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第十六話 咲き誇る


午前十時ちょうど、小野鈴は予定通り渓山邸の鉄製の門の前に立っていた。


重厚な門は固く閉ざされ、濃いグレーの石塀は静かに空へと伸び、背後の生い茂る山の緑に溶け込んでいるようだった。


周囲は驚くほど静かで、ただ山風が木々の梢を揺らす音だけが耳に届く。鈴は閉ざされた門を見上げ、なぜか胸の奥がざわめいた。


十時五分、十分……腕時計の分針が一つ一つ進むが、門の中からは何の気配もない。


無意識に携帯に手を伸ばすが、指先は冷たい画面の上で止まった――黒澤征の連絡先が書かれたカードは、もう路上のゴミ箱に捨ててしまったのだ。


わずかな苦味が舌先に広がり、鈴は唇を引き結び、その場から動かず、山道の先に目を向けた。


低く響くエンジン音が近づき、シャープなラインの黒い車が静かに鈴のそばに停まった。

ドアが開き、黒澤征が降り立つ。黒いシャツに身を包み、その姿は一層精悍に映る。彼は鈴の前に立ち止まり、しばし顔を見つめた。


「待たせたか?」


「今来たところです」鈴は落ち着いた声で答え、彼がまくった袖口から覗く腕に視線を落とした。


「着いたら電話してくれればいいのに」彼は眉をわずかに上げ、感情を感じさせない口調で言う。


「少しぐらい待つのは構いません」鈴は彼の視線を避けて、再び閉ざされた門を見た。「黒澤さん、この仕事は具体的に何をするんですか?雇い主はどなたですか?」


「中に入れば分かる」黒澤はそれ以上質問させず、片手で鈴の背を押し、強引に門へと導いた。


門のヒンジが重い音を立てて開き、庭の景色が広がる。


数歩踏み込むと、濃紺の制服を着た中年の執事が静かに現れた。


「征様」と軽く頭を下げ、すぐに鈴に目を移し、職務的な眼差しで尋ねる。「こちらの方は――?」


黒澤は足を止めず、「三郎に桜子を主ホールに連れて来させて」と指示する。


「かしこまりました、征様」と執事は即座に返事し、足早に去っていった。


鈴は黒澤に続き、いくつかの廊下を抜けて主屋のホールに入った。


静かな木の香りに、ほんのりとお茶の香りが混じっている。


広々とした空間は和とモダンが調和した落ち着いた雰囲気で、正面の壁には雄大な水墨画が掛けられ、重厚な家具は上質なブナ材でできていると見えた。


テレビ台の両脇には九谷焼の花瓶が静かに飾られている。


鈴はブナ材の椅子に腰かけたが、柔らかなクッションも胸のざわつきを落ち着かせることはなかった。


黒澤は向かいのソファに座り、給仕が差し出した九谷焼の茶碗を手に取った。蓋を軽く動かし、鈴を横目で見やる。


「新茶の玉露だ。飲んでみるか?」


「ありがとうございます」鈴も自分の前の茶碗を手に取り、一口含む。温かな茶が喉を通り、舌先にかすかな苦みと甘みが残る。


鈴は背筋を伸ばし、無意識に滑らかな茶碗の縁を指先でなぞった。


黒澤の視線は、やや緊張した鈴の横顔にしばし留まる。


その姿はふと、記憶の中のある場面と重なった――パリの、がらんとした部屋で初めて彼女が足を踏み入れた時の、不安げな小鹿のような表情。あの時、彼女は二十二歳で、まだ蕾のまま。彼がその殻を一枚一枚剥がし、彼女は彼の腕の中で咲き誇った――


