「……また、彼女ですか」
天界第七層、輪廻管理部第四課。
静寂が満ちる部屋の窓辺の席で、転生を司る天使――ビオスは、眉間を揉みながら、疲労の滲むため息を吐いた。それから、スゥーと息を吸い込み、執務机の上に視線を落とす。銀色に輝く彼女の瞳が、眉間にしわを寄せながら見据えるのは、転生者達の報告書。その書類の束の一番上にある、一際分厚い報告書に記された、一人の転生者の名前だった。
ビオスはその名を指先でひとなでし、ペラペラと報告書をめくりはじめる。
「……規定外行動に、世界構造の改変。登場人物への影響……項目が増えてますね。以前よりも」
しかし、本質は変わらない。
――世界に。いや、創世神から与えられた“
ビオスは一通り文章に目を通すと、はぁと大きなため気を吐いて、書類から指を離した。
本来は、転生前の記憶を消して、新たな人生へと旅立たせる。その転生先で、何かの拍子に転生前の記憶が蘇っても、定められた運命から大きく外れない――もしくは、その世界に生きる者たちの運命を狂わせない限り、ビオス達は静観する。しかし――
「星野未来は全ての記憶を持ったまま転生していた。そして、彼女は知っていた……どういう選択をすれば、誰の人生を壊せるのか。誰を選べば、どう行動すれば、周りの人間を籠絡させることかできるのか……」
それはもはや、“定められた運命”とは呼べない。
「……仕方がありません。悪役を一人、配属しましょう」
息を吐くように呟くと、机の上に置いてある呼び鈴を手に取り、チリリンと鳴らした。静謐な空間に、澄んだ鈴の音が響いた。ビオスが鈴を鳴らした時点で、命令は下されたも同然。そして、その命令を遂行するのは――敗北が定められている、公爵令嬢役だ。
――もしかすると、天野未来の手によって、断罪されてしまうかもしれない。
「……それでも、戦ってみる価値はあるわ」
ビオスが呟いて間もなく、ひどく小さな足音が近づいてくる。そうして、うろうろと迷うような足音の後に、控えめなノックが二回鳴らされた。
「入ってください」
ビオスが声をかけると、一拍ののち、扉のノブが回された。そして入室してきたのは、気弱な性格が一目でわかる表情をした、三階級天使――ラファエリスだった。
細く揺れる羽音と、遠慮がちに揃えられた靴音。
「……し、失礼します……」
発せられた声は小さく、背中を丸めた姿勢には、怯えが滲んでいた。
ラファエリスの天使としての階級は高くない。だが、彼女には――ほかの者に欠けている、慎重さと観察の目があった。
「こちらに来てください、ラファエリス。今回は、あなたに現地対応をお願いしたいんです」
こくりと頷いたラファエリスの金色の髪が、窓から差し込む白く輝く光に照らされ、その美しさにビオスは両目を細めた。
「……不安そうですね。わたしとしては大変困ってしまいますけど、逃げたっていいんですよ?」
ビオスが優しく声をかければ、ラファエリスは、ふるふると首を左右に振った。
「い、いいえ! やります! ……その、私、で……よろしければ」
「ありがとうございます。ラファエリス。貴女の勇敢な選択に、心から賛辞をおくります。――さて。いきなり仕事の話で申し訳ないんですが、ことは急を要するもので」
ビオスは、机の上の書類を一枚、ラファエリスの前へ差し出した。それは、名を持たぬ生まれ変わりの記録ではなかった。
――配役。つまり、役目を持った転生。
「貴女に演じていただくのは、クラウディア・ヴァン=レーヴェン公爵令嬢。……悪役令嬢です」
ラファエリスの瞳が、一瞬だけ、動揺したように見開かれる。
“悪役令嬢”――それは、正史において断罪される側の人間。
これからラファエリスが降臨する
「……ビオス様、あの、私は……その、怖いこととか、うまく……」
「わかっています」
言葉を遮ったビオスの声音は、いつもと変わらず穏やかだった。ラファエリスを、咎めても、叱責してもいない。ただ、確信のない者を肯定もせず、否定もせず、次の一手を進めるだけの冷静な声。
「ラファエリス。貴女の性分は理解しています。けれど、今回の任務には、あなたの持つ柔軟性が必要なのです。……この悪役令嬢の役は、ただ冷酷であるだけでは果たせません。悪役という仮面の奥に、痛みを宿す者こそが、星野未来に対する最後の歯止めとなるでしょう」
ビオスの真剣な眼差しを受けて、ラファエリスは感動したように、口元へそっと手を当てた。
「ビオス様……!」
ラファエリスの緊張と迷いが、羽根の先にまで滲んでいるのが、はっきりと見て取れた。それでも、彼女は、はっきりと頷いてみせた。そして――
「私……演じます」
「そう。本当にありがとう」
ビオスはそれ以上、何も言わなかった。必要な言葉は、すでに告げてある。
(舞台は動き始めてる)
ビオスは椅子に座ったまま、白い光の差し込む窓を振り返った。
(……どうか、あの歪んでしまった世界を、救ってください)
心中で祈るように呟いて、そっと目蓋を閉じたのだった。