた。
ぬいぐるみの綿が、裂け目から内臓のようにこぼれ落ち、床に散らばっている。
人形の陶製の頬には亀裂が入り、片目は床に転がっている。
何体かの人形やぬいぐるみの残骸が、そこら中に散乱している。
そのなかには、見覚えのある──おそらく元々は青いリボンだったであろう──布切れ。ズタズタに引き裂かれていた。
「ごめん、ね……」
ぽろぽろと、涙をこぼす。
布と綿と、砕けた陶器やガラスの破片を、手のひらに突き刺さるのも厭わず両手でかき集める。
「怖かったよね、痛かったよね……ごめんね……」
今まで読み取ってきた彼ら、彼女らとの思い出たちが蘇る。どの人形も、ぬいぐるみも、以前の持ち主に愛されてて、次は自分が大事にすると決めたのに。
「もう、いやだ……」
──もうこれ以上は、耐えられない。
零市はポケットからゆっくりとスマートフォンを取り出し、首飾りを握りしめる。
「助けて、かあさ──」
いつものように母親へと──掛けようとして、寸前で思いとどまる。
〝いや……ダメだ〟
〝それじゃ、母さんと妹が
すぐに思い直して、震える指で〈110〉と番号を入力する。
しかし、どうしても発話ボタンが押せなかった。
〝……そうだ。叔母さんに〟
連絡先リストを開き、〈
しかし、指が震えて、発話ボタンをうまく押せなかった。
一度、落ち着くために深く呼吸する。
やっとの思いで、ようやく画面をタップする事ができた。
『プルルルル……』という呼び出し音が、やけに大きく聞こえる。
そして──音が鳴り止んだ。
『……ふぁ、もしも〜し?』
いかにも眠そうな、穏やかそうな女性の声が、受話器越しに聞こえてくる。
「あっ……お、叔母さん、お久しぶりです」
『えっ、もしかして
「あははっ……ほんとに、沙凪さんだ」
「まったくもうっ……ふふっ」
このやり取りも懐かしい。零市が彼女と連絡を取ったのは、じつに10年ぶりのことだった。あの頃のまま、変わらない態度で接してくれる沙凪に安心感を覚える零市。
『それにしても、どうしたの? こんな夜中に』
「そ、それなんですけど、その……っ」
喉が詰まったかのように、言葉が出ない。まるで現実じゃないみたいに、零市は上手く声が出せなくなった。
「た、た……」
『えっ……零くん、大丈夫……?」
〝助けて〟という言葉が出ない。
気がつけば、零市は涙を流していた。
誰かに助けを求めるのが怖かった。
でも、ここで踏み出さなければ何も変わらないのも事実だった。
「た……たす、けて……!」
──あぁ、よかった。
「助けて、沙凪さん……!」
──今度は、ちゃんと言えた。
嗚咽混じりに零市は伝える。固く握りしめた左手は、手のひらが痛むほど、無意識のうちに力を込めていた。
◇◇◇
時計を確認すると、まだ朝の7時だった。どうやらあの後すぐ、部屋で寝ていたらしい。
〝そうだ、昨日、あれから……〟
──わかったわ。零くん、大変だったわね……後はもう、私に任せておいて。
涙ながらの零市の言葉に、沙凪は何かを察したように、詳しい事情も聞かず通話を終えた。
『私に任せておいて』という言葉は零市に安心感をもたらし、〝良かった、これで……〟と安堵に包まれながら、零市は気を失うように眠りについたのだった。
〝それにしても、沙凪さん、何をする気なんだろう……?〟
よくよく考えると、そもそも事情を伝えていないので何をどう対処したらよいかも分からないのでは……。
などと零市が不思議がっていると、突然。
『おれか……れ……まで……うば……きかよ……!』
『そ……つも……』
「……?」
遠くの方で、父親が大きな声をあげていることに気がつく。
零市は急いで部屋を出ると、声のする方へと向かった。どうやら、玄関で父親が誰かと話しているようだ。
「で、ですから……その、息子さんをしばらく……こちらで引き取らせていただきたく──!?」
そこにいたのは、零市の叔母・
零市の知っている10年前とあまり変わらない、穏やかで落ち着いた雰囲気でありつつ、しっかり者のお姉さん。という印象だった。
突如現れた零市の顔を見るなり、目を丸くして、口もとを手で覆っている。
「零市くん……!? そのケガ、どうしたの」
慌てて駆け寄ってくる沙凪。彼女は少し屈むと、零市の両肩にそっと手を添えて尋ねる。ふわり、と、花のようなほんのり甘い香りがした。
「あ……、こ、これは……」
ちら、と、思わず父親に目を向けてしまう零市。スーツを着てビジネスバッグを手に提げている様子から、どうやら会社に行く直前だったらしい。
振り返り、父親を、きっ、と睨みつける沙凪。その顔は零市には見えなかったが、どうやら本気で怒っているらしいのが雰囲気で分かった。
「……零くんの、この傷は、あなたが……?」
「あぁ、そうだよ」
