目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第二十三話 誘っているの?


横浜中央病院の心臓外科の廊下で、黒澤征は主治医のオフィスから出てきた。スマートフォンの画面には、未読のメッセージが静かに表示されている。


彼は指先で画面をなぞり、口元に意味深な微笑を浮かべたが、返信する前に柔らかな腕がそっと絡みついた。


「行きましょう」と浅田美咲が親しげに寄り添いながら、


「凛くん、午後に来るって言ってたでしょ?あまり待たせない方がいいよ」と囁いた。


黒澤は「うん」とだけ応え、スマホをポケットに戻した。


車を運転し、浅田美咲とキキを渓山邸まで送り届ける。ここは黒澤が日常的に使っている自宅で、黒澤重工からも近い。


帰りの車内で、二人はキキの手術について話し合った。


先天性の心疾患は今すぐ命に関わるものではないが、慎重な対応が必要だ。黒澤は国内屈指の専門チームと最先端の病院を手配していた。


「あなたの手配なら間違いないわ」と美咲は従順に頷く。


「私はあなたに任せる。キキが元気になれば、それでいいの」


彼女は一瞬黙った後、横顔を向けて鋭い視線を投げた。


「キキのことが心配なの?それとも、私のこと?」


黒澤は前方の渋滞を見据えたまま、淡々と応じた。


「明日、キキの術前検査を受けさせる。問題なければ日程を決めよう」


美咲はそれ以上詮索しなかった。黒澤の一線をよく知っている彼女は、彼の忍耐を試すのが得策でないことを分かっていた。


キキは黒澤が帰宅するや否や、弾けるように彼の胸へ飛び込んだ。


黒澤は慣れた手つきで彼女を抱き上げ、そのまま興奮気味なキキに引っ張られてリビングの隅でレゴの山へ。


美咲もカーペットに座り、黙ってその様子を見守る。黒澤がキキに根気強く組み立て方を教えている横顔を見て、彼女は確信に満ちた笑みを浮かべた。


キキがいる限り、自分と黒澤の縁は切れない――そう信じていた。


昨夜、彼女はこの邸宅をさりげなく見回した。他の女性の気配はどこにもない。


ただ、もう少し周囲の人間に探りを入れれば……。


そんな時、チャイムが鳴った。


黒澤凛が大量のショッピングバッグを抱えて現れ、キキは新しい服に歓声を上げて美咲と一緒にクローゼットへ消えていった。リビングには叔父と甥だけが残る。


黒澤凛はクローゼットのほうを顎で指し、「いや~、まるで本当の家族みたいで和むわ」と茶化した。


「ご機嫌だな」と黒澤が一瞥する。


「ご機嫌どころじゃないよ」と凛は顔を輝かせる。


「今日は小野鈴と買い物して、食事も一緒だった。キキの服も彼女が選んだんだ」


黒澤はコップを持ち上げる手が、ほんの一瞬止まった。


「でもね、今日のハイライトはそこじゃない」と凛は声を潜めて得意げに続ける。


「彼女を病院まで送ったら、またあの役立たず彼氏に鉢合わせしてさ。あいつ、顔が真っ青だったよ」


「長年の付き合いだろう。簡単に壊せるのか?」と黒澤は淡々と返す。


「付き合い?」と凛は鼻で笑う。


「金の前じゃそんなもん何の価値もない。小野鈴の母親の手術には三百万円かかる。高橋には到底払えないだろ?俺みたいなライバルが横にいれば、あいつのプライドなんて何度でも粉々さ。小野鈴は金に執着しないタイプだけど、追い詰められたら何だってあり得る。俺がちょっと火をつければ、あのカップルはすぐ終わるよ。その時は、彼女は俺のものだ」


