小野鈴は足早に病院の地下駐車場へ向かっていた。胸の内は焦りでいっぱいだ。
広い地下駐車場。黒澤征は具体的な場所を伝えていない。エレベーターを降りてから、鈴は周囲をキョロキョロと見渡した。
その時、強烈なハイビームが彼女を照らした。光の先には見覚えのあるベントレー・ベンテイガが停まっている。鈴は慌てて駆け寄った。
車のそばに着くと、息を整える間もなく後部座席のドアを開けた。
黒澤が目だけで合図を送り、鈴は黙ってうなずき席に座った。ドアを閉める音だけが響く。
車内は広々としているはずなのに、黒澤と二人きりになると、圧迫感が消えることはなかった。
鈴はきちんと背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えてうつむいている。まるで裁きを待つ罪人のようだった。
「よく分かってるな。ちゃんと後ろに座るなんて、俺の習慣を忘れてないみたいだな。」
黒澤の声が響く。彼は鈴のこめかみの髪を指先で弄びながら、じっと彼女を見つめた。
「その格好は、好きじゃないな。」
鈴が着ているのは病院の患者服だ。本来はパジャマ代わりで、黒澤に「五分で来い」と言われ、着替える暇もなかった。
「ごめんなさい」と鈴は素直に謝った。
その様子を見て、黒澤は低く笑う。笑い終えると、彼は鈴の首筋を軽く叩いた。
「こっちに来い。」
鈴は躊躇したが、渋々黒澤の隣へ身を寄せた。
「それだけ?」
黒澤の声は一見穏やかだったが、そこには明らかな威圧感が滲んでいた。
逃げられない――そう悟った鈴は深呼吸し、何度も繰り返してきたように、黒澤の膝の上に跨り、腕を首に回した。
彼のあざけるような視線を見たくなくて、思わず目を閉じかける。だがすぐに、黒澤の厳しい声が飛んだ。
「目を閉じるな。こっちを見ろ。」
その低く重い声は、鈴の胸を締め付け、指先まで震えさせた。
仕方なく、鈴は黒澤と目を合わせる。
黒澤は鈴の頬を撫で、震えるまつげを眺める。「緊張してるのか?」
鈴は小さくうなずいた。
彼の指が鈴の唇をなぞる。
「高橋健太とこういうことはしなかったのか? 二年付き合ってたのに、前より下手になってないか?」
黒澤の意地悪な言葉に、鈴の頬は一気に熱くなった。思わず反論しかける。
「私と彼は……」
「俺が車の中でお前にどうしたか、覚えてるだろ?」
黒澤が遮り、もう一方の手で鈴の腰を軽く叩いた。
突然のその動きに、鈴は大きく身を震わせる。黒澤は満足げに、さらに一度「パチン」と音が響くほど強く叩いた。静かな車内にその音がやけに大きく響く。
封じ込めていた記憶と、黒澤のわざとらしい言葉が重なり、鈴の目元には涙が浮かんだ。
黒澤は泣きそうな鈴のまぶたにキスを落とし、「ちょっと触っただけで泣くなんて、甘いな。ただの戯れだろ、痛くもしてないのに」とささやく。
彼は耳元に息を吹きかけ、低い声で三つの言葉を囁いた。
鈴は唇をかみしめ、頭がぼんやりしていく。黒澤の言葉が心に突き刺さり、うまく声が出せなかった。
「いいよ、俺が直接確かめる。」
黒澤の両手が鈴の腰に回る――
鈴は黒澤とのやりとりで、ずっと劣勢だった。
意識が遠のいていく中、過去の記憶と今の現実が交錯し、現実感が薄れていった。
黒澤は時折、鈴を困らせるような質問をぶつけてきたが、もうほとんど耳に入らなかった。
どれくらい時間が経ったのか分からない。気付けば、鈴の手の中に何かが握らされていた。プラスチックの包装――
