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第二十二話 逸脱


黒澤凛の口が一度開くと、止まることを知らなかった。


語るうちに、黒澤征をほとんど完璧な恋人のように描写していく――浅田美咲のわがままを限りなく受け入れ、彼女がどこまでも夢を追いかけるのを黙って見守り、さらには子どもを連れて家を出た後も、そっと影から支え続けていたのだと。


小野鈴は黙って話を聞きながら、心の奥に苦い諦めのようなものが滲んでくるのを感じていた。


彼女の知る黒澤征は、常に高みからすべてを見下ろし、命令しか口にせず、時折、まるでペットをからかうような興味しか示さない人だった。


まさか、他の誰かの前では、これほどまでに別の顔を見せていたとは――。


味も感じないまま昼食が終わると、黒澤凛はどうしてもと小野鈴を病院まで車で送っていくことにした。


小野鈴は心が乱れていたが、黙ってその申し出を受け入れた。


車が病棟の前に停まると、黒澤凛も一緒に降りてきて、数歩歩み寄ると彼女の手首をしっかりと掴んだ。


「鈴」と、彼は珍しく真剣な表情で小野鈴を見下ろす。


「前に言ったこと、もう一度考え直さないか? お母さんの病気、時間はないんだぞ」


小野鈴は深く息を吸い、首を横に振った。


「ありがとう。でも、もう考えてない」


「じゃあ、どうするつもりだ? 三百万円、誰かに借りるのか?」


黒澤凛は眉をひそめ、疑いを隠そうともしない。


「健太がその借金を背負って、なおかつ君を迎えに来ると思うか?」


「彼は、そんな人じゃない」小野鈴の声は小さかったが、固い決意がにじんでいた。


黒澤凛は鼻で笑った。


「本気でそう思ってる? 三百万円、彼が何年働いても足りないぞ。君たち……」


「それは彼が決めること。私は尊重する」と小野鈴は言い、手を振りほどこうとした。「今日はありがとう。もう行くね」


「ふざけるな!」黒澤凛は彼女の態度に苛立ち、強く彼女を抱き寄せた。「鈴、本気で自分から破滅に向かうつもりか?」


「離して!」小野鈴がもがいたその瞬間、怒りを抑えきった声が数歩先で炸裂した。


「何してるんだ!」


小野鈴の心臓が跳ね上がり、思わず振り返ると、健太が真っ赤な目で彼女たちを睨みつけていた。こめかみに青筋が浮かび、まさに爆発寸前の火山のようだった。


小野鈴は慌てて黒澤凛を押しのけようとしたが、黒澤凛は手を緩めるどころか、健太の前でさらに腕に力を込め、小野鈴を自分の胸元に閉じ込めた。


「見えてないのか?」と黒澤凛はあごをしゃくり、健太を挑発するように睨み返した。


「俺が彼女を口説いてるのが分からないのか? 三百万円すら用意できないくせに、大事な場所をいつまでも占領してるなんてな」


その言葉が、健太の最も弱い部分を正確に突いた。


彼は拳を握りしめ、白くなるほど指に力が入っていた。体は怒りで小刻みに震え、今にも飛びかかりそうだった。


しかし黒澤凛は、まるで怖がる様子もなく、むしろ顔をさらに近づけて悪意を浮かべて笑った。「殴るか? どうぞ。でもその後は、俺の弁護士チームと賠償金の準備をしとけよ」


