「離婚しない」――その言葉が、冷たい鉄の釘のように、杏子の耳奥に突き刺さった。
彼女は思わず顔を上げ、知弘の底知れぬ瞳とぶつかった。指先は無意識に、純白のシーツをぎゅっと握りしめている。
今度は、何をしようとしているの?
この突然の方針転換の裏には、きっとまた新たな、より残酷な仕打ちが隠れているに違いない。
疲れも痛みも、すでに骨の髄まで染み込んでいる。離婚だけが、自分を救う唯一の方法だった。
それすらも、彼は奪おうとしているの?
突然、顎に激しい痛みが走る。知弘が、まるで鉄の鉗子のような指で彼女の顎を掴んだのだ。
「杏子」声は低いが、全てを支配する冷たさを帯びている。「君が逃げようとすればするほど、僕は君をここに縛りつける。分かってるか?」
彼女のもがきも、願いも、彼にとってはただの逆手に取る材料でしかない。
「離婚はあなたが……」喉が詰まり、声にならない。
「気が変わった」と、知弘は彼女の言葉を遮る。無表情で、まるで取るに足らないことのように淡々と言い放つ。
「幸田家の妻という座は、君が座っていればいい。ただし、その立場に付随するものは、君には一切渡さない」
的確すぎる一撃が、杏子のすでに麻痺した心を無慈悲に打ち据えた。
「君は自分で、愛してるって言ってたよな?」彼の口元が、嘲笑を浮かべる。「だったら、これからも愛し続けてみろ。しっかり目を開けて、僕が仁香の代わりの女をどう大切にするか、見ていろ」
「愛理は仁香じゃない!」杏子は震える声で反論し、彼の作った幻想を壊そうとした。
「だから何だ?」知弘は鼻で笑う。「彼女をそばに置いておく。いつでも、君に思い知らせるために。僕が他の女にどれだけの愛情を注げるか、君の目の前で見せてやるよ」
彼の目に、一瞬だけ残酷な光が走るのを杏子は見逃さなかった。
「あなたは私を許さないのね……」杏子の声は、紙やすりのようにかすれた。「わざとこんな方法で、私を辱め続けるつもりなんだ」
「当然だろ。離婚してどうするつもりだ?江藤修一とでも?」指の力が強まり、彼女の青白い頬に深紅の跡を残す。
「あいつは気にしないとでも思ってるのか……君が、他の男に抱かれた女だってことを?」
「中古品」――その言葉が、凍てつく刃のように杏子の心臓に突き刺さる。
一瞬で、熱い涙が瞳を満たし、喉に血の味が広がった。
かつて「妖精さん」と優しく呼んでくれた人が、今やこんな言葉で彼女を貶める。
この精神的な苦痛は、肉体の痛みよりもはるかに苛烈だった。
杏子は唇をかみ、激しい反抗心がこみ上げる。「愛理だって、あなたにとっては“誰かの代わり”でしょ。それも結局、他人に使われた女じゃない!」
知弘の目に怒気が溢れ、空いている手が勢いよく振り上げられる。今にも彼女を打ちつけそうな気配――
杏子は絶望のあまり、ぎゅっと目を閉じた。
だが、予想していた痛みはやってこなかった。
そのとき、澄んだ幼い声が張り詰めた空気を切り裂いた。「おばあちゃん!」
振り返ると、幸田家の祖母が車椅子に座り、深い色の和服に白髪が美しく映えている。執事が慎重に車椅子を押していた。
呼びかけに、祖母の皺だらけの顔がパッと嬉しそうにほころぶ。「まあ!直樹、今なんて呼んだの?」
「おばあちゃん!おばあちゃん!」直樹は小さな足で駆け寄り、祖母の手をぎゅっと握った。
「聞いたかい?知弘、杏子、今、直樹が私をおばあちゃんって呼んでくれたよ!」祖母の目には涙が浮かび、声は震えていた。「この日を、どれだけ待ち望んだことか……」もし足が不自由でなければ、すぐにでも孫を抱きしめたかったに違いない。
彼女は優しく直樹の髪を撫で、心配そうに尋ねた。「直樹の病気、どうなの?お医者さんはなんて?」
杏子が口を開きかけると、知弘は自然な動作で手を下ろし、先に答える。「ご安心ください。最高の専門医を揃えて、治療も万全に進めています」
「それは良かった……」祖母はほっとした様子でうなずいた。
だがすぐに、少し訝しげな目線を知弘に向ける。「知弘、さっき入ってきたとき、君は手を上げていたけど……何をしていたんだい?」
杏子の心臓が跳ね上がる。
知弘は、さっきまで振り下ろしかけていた手を、ごく自然に杏子の肩へとまわし、強引に自分の胸元に引き寄せた。
その動きは、まるで何度も練習したかのように滑らかだった。
杏子は一瞬で体が固まり、頭が真っ白になる。
この腕の中の温もり……どれほど遠い存在だっただろう。
懐かしいはずのあの広い肩と涼やかな香りが、今はただ虚しく、そして皮肉に感じられる。
彼の体温が薄い服越しに伝わってきても、杏子には冷たさしか感じられなかった。
「母さん、勘違いだよ」知弘は表情一つ変えず、わざとらしい優しさをにじませて言う。「杏子は目覚めたばかりで、傷が痛むらしくてね。ちょっとすねていたから、抱きしめて慰めていたんだ」
「ああ、そうなの」祖母は疑うことなく深く頷き、しみじみとした口調で言った。「杏子は直樹を産んでから、体が弱くなったものね。女が子どもを産むって、それだけ命を削ることなんだよ。知弘、もっと杏子をいたわって、しっかり守ってあげなさい」
長年屋敷にこもって暮らす祖母ですら、杏子が出産後に体調を崩したことをよく覚えていた。
だが、夫である知弘は、それを一度も気にかけたことがない。
そして誰も知らない。
医師の診断書には、杏子の命に残酷な終止符が記されていることを――
彼女は二十六歳まで、生きられない。