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第十七話 今夜、俺のところへ


小野鈴は必死に黒澤征の胸を両手で押し返そうとしたが、その力はまるで蚍蜉が樹を揺らすようなものだった。


黒澤家の本邸の書斎は静まり返り、窓の外の庭からときおり虫の鳴き声が聞こえるだけだった。


その静けさが、かえって小野鈴の不安を煽る。誰かがいつ扉を開けて入ってくるかもしれない――そんな考えが頭を離れず、全身が緊張でこわばった。


そのとき、不意に空気を切り裂くような振動音が響く。黒澤征のポケットの中の携帯電話だ。


彼は動きを止めると、小野鈴への拘束を解き、ひとつ後ろへ下がった。電話を耳に当てながら、もう片方の手で乱れたネクタイを手早く整える。


ふたりの距離はまだ近いまま。書斎の中は紙をめくる音さえ聞こえるほど静寂で、電話の向こうの女性の声もはっきりと小野鈴の耳に届いた。


「明後日、横浜に行くんだけど、会えないかな?」

落ち着いた自然な声だった。


しかし、小野鈴の心は激しくざわめく。その言葉自体に問題があるわけではない。ただ、黒澤征の一瞬の眼差しに、説明しがたい色がよぎったのを見逃さなかった。


女性の勘が、このときだけは鋭く働く。山本玲が少し前に調べてくれた、黒澤征がパリまで追いかけたという彼の忘れられない元恋人――その存在を、彼女はすぐに思い出した。


小野鈴は思わず視線を落とし、彼を直視できなくなる。それでも、視界の端で黒澤征の電話を持つ手に目が向いてしまう。


短い沈黙の後、黒澤征の声が低く響いた。「横浜に何の用だ?」


「キキが体調を崩してて、病院に連れて行くの。……あなたも、しばらく会ってないでしょ?」


相手の声には、わずかながら切実さが滲んでいた。


「キキがどうした?」黒澤征の眉間にしわが寄り、関心を隠せない様子だった。


小野鈴の心は一層かき乱される。電話の向こうで何を話しているのかはもう耳に入らず、ただ黒澤征の「便宜を図る」という返事だけが鮮明に響いた。「フライト情報を送って。迎えに行く。」


彼は少し間を置いてから続けた。「ホテルは予約しなくていい。うちに泊まればいい。」


小野鈴は無意識に手のひらに爪を立てていた。強く握りしめたその跡がくっきりと残る。


通話はすぐに終わった。黒澤征は携帯をしまうと、再び小野鈴を腕に引き寄せ、唇を求めて顔を寄せる。


小野鈴はとっさに顔をそむけた。


「逃げるのか?」彼女の拒絶に、黒澤征は明らかに不機嫌になる。彼の声は低く、耳元にかすかに触れるほど近い。「小野さん、自分の立場を忘れていないだろうな?」


小野鈴はさらに強く掌を握った。指が食い込むほどだ。感情をどうにか抑え、声を押し殺すように言う。「黒澤さん、ここは本邸です。誰かに見られたら困ります……」


黒澤征は低く笑い、彼女の張りつめた肩を指でつまむ。「そうか?でも俺の記憶じゃ、小野さんはこういう場所のスリルが好きだったはずだが。」どこか危うい響きを含んだ声で続く。「沖縄のあのバルコニーでのこと、忘れたとは言わせないぞ――」


その言葉は最後まで続かなかった。


小野鈴は思わず手で彼の口を塞いだ。


思い出したくもない、恥ずかしい記憶が一気に蘇り、顔から首筋、耳まで一瞬で赤く染まる。


「桜子のお父さんの契約書……まだですか?」彼女は無理やり話題を変えようとする。「お忙しいなら、また日を改めて――」


言い終わる前に、手のひらにふいに温かな感触が伝わる。黒澤征が、彼女の手越しにそっとキスをしたのだ。


小野鈴は電流が走ったように体をこわばらせ、慌てて手を引っ込めて後ろに隠した。


黒澤征は彼女の動揺を楽しんでいるかのように微笑み、書斎の幅広い紫檀のデスクを指さす。「契約書はそこにある。彼のサインは済んでいるから、君も署名して一部持ち帰ればいい。」


小野鈴は逃げるようにデスクに向かい、指定の欄に震える手でサインした。


終わるとすぐに立ち上がり、早くこの場を離れたかった。


だが、黒澤征はすでに出口の前に立っていた。彼は指に一枚の濃色のカードキーを挟んで差し出す。


「何ですか?」小野鈴はわかっていながら、声を震わせて尋ねる。


「渓山邸。今夜八時。」黒澤征の口調は淡々としているが、拒否を許さない響きがあった。


今夜、何を求められるか――言葉にせずとも明らかだ。


小野鈴の脳裏に、さきほどの電話の内容がよぎる。横浜に来るという女、彼の家に泊まることになったその人、そしてキキという子供。彼女は唇を噛みしめ、手を震わせながらも、すぐにはカードを受け取れなかった。


「まさか、約束を忘れたわけじゃないだろうな?」黒澤征の声が、冷たく低く響く。


「……忘れていません。」小野鈴は絞り出すように答え、ついにカードを受け取った。そして顔を上げ、彼の目をまっすぐ見据える。


「じゃあ、黒澤さんが約束してくれたことは、いつ実現してくれるんですか?」


「病院からさっき連絡があった。一週間ほどで結果が出るそうだ。進捗は、いつでも電話かメールで聞いていい。」


小野鈴は何か言いたげに口を開きかけ、ふと、さっき適当に捨ててしまった名刺のことを思い出す。


「今、俺に電話して。」


黒澤征は突然スマートフォンを取り出し、ロックを解除してダイヤル画面を彼女の前に差し出した。


「番号を登録しろ。」


小野鈴は息が止まりそうになる。どうごまかそうか考えていた矢先、まさかその場で連絡を強要されるとは思わなかった。固まったまま動けないでいる。


黒澤征はそんな彼女をじっと見つめ、鋭い視線で問いかける。


「俺の名刺、どうした?」


小野鈴は目を逸らし、蚊の鳴くような声で答える。


「……なくしました。」


「"なくした"のか、それとも"捨てた"のか?」


黒澤征は一語一語区切って追及する。その圧は容赦ない。


小野鈴は何も言えず、喉が詰まってしまう。


黒澤征はすでに真実に気づいているようだった。空気が一気に冷え込む。


次の瞬間、彼はぐいと小野鈴を引き寄せ、もう一方の手で容赦なく顎をつかみ、無理やり顔を上げさせた。その瞳は底知れぬ暗さと怒りを湛えている。


「小野さん、」彼は見下ろしながら、表情には薄い笑みさえ浮かぶが、目は冷たかった。


「俺は従順な女が好きだ。俺を不機嫌にさせるな、わかったか?」


顎を強くつかまれ、小野鈴は痛みに耐えながら、ただうなずくしかなかった。


「今夜八時、渓山邸だ。」黒澤征はゆっくり手を離し、指先で彼女の頬をなぞる。


「どうやって俺の機嫌を直すか、よく考えておけ。」



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