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第十九話 降りて来い


小野蘭子は目を覚ましたものの、まだ体力が戻らず、昼食を済ませてから少し鈴と会話しただけで、また深い眠りに落ちてしまった。


母が眠っている間に、鈴は高橋健太を病室の外の廊下に呼び出した。


鈴は彼の目を見つめながら、申し訳なさそうに言った。


「健太、母のことがあるから、今は他のことを考える余裕がないの。入籍のこと、少しだけ待ってもらえないかな?」


高橋健太はしばらく黙って鈴を見つめ、やがて優しく微笑んでうなずいた。


「わかった。じゃあ、もう少し落ち着いてからにしよう。」


彼は手を伸ばし、癖のように彼女の頬に触れようとしたが、途中で動きを止め、代わりに彼女の肩を軽く叩いて、冗談めかして付け加えた。


「どうせ、他の誰かに取られたりしないだろうしな。」


普段なら何気ない軽口のはずなのに、今の鈴にはその一言が鋭い針のように胸に刺さった。


込み上げてきたのは、後ろめたさと、どうにも抜け出せない泥沼のような無力感だった。


高橋健太には少し男らしさを押し出すところがあるが、鈴に対しては常に優しく、惜しみなく愛情を注いでくれていた。


黒澤征との、思い出したくもない二年間を経験した後、鈴はもう恋愛に夢を持たなくなっていた。ただ、穏やかで安定した日々が欲しいだけだった。


高橋健太は、今の自分にとって最も現実的で安心できる相手だった。人柄も良く、見た目も申し分ない。家も裕福で、仕事もできて努力家だ。


唯一の難点を挙げるなら、彼の両親が鈴の出自をあまり良く思っていないことだろう。


それも無理はない。健太は一人息子、鈴は世間で父親が誰か分からない“落とし子”として見られている。


健太の両親は、表向きは鈴に丁寧に接してくれるが、心の中では受け入れていないのが伝わってきた。


それでも、鈴はもう十分満足していた。


このまま平穏な日々が続くはずだった――

だが、黒澤征が再び彼女の前に現れた。


そして、彼は決して鈴を手放そうとはしなかった。



夕方六時、小野蘭子が目を覚ました。


高橋健太が夕食を手配してくれ、これは蘭子が危機を脱してから三人で囲む最初の団らんとなった。蘭子の機嫌はとても良く、食事中は健太の気遣いを何度も褒めた。


鈴は病室の洗面所で果物を洗いながら、その水音でさえ胸のざわめきを消してはくれなかった。


黒澤征のもとへ今夜行くと約束したとき、まさか母が集中治療室から出てくるとは思いもしなかった。付き添うのは当然だ。


本来なら、一通のメッセージで事情を説明できたけれど、彼の名刺は捨ててしまったし、今朝も黒澤からは何の連絡もなかった。


今、鈴の選択肢は二つしかなかった。母を一人病室に残して約束の場に向かうか、あるいは……約束を破るか。


短い葛藤の末、鈴は後者を選んだ。


母を一人にすることはできない。黒澤には、また別の機会に説明するしかない。


夕食は蘭子の安堵と健太の細やかな気配りの中、穏やかに終わった。


食器を片付けながら壁の時計に目をやると、針はすでに八時を指していた。約束の時間に現れなかった鈴を、黒澤はもう待っていないだろう。彼の時間は何よりも貴重だ。


食後、蘭子が健太に「今日は早く帰って休んで」と促した。


鈴が健太をエレベーターまで見送り、病室に戻って母の体を拭いた。


すべてが終わる頃には、時刻は九時半を回っていた。


蘭子はすぐに眠りにつき、鈴は布団を掛け直してやると、自分も急いで洗面を済ませた。


病室は二人部屋だったが、隣のベッドは空いていた。


鈴はそちらに寝転がったが、体は疲れているのに頭だけが冴えわたり、様々な思いが次々と浮かんでは消えていった。


どれくらい経ったのか、枕元の携帯が突然激しく震えた。


鈴ははっと目を覚まし、すぐに携帯を手に取って隣のベッドを確認した――蘭子は目を覚ましていない。携帯をマナーモードに切り替え、そっと洗面所へと身を潜めた。


「……はい?」鈴は声を押し殺した。


「小野鈴。」


受話器越しの低く静かな声が、鈴の問いかけを遮った。


その冷たくゆっくりとした口調が、まるで鋼の鉗子のように心臓を掴んでくる。


黒澤征――


名前ひとつで、彼が怒っていることが鈴にははっきりと分かった。


喉がつまるような感覚で、鈴はかすれた声で説明した。


「ごめんなさい、黒澤さん……母が今日、集中治療室から出てきて、今夜はここで付き添わなきゃいけないんです。別の日に……また伺ってもいいですか?」


電話の向こうは、息が詰まるほどの沈黙。


あまりの静けさに、受話器越しの彼の荒い息まで聞こえてくるようだった。


「本当にごめんなさい。次は、次は必ずちゃんとしますから……」


「そうか。」


ようやく返ってきた男の声は、感情を一切感じさせず、ただ冷たく響いた。


鈴が言葉を継ぐ間もなく、命令が下る。


「じゃあ、降りて来い。」


鈴は言葉を失った。


降りて来い?どこに?


考えがまとまらないうちに、黒澤の声が再び強く響いた。


「それとも、俺がそっちへ行こうか。」


「いえ、来ないでください!」鈴は一気に目が覚め、心臓が激しく脈打つ。


「今すぐ降ります、すぐ行きます!」


「地下駐車場だ。五分やる。今からカウントを始める。」黒澤の声は変わらず冷静だった。



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