仁香は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込みながら、知弘が二人に向かっていく姿をじっと見つめていた。
知弘は数歩で杏子の前に来ると、いきなり彼女の手首をつかみ、自分の胸元にぐいと引き寄せた。
杏子は不意を突かれ、強い力に引きずられるまま、あのなじみ深いけれども冷たい腕の中に倒れ込んだ。
「知弘?」杏子は驚いて顔を上げた。
「俺を裏切って、他の男とこそこそ会っていたのか?」知弘の声は氷のように冷たかった。「杏子、いい度胸だな。」
杏子は眉をひそめて反論した。「勝手に決めつけないで!」
「じゃあ、なぜここにいるんだ?」知弘は路肩の巨大なスクリーンを指差した。「あんな告白、派手すぎて目立ちすぎだろ!」
嫉妬の炎が彼を焼き尽くさんばかりだった。
貴彦は、本気で杏子を想っている――!
これまで自分が杏子に冷たく接してきたこと、傷つけてきたことは、すべて彼の記憶に鮮明に残っている。もし貴彦がこのまま情熱的に追い続けたら――
杏子の心は揺らいでしまうかもしれない。
それだけは、絶対に許せなかった。
「知弘、ティアラなら譲る。でも、杏子だけは絶対に譲らない!」貴彦が一歩前に出て、真剣な声で言った。「彼女は、僕が一目で決めた女性だ。全力で、世界一の幸せをあげる!」
知弘は鼻で笑った。「お前が?何ができるって?」
「僕は、君より何百倍も杏子を大切にする!」
「残念だな。杏子はもう俺のものだ。」知弘は腕を強く回して杏子を引き寄せた。「貴彦、遅かったな!」
「恋愛に、先着順なんてない!杏子が自分で決めるんだ!」貴彦は一歩も引かなかった。
知弘は眉を上げた。「杏子に選ばせるって?いいだろう、貴彦。お前が負けたと納得できるようにしてやるよ。」伸ばした指で杏子の腰をしっかりと抱き寄せ、貴彦の方へ向かせた。「言えよ、杏子。俺か、貴彦か、どっちを選ぶ?」
貴彦も期待を込めて杏子を見つめた。
知弘は絶対に負けるはずがないと自信満々だった。
自分は杏子の正真正銘の夫だ。息子の直樹もいる。
貴彦なんて、杏子と知り合ってまだ数日だろう――
「私の選択、本当にそんなに大事?」杏子は静かに問い、二人の男を見渡した。「どうしても私に答えを求めるの?」
「そうだ!」知弘はきっぱりと言った。
「そうだ!」貴彦も即答した。
「わかったわ。」杏子はゆっくりと口元に微笑みを浮かべ、はっきりと答えた。「もしどうしても二人のうち一人を選ぶなら……私は貴彦を選ぶ!」
その瞬間、貴彦は歓喜に包まれた。
知弘の顔には、信じられないほどの衝撃が浮かんでいた。
杏子が……自分を選ばなかった……?
貴彦に心を奪われてしまったのか? 公然と自分を捨てるなんて――
「杏子!」知弘はこめかみをピクピクさせ、怒りを抑えきれず叫んだ。「もう一度言ってみろ!」
杏子は覚悟を決めたように、澄んだ声で言い返した。「聞こえなかった?もう一度言おうか?」
知弘の目は血走っていた。「よくもそんなことを!」
「貴彦は明るくて優しい。彼を選ぶのが私にとって一番の選択よ。あなたは?知弘、あなたが私に何をしてきたか、自分で分かってるでしょ?」その言葉は鋭く知弘の心を刺した。
この女は、選ばなかっただけでなく、面と向かって自分を責めるなんて――
「杏子、もう許さないぞ!」
「私は本当のことを言っただけ。」
知弘は怒り狂い、貴彦は歓喜のあまり杏子のもとへ駆け寄った。「杏子!やっぱり、君の心には僕がいるんだね!」
貴彦は知弘の腕を振り払うと、杏子の両手をしっかり握りしめた。「本気で想えば、きっと気持ちは通じる。杏子、君を守り、幸せにするって約束する!」
知弘は嫉妬で気が狂いそうだった。
自分の妻が、他の男から目の前で告白をされている――
まるで自分が存在しないかのようだった。
杏子は貴彦を見つめ、かすかに苦しそうな声でささやいた。「貴彦……もっと早く出会えていたら……きっと、こんなにつらい人生じゃなかったのかもしれない……」
でも、人生に「もしも」はない。
出会う順番は、もう決まっていた。
もし初めて恋を知ったとき、貴彦のような人に出会っていたら、運命は変わっていたのだろうか――
「大丈夫だよ、杏子!今からでも遅くない!」貴彦は興奮しながら言った。「これから二人で――」
「ふざけるな!」知弘の怒鳴り声が遮った。
叫ぶやいなや、知弘は杏子を抱き上げ、そのまま肩に担いで自分の車へ向かって歩き出した。
「杏子!」貴彦は慌てて追いかけた。「知弘!彼女を離せ!女の子にそんなことして、恥ずかしくないのか!」
知弘は無視して、さらに足早に歩いた。
二人の護衛が貴彦の前に立ちふさがった。
「津川さん、ここから先はご遠慮ください。」
彼らが貴彦の進路をふさぎ、知弘は抵抗する杏子を車まで運んだ。
「知弘!下ろして!このバカ!今すぐ下ろして!もう限界、吐きそう!」杏子は手足をばたつかせ、必死に抵抗した。
知弘は一切聞く耳を持たなかった。
「本当に吐きそう!!」杏子は泣きそうな声で叫んだ。
やっと車のそばに着いたとき、知弘は杏子を下ろした。
足が地面についた途端、めまいと吐き気が襲い、杏子は車のドアにすがって腰を折り、「うっ」と激しく嘔吐した。
知弘はそのすぐ隣に立っていた――
吐しゃ物が、高価なスーツのズボンや手の甲、ピカピカの革靴にまで飛び散った。