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第二十一話 道徳の葛藤


小野鈴は、うつむいたまま指先で服の裾を無意識にいじっていた。女性からあの質問をされた瞬間、まるで愛人が本妻に出くわしたような居心地の悪さを感じていた。


ふと顔を上げて視線を彷徨わせると、少し離れたところに黒澤征の姿があった。


彼は浅田美咲の隣に立ち、まるで他人事のような冷めた表情でこの場を眺めている。助け舟を出すつもりなどさらさらなく、ましてや紹介などする気配もない。


そうだ、彼の世界の中で、私は名前すら持たない存在だったのだ。


「先生、いらっしゃいましたね!」


家政婦の明るい声が、まるで救いの雨のように響いた。


「お嬢様、朝から先生のことを待ちわびていましたよ!」


小野鈴はその声に救われるように「今行きます」と答え、重苦しい空気から逃げ出す口実を得た。


「まあ、凛くんも司くんもいらしてたんですね。それに浅田さんも!」


家政婦の視線が彼女の後ろへと移る。


浅田さん――小野鈴の胸にあったわずかな期待は、その三文字で粉々に砕け散った。


浅田美咲が家政婦と挨拶を交わし、明るい笑い声と親しみやすい話しぶりが自然と場を和ませる。誰もが好感を持つような、そんな人柄がにじみ出ていた。


挨拶が終わると、浅田美咲は再び小野鈴に視線を向けた。


「桜子ちゃんの先生だったんですね。初めまして。」


小野鈴は喉の奥が詰まる思いで「初めまして」とだけ答え、自分の名前を名乗る勇気もなく、家政婦と一緒にその場を離れた。背中には、まだ二つの視線が突き刺さっているようだった。


庭には、枯山水の石組が冷たく佇んでいる。


浅田美咲は歩みを止め、指先で石組をなぞるように触れながら黒澤征に顔を向けた。


「覚えてる?初めてここに連れてきてもらった時のこと……」


「キキはこれから横浜に残る。」


黒澤征は彼女の言葉を遮り、感情を見せずに言った。


「もう小学校に入る年だ。君と一緒にあちこち移動するわけにもいかない。」


浅田美咲は変わらず微笑んでいたが、その目にはもう温かさはなかった。


「キキは残るとして、私は?」


「君が決めればいい。」


「もし私が残らなかったら?」


彼女は一歩踏み寄り、試すように微笑んだ。


「引き止めてくれる?」


黒澤征は石組の向こうを見つめたまま答える。


「キキの世話は誰かに任せる。」


「どうやって?桜子ちゃんみたいに、たくさんのベビーシッターや家庭教師をつけて?あなたは世界中で一番いいものを与えられるかもしれない。でも、キキが本当に欲しいものを聞いたことは?それはきっと、両親がそろった家よ。」


浅田美咲はふいに手を伸ばして黒澤征の手首を掴み、声を落とす。


「征、あなたが一言言ってくれたら、私はここに残る。」


小野鈴は、黒澤桜子に二コマの授業を終えた後、休み時間に桜子に誘われてリビングに降りた。


リビングでは黒澤凛と黒澤司が雑談していて、小野鈴を見るなり凛が目を輝かせて声をかける。


「小野先生、授業は順調ですか?」


「ええ、まあ。」と小野鈴は簡単に返した。


「あとで送りますよ。」と黒澤凛が立ち上がり、当然のように言う。


「大丈夫です。買い物もあるので――」


「奇遇ですね。僕もこれから買い物なので、一緒にどうです?」と黒澤凛はにっこり笑って譲らない。


桜子はみずみずしい桃をかじりながら、ぱっちりした目をくるくるさせて「凛お兄ちゃん、どうしてそんなに小野先生に付きまとうの?」とからかう。


「やめなさい。」と黒澤凛は桜子の鼻をつまむ。


「キキのために買い物するだけだよ。」


「キキ?」と桜子が驚く。


「キキはお母さんと海外にいるんじゃなかったの?」


「戻ってきたよ。」


「じゃあ、お母さんは?」


桜子は好奇心を抑えきれずに身を乗り出す。


「もう二叔父さんとは離婚したんでしょ?」


黒澤凛はいたずらっぽくウィンクする。


「さてね……もしかしたら、もうすぐうちに新しい叔母さんが増えるかもね。」


小野鈴はカップを手に、一人用のソファーでじっとその会話を聞いていた。


キキ――


この名前はたしか、以前黒澤凛が口にしたことがあった。


その時は「キキちゃん」と呼んでいた。お母さん……この子は、黒澤征の娘なのか?