「征おじさん!」澄んだ声が静かなホールを破り、黒澤の思考も遮られた。


黒澤はごくりと喉を鳴らし、緩く首元を緩めて気持ちを落ち着かせた。


鈴も驚いて顔を上げる。


五、六歳くらいの女の子が元気よく駆け込んできた。高く結んだポニーテール、鮮やかなピンクのTシャツに白いテニススカート。


健康的な小麦色の肌、星のように輝く大きな瞳。どことなく黒澤に似ていて、血のつながりを感じさせた。


それに続いて、黒澤と同年代の男性がホールに入ってくる。鈴が目を向けると、男は優しげな笑みを浮かべて話しかけてきた。


「こんにちは、小野先生ですね?」


鈴は思わず隣の黒澤を見やり、うなずいた。「はい、こんにちは」


数言交わして、鈴はようやく黒澤の言う「仕事」の意味を理解した――黒澤の姪、黒澤桜子のフランス語家庭教師だということ。


目の前の穏やかな男性は黒澤の弟、黒澤司。そして女の子は生徒の桜子だった。


司の顔立ちは黒澤に似ているが、どこか柔らかな雰囲気をまとい、家族の温もりが染み込んだような親しみやすさがあった。桜子も素直で賢そうで、父の隣で静かに鈴を見つめている。仕事としては、申し分ないように思えた。


ただ――


「凛お兄ちゃん!」鈴が契約内容について考えていると、桜子が突然階段の方に向かって元気に呼びかけた。


鈴の胸が一気にざわつく。


振り返ると、ちょうどらせん階段を降りてきた黒澤凛と目が合った。彼は目を大きく見開き、驚きを隠せない様子で駆け寄ってきた。


「小野鈴?どうしてここに?」


鈴はこめかみがズキズキと脈打つのを感じた。


世間は狭すぎる。


「知り合いなの?」司が二人を見比べ、興味深げに尋ねる。


「凛は私が担当している生徒です」鈴は凛が余計なことを言い出す前に、最も無難で正直な説明をした。


司は納得したようにうなずく。


「そうだったんだ。偶然だね」


だが、凛の視線は鋭さを増し、皆の顔を見渡した後、黒澤に向き直った。


「誰が小野先生を呼んだの?」


「私だ」黒澤は茶碗を置き、低く重い声で答える。


「何か問題でも?」


「君たちは……」


凛はさらに眉をひそめた。


「小野先生は、征おじさんが桜子のために特別に招いた先生なんだ」と司が微笑みながら空気を和らげた。


凛の驚きはやがて困惑へと変わり、もう一度鈴に向き直った。「君……フランス語ができるの?」


「多少は」鈴は答えた。


「小野先生はとても控えめですね」司がフォローを入れる。「征おじさんが履歴書を見たんですよ。C2レベルの資格、なかなか取れるものじゃありません」


―――


四十五分の体験授業はすぐに終わった。桜子は想像以上に協力的で、ずっと集中して楽しそうにしていた。授業が終わると、彼女は鈴の手をそっと引いてきた。


「小野先生、次はいつ来るの?」


鈴の張り詰めていた心が少し和らぐ。


子どもの澄んだ瞳を見て、彼女は決心を固めた。


「黒澤さん、契約内容は問題ありません」


「それは良かった」と司は満足げに微笑み、隣に控えるグレーのスーツ姿の若い女性に合図した。「梶原さん、小野先生を書斎に案内してあげて」


「小野先生、こちらへどうぞ」梶原は丁寧に鈴を誘う。


鈴は礼を言い、彼女のあとについてやや薄暗い廊下を歩いた。ダークな木の床が靴音を反響させ、壁には抽象画が並ぶ。邸内は外観から想像するよりはるかに広く、まるで迷路のようだった。


やがて梶原重厚なダークブラウンの扉の前で立ち止まる。扉には何の札もなく、滑らかな木目だけが浮かんでいる。


「小野先生、こちらで契約書をご用意しています」と梶原は軽く頭を下げ、元来た道を戻っていった。


鈴は扉の前に立ち、指先で冷たい木の表面に触れる。深く息を吸い、手を上げてノックしようとした――


「カチャ」


微かな音とともにドアロックが外れる。


次の瞬間、扉の内側から強引な力が鈴の手首をつかむ!

一瞬のうちに、彼女の体は中へと引きずり込まれた!


天地がぐるりと回る。


気がつくと、鈴は扉に押し付けられていた。


背中が硬く冷たい扉に激しくぶつかり、鈍い音が響く。咄嗟の出来事に声も出ないまま、目の前は薄暗く、扉の隙間から漏れるわずかな光が、男の大きな影を浮かび上がらせている。


圧倒的で攻撃的な気配が一気に彼女を包み込む。


目の前にいるのは、黒澤だった。


「な、なにを――」


鈴が言葉を紡ぐ間もなく、彼は彼女の顔を両手で包み、強く唇を重ねた。膝で彼女の脚を押し広げるようにして――


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