目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第2話 予約離婚


あの冷たい父親と、卑屈な母親のいる家には、もう戻らなくていい——琴子はそう思った。


時崎徹は無表情のまま、後ろから黙って階段を上がってきたが、何も言わず、ただ冷ややかに見守っていた。


午前四時——窓の外は真っ暗なのに、部屋の中だけが昼のように明るい。琴子は青ざめた顔で、クローゼットからスーツケースのジッパーを引き上げて出てきた。


徹とすれ違いざま、彼は低い声で言った。

「琴子、俺にはもう我慢できる余裕はない。行ったら戻れるなんて期待しないでくれ。」


「明日の朝十時、区役所で。」

琴子の胸がズキンと痛む。彼の声には苛立ちと怒り、そして嫌悪すら感じられた。


「最近忙しいんだ。離婚したいなら、アシスタントに連絡して予定を決めてくれ。俺が非情だなんて言うなよ。もし離婚の手続きを進める前に気が変わったら、何事もなかったことにしてやる。」


徹が振り返ると、琴子のスーツケースはパンパンに詰められ、ベッドサイドの写真や小さなぬいぐるみまできれいに片付けられていた。


なぜか不快感がこみ上げる。自分は彼女に酷い仕打ちをしたのか?お金の使い道は何も制限していないし、家のことも全部任せていたのに——一体何が不満なんだ。


不機嫌さと共に、まるで大切にしてきた部下が突然辞めると言い出した時のような、納得のいかない気持ちが残った。

どうせ彼女は戻ってくる。早瀬家が離婚を許すはずがないし、家に戻ればきっと叱られて連れ戻されるだろう。

自分で生きていく?箱入り娘の琴子に、そんな苦労が耐えられるはずがない。


そう思いながらも、琴子がスーツケースを引いて毅然と去っていく後ろ姿を見ていると、徹の胸はさらに重くなった。


二階の手すりまで歩き、彼女が玄関で車のキーを手に取るのを見下ろして、低く告げる。

「あの車は俺が買ったんだぞ。」


車は高くない、三百万円ちょっと。確かに彼がカードで支払った。琴子が免許を取ったばかりで、安い車を選んだのだった。


白鳥には何千万円もするジュエリーを贈るくせに、琴子には三百万円の車すら惜しむのか?


冷たい風が枯れ葉を巻き上げ、景色はどこまでも寂しい。

琴子は冷え切った心でキーを握りしめ、呼吸を整えてから、それを玄関に投げ返し、スーツケースだけを持って出ていった。


ドアを開けると、夜風が髪を乱し、細い背中は闇の中に消えていく。


徹はその背中を視線で追いかけ、ドアが「バタン」と閉まるまで見送った。やがて寝室に戻り、窓辺に立って街灯の下にたたずむ琴子の姿を眺めていた。


この邸宅は郊外にあり、都心まで少なくとも一時間はかかる。車もバスもなく、歩いて行けるような距離じゃない。


徹は絶対の自信があった。しかし、時間が経つにつれ、その自信は徐々に崩れていった。琴子はスーツケースを引き、冷たい風の中どんどん遠ざかり、やがて完全に見えなくなった。


徹は冷たく鼻で笑い、彼女に「見栄っ張り」のレッテルを貼った。


琴子は高級住宅街を出て、親友の高橋咲に電話をかけた。


咲が車で迎えに来るまで、琴子は寒空の下を一時間も歩き続けた。


咲は車から飛び降りると、琴子を助手席に押し込み、スーツケースをトランクに放り込んで運転席に戻った。


電話では離婚のことしか話していなかったので、咲は疑問だらけだったが、琴子の呆然とした様子に言葉を失った。


車内は暖房がしっかり効いていて、すぐに寒さが消えていく。琴子の目に涙が溜まり、張り詰めていた心が一気に崩れ、熱い涙が手の甲に落ちた。


「琴子、やっぱり……白鳥の誕生日の件?」

あのニュースはトレンド入りして、咲も知っていた。


「ケンカじゃないの。離婚するの。」

琴子は虚ろな目で、しかしはっきりと答えた。


咲は眉をひそめ、静かに言った。

「ちゃんと確かめた?誤解かもしれないよ?」


「誤解かどうか、これを見て。」

琴子はスマホで動画を開き、咲に手渡した。浮気のことは口にしなかったが、徹の態度が全てを語っていた。


咲は動画を見た瞬間、あわてて路肩に車を停めた。


「うわっ!」

咲はその真っ赤な髪のように激しい口調で叫んだ。

「徹のバカ、本当に浮気したの?しかも堂々として、琴子を夜中に追い出すなんて!出ていくのはあっちの方でしょ!」


琴子はスマホを受け取りながら言った。

「私は何も言わなかった。」


咲は納得いかず、

「浮気してたのはそっちの方、なんで黙ってるの?」


「騒ぎにしたって、恥をかくのは私の方よ。」

もし徹の浮気が公になったところで、何が変わる?彼を追い出すことなんてできない。

早瀬家は時崎家には敵わないし、両親も味方にはなってくれない。

早瀬家は時崎家に頼っているから。


咲は何か言いかけたが、結局黙って車を走らせた。


高橋家も横浜では有名な家柄で、咲は卒業後、家族から都心の高級マンションを買い与えられていた。


マンションに着くころには、空が白み始めていた。


荷物を下ろすと、琴子はソファに座り込んだ。


その姿を見て、咲が尋ねる。

「これからどうするつもり?」


「まずは、徹のアシスタントに連絡して、離婚の日程を決める。」

琴子は少し間を置いてから続けた。

「仕事を探して、自分で生きていく。」


毎月八百万円の生活費は決して少なくなかったが、徹の身の回りの世話や毎週の実家への贈り物で、琴子には全く貯金がなかった。手元に残っているのは七十万円だけ。


「……じゃあ、仕事が見つかるまで、ちょっと私を助けてよ!」


咲は琴子を一人にして落ち込ませたくなかったし、実際に助けも必要だった。

「ピアニストにドタキャンされちゃったの!」



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?