その考えがよぎった瞬間、背筋に冷たいものが走り、カップを持つ手がかすかに震えた。


十一時半、授業が終わる。階下に降りると、やはり黒澤凛が玄関で待ち構えていた。彼の黒澤征についての言葉を思い出しながら、小野鈴は少し黙り、それでも最終的にうなずいた。


山本玲の調べた情報だけでは足りない。黒澤凛は、黒澤征に最も近い存在だ。


あの子のことを知る必要がある。黒澤征と浅田美咲の関係を、今はっきりさせなければ――


もし黒澤征が本当に子どもの母親とやり直すつもりなら、自分は何者なのか。


高橋健太への裏切りがすでに道徳的な一線を越えているのに、さらに誰かの家庭を壊すことになれば、一生自分を許せない。


買い物は口実で、本当の目的はショッピングモールだった。


黒澤凛は慣れた様子で子ども服売り場へ向かい、真剣な眼差しで選び始める。


小野鈴はそばで店員とのやり取りを聞きながら、断片的な情報を繋ぎ合わせていた。身長130cm、体重20kg、6歳、もうすぐ小学校に入学――


六歳。


もしキキが黒澤征の娘なら――小野鈴の心は一気に沈み込んだ。


パリで彼と出会った時、もうこの子は生まれていたのだ。


山本玲は「黒澤征は初恋の人を追いかけてパリに行った」と言っていた。あの日、電話越しに聞いた女性の慌てた声――キキが病気なの。


ありふれた小説のような展開が頭をよぎる。妊娠を隠して去り、子供が病気になり、父親を探して戻ってくる――


「小野さん?」


黒澤凛が手をひらひらさせる。


「どうしたんです?さっき、昼は隣のフレンチにしようって言ったら、うなずきましたよ?」


小野鈴は我に返る。自分がうなずいた覚えはないが、黒澤凛はもうにやりと笑い、当然のように彼女を高級そうなレストランへ導いた。


メニューを開くと値段が目に刺さり、思わず断りたくなる。


「気にしないでください。」と黒澤凛が先に言う。


「桜子の教え子になってくれてるお礼と、服選びを手伝ってくれたお礼です。」あっけらかんとした口調だ。


向かいの席で無邪気に笑う黒澤凛は、少しひょうきんだが根は悪くない。


「ありがとう」と小さく礼を言った。


注文を終えると、黒澤凛は携帯を取り出して黒澤征に電話をかけ始めた。


小野鈴はグラスを持ったまま、指先に力が入り、会話の一言一句を聞き漏らすまいと神経を尖らせる。電話越しに待ち合わせの時間が決まり、凛は買ったばかりの服を届けると言っていた。


通話が終わると、小野鈴は何気ないふりをして口を開いた。


「妹さんがいるんですね。」


「うん、二叔父さんの娘ですよ。」と黒澤凛も気軽に答え、前菜のパンを口にする。


「でもここ数年はお母さんと世界中あちこち回って、ほとんど放浪生活みたいなものです。」


「……放浪?」と小野鈴は眉をひそめる。


「ちょっと大げさだけどね。」と凛は笑った。


「お母さんが自然保護活動家で、カメラ片手に世界中を回ってるんです。キキもずっと一緒で、落ち着いた場所がなかった。……それが二叔父さんと別れた理由でもあるんですよ。まあ、二叔父さんは今でも二人の面倒を見続けてて、まるで聖人みたいな元カレですけどね。」


小野鈴はテーブルの下で手をぎゅっと握りしめ、爪が掌に食い込んで赤い痕を残していた。

曖昧だった疑念や断片的な情報が、黒澤凛の何気ない一言で、はっきりと証明され、繋がり、自分の胸を押し潰すようにのしかかる――


黒澤凛の話が、彼女の予感を完全に裏付けていた。


黒澤征が自分を囲ったのは、初恋の人と別れた直後だったのだ。



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