ぼんやりと視線を落とすと、自分が黒澤に後部座席で押さえつけられていることに気づく。
手を開くと、中にはコンドームのパッケージ。
これって――
「お前がやれ。」黒澤は鈴の手首を掴んだ。
鈴は思わず手を引こうとしたが、さらに強く握りしめられる。
黒澤は鈴の薬指の指輪を指でなぞりながら、「俺の子を産みたいなら、それもいいぞ」と囁く。
その言葉と動作で、鈴は一気に現実に引き戻された。手を震わせながら包装を開け、黒澤の指示通りに動く。
あまりの緊張に手元が震え、何度も失敗した。
黒澤は鈴の手首を優しく握って手伝いながらも、からかうのを忘れなかった。
「高橋健太、大したことないんだな? 前より反応が過敏じゃないか?」
……
真夜中の病院地下駐車場は、誰一人いない。不気味なほど静まり返っている。
周囲のセンサーライトも消え、車内は闇に包まれていた。
すべてが終わった後、黒澤は車内のライトをつける。
照明の下で、鈴は隅で服を直していた。患者服はシワだらけで、見るも無残な姿だ。
闇の中ならまだ自分をごまかせたのに、今やすべてを黒澤に見られている。屈辱感が増していくばかりだった。
「また泣きそうなのか?」黒澤はティッシュを一枚取り、鈴の目元にそっと当てる。「さっきはまだ泣き足りなかったか?」
これ以上、黒澤の言葉を聞くと本当に感情が爆発しそうで、鈴は必死にこらえた。
深呼吸してなんとか平静を装い、「黒澤さん、もう遅いので病室に戻ります」と言いながら、ドアに手をかけた。
その時、黒澤が背後から声をかけてきた。「怒ってるのか?」
鈴は冷たく答える。
「怒ってません。」
「そう、怒ってないわけじゃなくて、怒る勇気がないだけだろ。」
黒澤の声色は、どこか含みを持っていた。
鈴は心の中で苦笑した。誰だってさっきのことがあれば、平気ではいられない。黒澤は昔よりも、ずっと意地悪になった。
鈴はドアを開け、車を降りようとした。
その時また、黒澤が問いかける。
「俺たちのこと、あとどれくらい隠し通せると思う?」
鈴は何も答えなかった。
「来週、本当に婚姻届を出しに行くのか?」
その言葉に、鈴はとうとう堪えきれず、冷たく「関係ありません」とだけ言い捨て、ドアを強く閉めて立ち去った。
病室に戻り、冷静になると、鈴は自分の衝動を後悔した。
ここまで我慢してきたのに、あんなふうに反抗することはなかった。黒澤の気分を害したところで、何の得もない。
それから二、三日、鈴はずっと不安だった。黒澤がまた何か仕掛けてくるのでは、と気が気でなかったが、彼は姿を見せず、病院にも変わった様子はなかった。
高橋健太の新しいプロジェクトは順調に進んでいるようで、彼はすっかり忙しくなり、病院には鈴だけが残された。
それ自体に不満はなかったが、連日の疲労が体に溜まり、少ししんどさを感じていた。
土曜の朝、鈴はバスに乗って黒澤家へ桜子の語学レッスンに向かった。
バス停から門の前まで歩き、インターホンを押して開門を待っていた時、背後からエンジン音が聞こえた。
振り返ると、あの馴染みのベントレーが目に入り、鈴の心臓が強く打った。
数十秒後、助手席から一人の女性が降り、続いて黒澤も車から出てきた。
二人は並んで立ち、黒澤は凛々しく、女性は華やかで自信に満ちていた。
その姿を見て、鈴はあの日の電話を思い出した。
じっと二人を見つめていると、女性の視線が鈴に向けられ、値踏みするように眺められた。
「征くん、この方は?」
その親しげな呼び方に、鈴は思わず手を握りしめた。
なんて親密な呼び方――