――ああ、早くシャンパンを注ぎたい。
その泡で貴族たちを甘美な夢に溺れさせ、私の夢を現実にする――。
舞踏会が盛り上がる中、婚約者のレオ・グレイハートは私を人目の少ないバルコニーへと誘った。その表情は固く、私をエスコートするその手はじっとりと汗で湿っていた。
バルコニーに出たあと、レオは私に背を向けたまま、冷たい夜気の中で立ち尽くしていた。――沈黙が長すぎる、時間の無駄だ。どうせ、『あの用件』なんでしょう?
私は小さく息をつき、こちらから水を向けてやった。
「どうしました?」
促されたレオはしばしの沈黙ののち、意を決したように振り返った。
「……僕たちの婚約を解消したい」
バルコニーに冷たい夜風が一吹き抜ける。私はその風の音に重ねるように、密かにため息をついた。
「ソフィア、君は……あまりに完璧すぎて、怖いんだ」
初めて会った時と同じ、今にも泣き出しそうな怯え顔。侯爵家の庇護に包まれて育ったことが一目でわかる――ぬるま湯の中で育った温室育ちの空気が、隠しようもなく滲んでいる。
「……君が隣に座っていると、父の叱責が耳に蘇る……」
それを言われて、私はどうしたらいい? 彼の父が、政敵の息子たちと比べて凡庸なレオに苛立っていることくらい、私だって知っている。
慰めて欲しかったとでも言いたいのだろうか。……むしろ、母親に溺愛されて満足していろと、そう叱ってやりたい。
「そ、それに……君は僕のことを何とも思っていないだろ?」
確かに私は彼のことを愛してはいない。貴族の娘として、家のために婚約を受け入れた。そんなこと、わざわざ確認しなくても分かるだろうに。
……恋愛なんて、私にとっては対価を得て、夢を掴むための手段でしかない。
呆れつつ視線を滑らせたその先に、柱の影からこちらを伺う人物を見止めた。
エリナ・バレット――グレイハート家のメイドであり、レオを誘惑し、私との婚約破棄をそそのかした女。
娼婦の私生児から侯爵家のメイドまで上り詰め、その嫡男を射止めた胆力は認めるが……彼女の望みは、結局のところ侯爵家の財産を手に入れること――すべては、自分の欲を満たすためだ。卑しさはそこらの貴族と変わらない。
エリナはまごつくレオにしびれを切らしたのか、柱の影から進み出て飛びつくように彼の腕を抱きしめた。
「エリナ!? なぜここに?」
「私、レオ様が心配で……!」
その声はか細く、今にも泣き出しそうだったが、長い睫毛に縁どられた大きな瞳……その瞳だけが異様に目立っていた。
舞踏会場の光を反射してギラつくその眼差しは、飢えた獣が獲物の喉元を伺うような執念を宿していた。これは、狩る者の目だ。――それも、狩り慣れた者の。
「ソフィア様……突然、申し訳ありません。私、エリナって言います。私とレオ様は……愛し合っているんです」
一旦言葉を切り、エリナはレオの腕を豊かな胸元に強く引き寄せ……レオの瞳が熱で潤む。計算された女の仕草だ。
「身分違いなのは分かってます! でも、私にはレオ様が必要なんです! ……あなたと、違って」
純朴な平民の少女が昂ぶりのあまり身分を超えて愛を訴える姿――なんて、お綺麗なんでしょう。他に何人もの貴公子に唾をつけているとは思えない清らかさ。
でも、私は知っている。声の抑揚、涙をにじませる間、視線の流し方――これは、『見せるための演技』。この世を渡っていくための彼女なりの処世術なのだろう。
持たざる者が何かを成すために、なりふり構ってられないというのは……私も、骨身に沁みて知っている。
「いいでしょう。婚約解消、承諾します」
「え……?」
呆気に取られたようにレオは目を見開き、口を半開きにする。エリナは一瞬たじろいだが、表情は動かさず、眼差しに警戒を込めて私を睨む。
「ほ、本当にいいのか? 君の父上がお怒りになるのでは……」
「ご配慮頂き感謝いたします。父には私から説明いたしますので、お気になさらず」
それだけ言って、私は彼らに背を向けて舞踏会場へ戻った。来賓たちは私をすぐさま取り囲み、談笑の輪の中に私を迎える。周囲の誰も、まさか、つい先ほど婚約を破棄されたとは思うまい。
だって、今の私はいつも通り――いえ、それ以上の笑顔を浮かべているのだから。
* * *
それから少し後、舞踏会が最高潮に達した頃を見計らい、私はそっと会場を後にした。
暗い自室に戻り、衣裳部屋に入って躊躇いなくドレスを解く。一人で脱げるよう細工したコルセットを外し、重いスカートを脱ぎ捨てる……この瞬間だけ、私は自然に息ができる。
しかし、ゆっくりしている時間はない。壁に溶け込むように設えられた隠しキャビネットから白いシャツと黒いジャケットを手に取り、素早く身に着ける。
背中まで伸びた金髪を手際よくまとめ上げ、プラチナブロンドの短髪のかつらを被った。最後にメイクで骨格を際立たせ、唇に薄いベージュのリップを引く。
鏡に映る私の姿は、もはやか弱い貴族令嬢ソフィア・ルミエールではない。そこにいるのは、ホストクラブ『ルクレール』のNo.1ホスト――クロード・ルクレール。
これが私の、夢を叶えるための、もう一つの姿。
感謝するわ。レオ、エリナ。あなたたちのおかげで、私は当面、自由にクロードとして活動できる。
「さあ、今日もお客様に極上の夢を。そして――存分にその対価を頂きましょう」