「月に八百万円の報酬も渡してるんだ。これ以上、何が不満なんだ?」
深夜。男はリクライニングチェアに身を沈め、声には一切の感情がなく、隣の女への無関心さが滲んでいた。
時崎琴子の胸にあった悔しさは、一瞬で凍りつき、頭の中が真っ白になる。
「報酬、ですって?」
これは、もともと時崎徹が約束してくれた生活費のはずだった。
「徹。」琴子は男の冷たい視線を受け止め、涙を流しながら訴える。「私はあなたの妻よ、売り物じゃない……」
一緒に寝て、お金をもらって、それが結婚?
それなら風俗と何が違うの?ただ籍を入れただけ?
徹にとって、結婚ってそんなものなの?
それとも、琴子にはそれしか価値がないとでも?
二時間前、琴子のもとに監視カメラの映像が送られてきた。
深夜、派手な服の女が徹のスイートルームをノックし、二時間も中にいたという。
最初は、仕事の出張中に軽く遊んでいるだけだと思った。
結婚して三年、徹の夜の欲求はいつも旺盛で、琴子の体を求めてくるのはほぼ毎晩のことだったから。
誤解かもしれない。何度も自分に言い聞かせ、冷静になろうとした。
今日は徹の誕生日だから、嫌な話はしたくなかった。後で聞こうと決めていた。
この三年間と同じように、サプライズの準備をして、手作りのケーキを焼いた。
結婚記念日も、誕生日も、いつも琴子一人で張り切っていた。
彼が不器用なだけだと思っていた。
だが、ニュースで見てしまった——徹が横浜の最高級ホテルを貸し切って、デザイン部長の白鳥美々の誕生日を祝っていた。
白鳥を喜ばせるために、全社員にお祝い金を配っていた。
しかもカメラの前で、白鳥に数千万円もするジュエリーをプレゼントした。
今、徹の首元に巻かれている限定版の深い青のネクタイも、一時間前、白鳥が結んだものだ。
もし、監視映像と誕生日パーティーだけなら、まだ確証にはなれない。
けれど、どちらも同じ女性——白鳥——がいたら?
誕生会で徹と見つめ合っていた白鳥こそ、彼の部屋に入った女だった。
琴子は見間違えない。
……それでも、まだ誤解かもしれない。琴子はかすかな希望を捨てきれず、恐る恐る尋ねた。
「徹、どうして今まで言わなかったの?よく一緒に出張に行くデザイン部長が、女性だって……」
徹の返事は冷たかった。
「仕事のことは、君が知る必要はない。」
彼は、白鳥の誕生日を祝うニュースが琴子のスマホに映っているのをちらりと見たが、琴子が作った味噌汁を飲むだけで、何の説明もしなかった。
「部下の女性に誕生日を祝うのも、仕事のうちなの?」
琴子は勇気を振り絞って問い詰める。
「俺のことに口を出すな。」
徹は眉をひそめ、冷ややかな目で琴子を見下ろす。
その威圧感に、琴子は押し潰されそうだった。
「荷物をまとめろ。出張に行く。」
徹は強い口調で言い、白鳥のことには一切触れず、琴子の質問を遮った。
琴子の感情がとうとう爆発する。
「どうして私が口出ししちゃいけないの? 私たちは夫婦でしょ! あなたが白鳥に贈ったジュエリーは、共有財産よ! 私にも知る権利があるはず!」
「たかが数千万円、いちいち報告するのか?早瀬家が俺から何百億も持っていった時は、そんなに細かく計算しなかったくせに。」
徹は立ち上がり、顔に冷たい怒りを浮かべる。
確かに結婚は秘密だったが、早瀬家が徹から多くの資源を得ていたことは事実だった。
それでも琴子は納得できない。
「私たちは夫婦よ! 白鳥と私を同じにしないで!」
「同じじゃない。君が彼女に敵うわけがない。」
徹の目に浮かぶ軽蔑は、鋭い刃となって琴子の心に突き刺さる。
「数千万円なんて、白鳥の業績に比べれば端金だ。比べるまでもない。」
その冷たい視線は、琴子が今まで見たこともないものだった。
優しく囁き、夜に彼女を求めた男は、まるで幻だったかのよう。
琴子の心は、血が滲むほど傷ついた。
「そんなに白鳥がいいなら、彼女と結婚すればいいじゃない。どうして私と結婚したの?」
目に涙を浮かべ、声が震える。
視界が滲み、徹の凛々しい姿だけが霞んで見えた。広い肩、細い腰、完璧に仕立てられたスーツ。
三年経っても、彼の顔を見るたびに胸が高鳴る。
ハンサムで、強く、家柄も申し分ない。欠点なんてひとつも見当たらない。
初めて出会った時、幼い頃に交わした婚約の相手が彼だと知り、一瞬で恋に落ちた。
彼が自分を好きかどうか――
三年前を思い出す。
早瀬家が倒産寸前、父が琴子を金のために年配の男へ嫁がせようとした時、徹が婚約を果たし、琴子は徹の妻になった。
彼も自分が好きだと信じていた。
でも今は分かる。彼の心はもう他人のもの。
平凡な妻でしかない自分より、徹と肩を並べて働けるビジネスエリート。
けれど、結婚前は自分も名門大学を出て、将来有望なデザイナーだった。
全てを捨てて、徹のためだけに生きることを選び、結婚を秘密にする約束も受け入れた。
徹は嘲笑するように味噌汁を置き、席を立とうとした。
「離婚しよう!好きじゃないなら……」
琴子は目を閉じ、叫ぶように言った。
愛のない結婚なんて、もう耐えられない。
彼の冷たさには耐えられても、自分にだけ冷たいのは許せなかった。
彼女の必死の訴えは、徹にとってはただのわがままにしか映らない。
「月に八百万円の報酬も渡している。それで十分だろう。」
徹は自信満々に言い放つ。彼にとって「報酬」という言葉は、琴子を侮辱しているつもりなど一切ない。
「琴子、自分の立場をわきまえろ。夢を見るな。離婚し早瀬家に戻ったら、今みたいな生活ができると思ってるのか?」
「健康な体があれば、誰もいなくても生きていけるわ。」
琴子は涙をこらえて二階に駆け上がり、クローゼットの奥から白いスーツケースを引っ張り出し、黙々と荷物を詰め始めた。