「なんてこと……」
沙凪は立ち上がり、玄関に手を掛けている男に毅然と向き合った。
「何か問題あるか? こんなの、単なる〝しつけ〟の一環じゃないか……」
「……っ」
まったく悪びれる様子もなく答える父親に、わなわなと肩を震わせる沙凪。
「なぁ、もう出勤の時間なんだ。会社に遅刻したら、どう責任取ってくれるんだよ? え?」
「……できれば話し合いで解決したかったのですが、もう、そうも言っていられませんね……」
はぁ、と一つため息をつくと、沙凪は続ける。
「零くん……息子さんを、うちで引き取らせていただきます」
「ふざけるな!」
びくっ、と反射的に震えてしまう零市。いつものように身体がこわばり、俯いてしまう。
「俺から零市まで奪うつもりかよ!」
「そんなつもりはなかったのですが……気が変わりました。あなたみたいな人に、零くんを任せておけません」
「はぁ? 大体、なんなんだよアンタ……、突然押しかけてきて、他人の家庭の事情に口を挟むなよ!」
零市の父親は既にドアから手を離し、大声でまくしたて、腕を振って怒りを露わにしていた。
「そもそも、零市の意思はどうなる? こいつがアンタのとこに行きたいって言ったのかよ?」
「それは……その」
沙凪がわずかにたじろぎ、言葉を探すように目を泳がせた。父親は零市を見下ろすように見ながら、高圧的な声をかける。
「
「っ……」
零市は俯き、何も言えなかった。確かに沙凪の住んでいる
だが、零市が口をつぐむ理由はそんなことではなかった。
自分が白神京に行くことで、そこに住んでいる「母と妹」に、この男が会ってしまうことになるかもしれない──そう考えると、零市は口を閉ざさざるを得なかった。
「……零くん、うちに来ない?」
「沙凪さん……」
沙凪は少し身を低くして、零市と目線を合わせつつ優しく問いかける。
それでも、零市には答えられなかった。
「ほら、行きたくねぇってよ。じゃあ、もう俺は仕事に行くからなー」
『なんなんだよ……』とぼやきつつ、頭を掻きむしりながら玄関を出ていく父親。そして、バタン! と乱暴に閉められるドア。
しかし、そんな彼には見向きもせず、沙凪は零市と向き合ったまま、微笑みつつ尋ねる。
──さらさらさら……。
「もしかして、お父さんのことで何か気にかかることがあるの?」
「……うん」
零市はようやく顔を上げると、小さく頷いた。
そして、吶々《とつとつ》と語りだす。
「ぼ、僕、ずっと昔から、父さんに殴られてきて……」
声が震え始める。喋っていて泣きそうになってしまい、深く息を吸い込んでから続ける。
「だけど……そのたびに、母さんが話、聞いてくれて……」
「うん、うん……」
沙凪は、零市の想いに寄り添うように頷きを返す。その目には、次第に涙が滲みはじめた。
「それで、本当は、母さんと妹に会いに行きたいんだけど……でも、もし父さんが僕のあとをつけたりしてて、母さんたちが見つかったらって考えると……家を出て行った二人が、何されるか分からなくて、そう考えると、怖くて……」
「うん……」
沙凪は、震える零市の肩にそっと手を添える。
「だから……ごめんなさい、沙凪さん。せっかく来てくれたのに、僕、やっぱり行けな──」
「零くん」
ぎゅっ、と、沙凪は零市を抱きしめる。
壊れものに触れるように、その身体をそっと腕の中に包んだ。
「さ、沙凪さん……?」
「零くん、もういいのよ。あなたは、もうじゅうぶん頑張ったわ」
背中を、とんとん、と撫でるように小さくたたかれて、零市はハッと気づいた。
〝沙凪さんの上着のポケットから、何かこぼれ落ちてる……?〟
──さらさらさら……。
時おり窓からの光をキラキラと反射するそれは、細かい粒のようなもの。つまりは〝砂〟だった。
砂が沙凪のポケットから空中を漂って、糸のような細さで浮かびながら、家の外まで伸びていた。
「零くん、もし……、もしもの話なんだけど、その
「えっ……? は、はい」
現実離れした光景に呆気に取られていた零市は、半ば反射的に答えてしまう。
「そう、よかった……」
そうして、沙凪は身を離す。零市はその顔を見て、息を呑んだ。
先ほどまでの慈愛に満ちた微笑みとは打って変わり、冷たい目。その瞳には、何かを覚悟したかのような、静かな光が灯っていて──零市は少し、身震いした。
〝そういえば……〟
小さな違和感。ここで、零市にはどうしても気になることがあった。
〝いつも聞こえてくるはずの父さんの車のエンジン音が、今日は聞こえない……〟
零市は、妙な胸騒ぎを覚えた。
何か、玄関の向こうを見てはいけないような……とんでもない惨状が広がっているような、そんな予感がした。
「これからよろしくね。零くん」
微笑みつつ、そう言い残して、沙凪は玄関を開けて去っていった。