「健太!やめて!」と小野鈴が叫ぶ。一度でも手を出せば、取り返しがつかなくなる。


健太は荒い息をつきながら、黒澤凛の傲慢な顔と小野鈴の切羽詰まった表情を交互に見つめ、結局、拳をそっと解いた。ただ、目の充血は一層深くなった。


黒澤凛はそれを見て、小野鈴の耳元で二人だけに聞こえる声でささやいた。


「見ただろ? 金の話をしたら、途端に尻込みする。結局、彼の中で金の方が君より大事なんだよ」と、さらに悪意を含んだ声で続ける。


「賭けてもいい。いつかきっと、彼は金のために君を他の男に渡す日が来る。そう思わないか?」


「もうやめて、黒澤凛!」小野鈴は耐えきれず、思い切り彼を突き飛ばした。


黒澤凛は今度は素直に手を離す。


挑発は十分に効果があった。彼は車に向かいながら、ドアを開ける前に小野鈴に意味深な笑みを残した。「明日、黒澤家の屋敷で待ってるよ」


エンジン音が響き、スポーツカーは一瞬でその場を去り、重たい沈黙だけが残った。


小野鈴は、怒りで顔が歪んだ健太を見て、一歩近づき、彼の手を取ろうとした。「何もないの、本当に……」


「本当か?」健太の声はかすれ、以前のように「信じてる」とは言わなかった。


その冷たい視線に小野鈴は顔が青ざめたが、なおも首を縦に振った。


「本当。」


健太はしばらく黙り込んだ。空気が固まり、息が詰まるほどだった。


ついに彼は重い口を開いた。「さっきの、黒澤家の屋敷ってどういう意味だ? 明日、何しに行くんだ?」


小野鈴の指先が一気に冷たくなる。


黒澤凛の「明日会おう」という言葉は、明らかに爆弾を仕込んでいた。


小野鈴は、健太に家での家庭教師のことを言いたくなかった。黒澤凛との関わりを勘ぐられるのが怖かったからだ。しかし、もう隠せない。


彼女は深呼吸し、できるだけ平静に説明した。


「黒澤家の娘さん、桜子の家庭教師をしてるの。バイトだけど、収入も悪くない。さっき言ってたのは、明日その授業があるってだけ」


「面接で?」と健太が詰め寄る。


「うん。偶然だったの」小野鈴は黒澤征の名を避けて答えた。


だが、健太の表情は和らぐどころか、ますます険しくなる。


「今すぐやめろ」彼は低い声で命じた。その語気はこれまでにないほど強く、問答無用だった。


小野鈴は呆然とし、胸に冷たいものが広がった。「契約したばかりだし、違約金もある。それに、この収入は私にとって……」


「金、金、金! 君の頭の中には、金しかないのか!」健太は声を荒げ、感情を爆発させた。「本当は給料が惜しいんじゃなくて、黒澤凛や黒澤家に未練があるんだろう?」


その鋭い言葉は、小野鈴の頬を打つように突き刺さった。


彼女は目の前の男を信じられない思いで見つめた。かつて選んだ理由だった優しさも理解も、今はどこにもなかった。


圧倒的な違和感と失望が胸を満たしていく。


「少し、冷静になろう」小野鈴の声は微かに震え、彼の手を振りほどいた。


「私はもう、行くね」


健太は自分の態度に気づいたのか、慌てて彼女の腕を取ろうとした。


「鈴、ごめん、俺……」


「もういいから」小野鈴はそれを遮り、手を振りほどいて階段を駆け上がった。


「追いかけてこないで」


健太はその場に立ち尽くし、彼女の背中が扉の向こうに消えるのを見つめ、また拳を強く握りしめた。


彼の胸には、強い不安がわき上がってくる――小野鈴は、どうしようもなく、彼の思い描いていた道から逸れていこうとしているのではないか。


一時間ほど前、彼の携帯に友人から写真が送られてきた。


写真には、小野鈴と黒澤凛が、高級フレンチレストランで向かい合って座っている姿が映っていた。健太が一週間働いても払えないような店だった。以前の小野鈴なら、金で心が揺らぐことなどないと信じていた。


だが今、彼女は母親の病気で崖っぷちに立たされ、三百万円の重圧に押し潰されそうになっている。これまで通り信じ切ることができるのか――。


小野鈴は病室に戻らず、重たい防火扉を開け、静まり返った非常階段に足を踏み入れた。埃まみれの窓際に立ち、外から吹き込む消毒液の匂いのする風を受けても、頭の中の混乱は消えなかった。


今日という一日は、暴走する列車のように、次々と彼女を襲ってくる。


黒澤征の過去、美咲とキキという子どもとの複雑な関係。黒澤凛の意図的な挑発と揺さぶり。そして、健太の突然の疑いと、これまで見せたことのない強硬な態度――。


浅田美咲は子どもを連れて戻ってきたが、黒澤征の態度は曖昧だった。


健太は、もう彼女を信じてはいない。


もし、もう一度普通の生活に戻りたいのなら、黒澤征との関係を完全に断ち切るしかない。


だが、黒澤征はどう思うのだろう。簡単に手放してくれるだろうか。彼の本心さえ、今は分からない。


混乱した思いが頭の中で絡み合い、引き裂かれていく。


小野鈴は冷たい壁にもたれ、ゆっくりと埃だらけの階段に座り込む。


しばらくして、彼女は携帯を取り出した。薄暗い階段で、画面の光が彼女の青ざめた顔を照らしていた。


指先が連絡先を滑り、無名のまま心に刻み込まれた番号で止まる。


小野鈴は目を閉じ、深く息を吸い込み、全身の力を振り絞るように震える手で送信ボタンを押した。


【黒澤さん、少しお会いできますか?】



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