黒澤はそれを聞き、ソファの肘掛けを指で軽く叩きながら、微かに笑みを浮かべた。


「そうか、健闘を祈るよ」


「なんか皮肉言われてる気がするんだけど?」と凛が目を細める。


「気のせいだろう」と黒澤は取り合わない。


「ところで、おじさん」と凛は顔を近づけて媚びるように笑う。「ちょっとお願いがあるんだけど」


黒澤は横目で見て、「その顔は、ろくなことじゃないな」


「いやいや、大したことじゃないよ。おじさんが一言言ってくれれば済む話」と凛はさらに声を潜める。


「高橋健太の会社、黒澤重工と取引したがってるでしょ?そこを――」


凛は自分の企みを包み隠さず話した。黒澤はしばらく黙っていたが、凛が諦めかけた頃、静かに口を開いた。「いいだろう」


「ありがとう、おじさん!」と凛は喜色満面で足を組み、


「これで小野鈴も分かるはずだ。あんなダメ男といても未来はないって。俺なら金もあるし、彼女にいくらでも使ってやれる!」


黒澤はそれ以上何も言わず、隣のスマホを手に取った。画面には、まだ返信していないメッセージが表示されている。


彼女が僕に連絡した理由は、これか。


そのメッセージはすでに三十六時間も放置されたままだった。


小野鈴はついに我慢できず、黒澤に電話をかけた。


受話器からは冷たい呼び出し音だけが響く。


行き場を失った彼女は、財布の奥にしまわれていた渓山邸のカードキーをふと思い出す。電話もメッセージも無視されても、彼はいつかは家に戻るはず――


もう待てなかった。


月曜日の授業が終わり、小野鈴は電車とバスを乗り継ぎ、一時間半かけて渓山邸に到着した。


夏の夕暮れ、まだ明るさの残る空の下、彼女は重厚な門の前で深く息を吸い、カードキーをかざした。


リビングに足を踏み入れた瞬間、小野鈴はその場に立ち尽くした。血の気が引いていくのを感じる。


この空間……あまりに懐かしすぎて、胸が締め付けられる。ソファの配置、暖炉の輪郭、大きな窓の曲線、空気に漂う冷たい気配――どれもパリのあの家とそっくりだ。あれは彼が借りていた部屋のはず。


まさか、パリでの思い出をそっくりそのままここに再現していたなんて――


小野鈴は重い足取りでソファに近づいた。


あまりに馴染んだ空間は、失われた記憶の封印を無理やりこじ開ける。


あのときの情景が、鮮烈に蘇る――ソファでの絡み合い、階段での息遣い、カーペットに転がった服のボタン、耐え切れず唸るマッサージチェアの音まで……


彼女は思わず拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込む痛みでなんとか自分を保った。


もう終わりにしよう。全部、終わらせるんだ。


必死に心を落ち着かせ、ソファに座って彼を待った。数分後、玄関から電子ロックの音が響いた。


扉が開く。


黒澤征が熱気をまとって入ってきた。彼女を見ると、微かに眉を寄せ、冷ややかな不機嫌を滲ませる。「君に来るよう連絡した覚えはないが?」


「ごめんなさい……」小野鈴はすぐに立ち上がり、指をぎゅっと握りしめる。「勝手に来てしまいました。どうしても話したいことがあって」


黒澤は無言でドアを閉め、ジャケットをハンガーに掛けると、そのまま彼女の前に歩み寄る。彼女の手首を掴み、強引にソファまで引っ張って、そのまま自分の膝の上に座らせた。


身体が落ち着く間もなく、冷たい唇が彼女の首筋を這い、手は薄い服越しに腰を撫で回す。


「何を話したい?」その声は低く、どこか気だるげで掠れていた。


小野鈴は衝動的に振り払いたいのを必死に堪え、身体をこわばらせる。


目を閉じて深呼吸し、静かに腕を伸ばして黒澤の首に手を回した。


彼の動きが一瞬止まり、喉の奥からくぐもった笑い声が漏れた。大きな手で彼女の尻を軽く叩く。「誘い方、覚えたのか?」


「今夜は……」小野鈴は彼の奥深い瞳を見据え、一語一語を絞り出す。「なんでも、あなたの好きにしていい」


そして、しばし躊躇いながらも、何度も練習したその言葉をやっと口にする。


「今夜が終わったら……私を解放してもらえませんか?」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?