真夜中の公爵邸。大きな天蓋つきのベッドで横になりながら、アレクサンドラ・ローゼンシュタインは、青白い月光に照らされた手紙をじっと睨んだ。
『セドリック殿下は、あなたとの婚約破棄を決意されました。大聖女リサ様を、皇太子妃になさるおつもりです。また、殿下の密命を受けて、騎士団長ジャレッドがあなたを襲撃しようとしています。どうかご注意下さい』
差出人は、帝室顧問のトラヴィス秘書官。
「ふふ……私を皇太子妃に強く推してたのは、トラヴィスだものね。筆跡の乱れに、焦りが出てる。ご忠告、ありがたく受け取っておくことにするわ」
彼女は冷ややかな笑みを浮かべながら、細い指先で手紙をくしゃりと握り潰した。
その瞬間、窓が突然開き、鋭く風を切る音が耳に届く。
「そこね?」
アレクサンドラが笑顔のまま優雅に指を鳴らすと、今まさにベッドに振り下ろされようとしていた剛剣が、ピタリと空中で静止した。
「なっ……魔法か……!」
枕元に呆然と立ち尽くす剣の主は、騎士団長ジャレッド。その整った顔立ちは、驚愕と焦燥で歪んでいた。
「ジャレッド。騎士団長の立場もわきまえず、真夜中に皇太子妃候補の寝室を単身で襲うとは。悪趣味にも程がありますわね」
「……っ、公爵令嬢アレクサンドラ、覚悟しろ! 貴様は、この国を守護する大聖女リサ様の敵。帝室を破滅に導く悪女だ!」
叫ぶジャレッドに、アレクサンドラは呆れ顔で振り向く。
「あら、敵? ……残念ですわ、あなたほどの騎士が、そんな浅はかな言葉に踊らされるなんて」
「黙れ! 大聖女の地位をリサ様と争って敗れ、その恨みと嫉妬から、リサ様の身を狙っているのだろう。宮廷中の噂だぞ!」
ジャレッドは必死でもがいた。だが、魔法の力によって、彼の全身は完全に拘束されていた。アレクサンドラはゆっくりとベッドを降り、捕らえた獲物へと近づく。
「私が嫉妬して、リサを狙ってるですって? ふふ、まあ否定はしないわ。ねえ、ジャレッド。あなた、あの可愛いリサのことが、好きなの?」
「な、何をバカな……」
ジャレッドの顔が、みるみる赤く染まる。
「隠さなくていいのよ。可憐で、純真で、守ってあげたくなっちゃうリサ。ああいうタイプ、あなた方みたいな騎士は大好きですものね?」
ジャレッドの麻痺した腕がダラリと垂れ下がり、剣を取り落とした。アレクサンドラは彼の耳に息をフッと吹きかけながら、その鋭い瞳を覗き込む。
「でもね、リサはあなたのものにはならない。だって、セドリックが彼女を欲しがってるのよ」
「……殿下が、リサ様を?」
ジャレッドの表情が大きく揺れた。その動揺を見逃さず、アレクサンドラは悠然と微笑む。
「ええ。大聖女の夫となる者は、結婚まで清らかな体を守らねばならない、という掟はご存じよね。だから、あなたも自分にその資格があると思って、リサを望んだのでしょ?」
図星を突かれて、屈強なジャレッドが柄にもなく、恥ずかしげに目を伏せる。
「でも、あなたがどれだけリサを愛しても、セドリックが望みさえすれば、彼女は皇太子妃になれるのよ。だって、私はまだセドリックに、何も許してないんだもの。彼も、大聖女の夫になる資格があったってわけ。セドリックの思惑が、今ごろお分かり? あわれな騎士団長様?」
「くそっ……!」
軽く舌打ちするジャレッドの顎を、アレクサンドラは指先でスッと持ち上げた。
「変な噂を吹き込んだのも、セドリックでしょう。あなたは、利用されて、けしかけられたのよ。ほら、私の目を見て」
アレクサンドラは、ジャレッドの瞳を自分へと向けさせる。彼女の魔性の力が、あっという間にジャレッドを魅了した。甘美な誘いの声が、脳内に響く。
「そんなに辛いなら、私が慰めてあげても良くってよ?」
「ふざけるな!」
「強がってるのね。かわいいわ。でも、あなたの目は正直。こうやって、虐げられるのが好きなんでしょう?」
アレクサンドラは、ジャレッドの紅潮した耳に視線を落とした。耳元で舌舐めずりしながら、反応を目でも味わう。彼女の舌の音が、彼の聴覚を徐々に支配していった。ジャレッドは思わず息を呑む。
「あら、当たりだったみたいね。セドリックもあなたも、外面は強気だけど、根は変態さんなのよねぇ?」
「……ち、違う……っ!」
「いいえ、同じよ。さあ、素直になりなさい。あなたがリサに惹かれたのも、清純で気高い彼女に踏みつけにされて、見下されて、虐げられたかったからではないの? でも、残念。あの子は、そんなことしてくれないわよ」
アレクサンドラは、さらに魔力の放出を高め、残酷な言葉責めを放ちながら、ジャレッドの体を仰向けに横たえさせた。
「どう? 性悪で遊び好きと評判の貴族令嬢に、情けなく屈伏させられる気分は。癖に、なりそうでしょ?」
「や、やめろ……!」
必死な素振りを見せるジャレッドに、アレクサンドラは顔を近づけ、すばやく手を動かしてみせながら、意地悪な言葉をかける。
「本当に、やめていいの?」
「……!」
ジャレッドはその問いかけを聞くと、ピタリと動きを止め、震える瞳でアレクサンドラを見上げた。
「あなたが欲しいなら、リサのことなんか、忘れさせてあげるわ。私が、あなたのすべてを奪ってあげる」
ジャレッドは、もはや逃れられないと悟った表情で、潤んだ目をアレクサンドラに向ける。
「お願いします……アレクサンドラ様……」
「何を、お願いするの? やめてほしいの?」
「……やめないで下さい。お願いします……」
「ふふ、よく言えました」
彼女は満足げに笑うと、ジャレッドの黒髪を優しく撫でつけた。
「あなたの初めては、リサではなく、この私が全部いただくわ」
アレクサンドラの体が、ベッドへうつぶせに覆いかぶさっていった。ジャレッドは、小さく切なげな吐息を漏らす。
「あなたも、セドリックも、リサが惹かれそうな男は、全部私が奪ってやるのよ。リサがどれほど欲しがっても、絶対に手が届かないようにね……」
彼女は狂おしいほどの笑顔を浮かべ、ジャレッドを見下ろした。
「これでもう、あなたは私のものよ。私だけの
月明かりの下、アレクサンドラの声はまるで呪いのように、ジャレッドの耳元へと禍々しく響いた。