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第十八話 結婚は少し先送りに


黒澤家の運転手が小野鈴を病院の正面まで送ってくれた。


鈴は車を院内まで入れようという申し出を丁重に断り、一人で車を降りて病院の入口へと向かった。


その様子を、ちょうど高橋健太が目にしていた。彼は買い物のために病院を出たところで、路肩に停まっている黒いベンツのバンが目に留まった。


さらに目を引いたのは、ナンバープレートの「9」が連なった印象的な数字だった。


健太は咄嗟に太い木の陰に身を隠し、鈴が足早に病院へ入っていく後ろ姿をじっと見つめ、そのままベンツが交通の流れに溶け込むように去っていくまで目を離さなかった。


鈴の交友関係をよく知る健太にとって、あのクラスの車を持つ知人は限られている。


すぐに一人の名前が頭に浮かぶ――黒澤凛。


凛はしばらく前から鈴に想いを寄せていて、昨日も彼が鈴を病院まで送り届けていたのだ。


鈴は決してお金目当ての性格ではないし、凛の存在についても健太に隠したことはなかった。これまで健太は、鈴が凛の財力に心を動かされることなどないと信じていた。しかし今、現実が目の前に突きつけられている。


母・蘭子の手術費三百万円は、自分たちにとっては一生かかっても貯められないほどの大金だ。だが、黒澤凛にとっては車一台分に過ぎない。


鈴は母親思いだ。もし彼女が手術費のために凛に頼らざるを得なくなったとしたら――健太の顔色が一気に曇った。


鈴は集中治療室のエリアへと急いだが、思いがけない知らせを受けた。午前中に蘭子の容体が安定し、一般病棟へ移ったというのだ。


しかも、手続きをしたのは「娘の婚約者」だと、わざわざスタッフが教えてくれた。


娘の婚約者?健太?彼は今日は仕事で忙しいと言っていたはずなのに――鈴は首をかしげた。


一般病棟へ向かい、ナースステーションで病室を尋ねようとしたところで、健太が現れた。


「健太。」


鈴は駆け寄って腕を掴み、切羽詰まった声で尋ねた。


「お母さんの様子は?」


「大丈夫。先生が、もう危険な状態は脱したって言ってたよ。」健太は鈴の手を握り返し、まるで何かを確かめるようにじっと彼女の顔を見つめ、最後はじっと唇に視線を落とした。


「どうしたの?」


鈴はその視線に少し戸惑う。


「顔についてる?」


「いや、なんでもない。」


健太は目を逸らし、感情の見えない口調で言った。


「朝、どこにいたの?何度か電話したけど繋がらなかった。」


鈴は一瞬驚き、慌ててスマホを取り出して確認する。画面には数件の不在着信が表示されていた。そういえば、黒澤家で桜子に勉強を教えていた時、機内モードにしたまま戻すのを忘れていたのだ。


「機内モードのままだった。ごめんね。」と説明し、そのまま解除した。


健太はその様子を見つめながら、ふとまた唇に視線を落とした。


「どうして機内モードに?朝はどこに行ってたの?」


「家庭教師のアルバイトの面接に行ってたの。」


鈴は事実だけを伝え、黒澤家の名前はあえて伏せた。凛との関わりを連想させたくなかったからだ。


健太は頷き、疲れの見える鈴の顔に再び目を向けた。


「顔色、あまり良くないね。」


「最近ちょっと疲れてるだけ。」鈴は小さな声で答えた。


健太は少し黙り、現実的な話題に切り替えた。


「お母さんの今後の治療について、もう一度先生と相談した方がいいと思う。無理な治療より、慎重に考えたほうが……」


「健太。」鈴は静かに遮り、真っ直ぐ彼を見上げて、はっきりとした口調で言った。


「私たちはまだ結婚していない。それに、たとえ将来結婚したとしても、母のことは私の責任。あなたに負担をかけるつもりはないよ。移植手術の費用は自分でなんとかする。あなたが今まで頑張って貯めたお金には手をつけない。」


健太の手が、無意識に強く握りしめられる。喉まで出かかった「黒澤凛に頼るつもりなのか?」という問いを飲み込み、深く息を吸って冷静を装いながら聞いた。


「じゃあ、その手術費はどうやって用意するつもりなんだ?」


鈴は少し間を置き、前もって考えていた答えを口にした。


「病院の公式サイトで、無料手術枠の募集があるのを見つけたの。私たちの状況なら、申請する条件に合ってるみたい。まずはそれにチャレンジしてみようと思ってる。」


「そんな枠、簡単に取れるもんじゃないだろ。コネでもない限り、形だけのものだよ。」健太は半ば呆れたような口調で言う。


「山本玲が、知り合いに頼んでみてくれるって。やってみないと分からないでしょ。」鈴はきっぱりと言い切った。今のうちにこの「計画」を健太に伝えておくことで、後々不自然にならないようにしたかった。


午後一時ごろ、蘭子が一般病棟で目を覚ました。健太は昼食と日用品を買いに出て、病室でテキパキと身の回りの世話をしていた。


健太がゴミを捨てに行っている隙に、蘭子はため息をつきながら娘に言った。「健太くんは本当に気が利く子だね。これからも鈴のそばにいてくれたら、私は安心だよ。」


鈴は毛布を直しながら、少し呆れたように言った。「お母さん、まだ五十代なのに、そんなおばあちゃんみたいなこと言わないでよ。」


蘭子は首を横に振り、真剣な顔で続けた。「鈴、私の体のことは自分が一番分かってる。あんまり無理しないで……」


「そんなこと言ってもダメ。先生の言う通りにして。」鈴はきっぱりと遮り、「治療に専念して。ほかのことは心配しないで。」と強い口調で言った。


「治療って言ったって、いくらあってもキリがないんだよ。」蘭子は声を潜め、ドアの方を気にしながら続けた。


「お願いだから、健太くんにお金を頼んだりしないで。本人がよくても、ご両親はどう思うか分からない。結婚前にそんなことになったら、向こうの家にだって気を遣わないといけないんだから。」


「大丈夫、お母さん。」鈴は母の手を握り、


「健太には頼ってないよ。うちの事情に合う無料手術の枠を申し込んでるし、他の費用は自分の貯金や、友達から少し借りてるだけ。」と落ち着いた声で言った。


そして少し間を置き、さらにはっきりと言った。


「それに、結婚のことは……しばらく先にしよう。お母さんの体がちゃんと良くなってから、考えようよ。」


病室の外――


健太は冷たいドアノブに手をかけたまま、鈴の「しばらく先にしよう」という言葉がはっきりと耳に届いた。


そのまま、ドアを開けかけた手が止まり、視線は足元のタイルに落ちていく。握った手は、力が入りすぎて白くなっていた。



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