高橋咲は高橋家が経営するいくつかの高級レストランを任されていて、毎日ピアニストを呼んで演奏させている。

琴子は幼い頃からピアノを習っていて、演奏の腕前はプロにも引けを取らない。

咲が自分を忙しくさせたいのだと分かって、琴子は「うん、分かった」と素直に返事をした。

咲は仕事が忙しく、付き添う時間がなかった。

「じゃあ、少し休んで。午後はそのまま新しいお店に行ってくれればいいから、少し用事で、迎えに行けないと思うが、」

「大丈夫だよ。」

二人は幼稚園からの幼なじみで、まるで本当の姉妹のような関係。遠慮なんて必要ない。

咲を見送った後、琴子は時崎徹の秘書・宮崎高英に電話をかけ、面会の予約を取る。

「奥様、冗談でしょう？」宮崎は一瞬固まった。「何か用事があれば、徹が夜帰宅してからじゃダメですか？」

「離婚の話をする時間を決めたいの。」琴子は淡々と答えた。その一言を口にした瞬間、鼻の奥がツンと痛む。涙をこらえて、天井を見上げた。

宮崎は息を飲んだ。「それは…徹、今週は予定がいっぱいでして…」

「じゃあ来週でいいです。」琴子は服の裾をぎゅっと握りしめた。

「予定を確認して、改めてご連絡します。」宮崎は即座に電話を切り、時崎徹に報告した。

琴子が折れてくるのを待っていた時崎徹だったが、まさか離婚の日時を指定してくるとは思わなかった。胸の奥に怒りがこみ上げる。

「いい度胸だな。」

不機嫌な声色を察して、宮崎は慌てて「少し話を引き延ばしましょうか？」と尋ねる。

「必要ない。」徹は口元に皮肉な笑みを浮かべた。「一週間後に設定しろ。」引き延ばす？まるで自分が離婚したくないみたいじゃないか。三日もすれば、どうせ向こうから戻ってくるはずだ。

宮崎はすぐ琴子に「来週水曜日午前十時、区役所で」と連絡した。

疲れきっているはずなのに、琴子は全く眠れなかった。電話を切った後も胸が苦しくて、ベッドに横たわっても心臓が激しく脈打つ。とうとう涙がこぼれ、枕を濡らした。

宮崎からメッセージが届いた瞬間、心のどこかで抱いていた小さな期待が音を立てて崩れた。何を待っていたのだろう。彼が離婚をやめると言うのを？自分の非を認めてくれるのを？時崎徹はそんな人間じゃない。そして、自分も夫の浮気を絶対に許せない。

三年は長くはなかったけれど、そのすべてを彼に捧げてきた。結婚前の自分のことさえ、忘れてしまいそうだった。

夕方、琴子は気持ちを切り替え、軽くメイクをしてみなとみらいというレストランへ向かった。道が混んでいて、到着したときにはすでに満席だった。高橋咲が店の入り口で待っていて、タクシーから降りてきた琴子を見つけて駆け寄る。

「車なかったんだっけ。」

「大丈夫。」琴子は咲と一緒に店内へ。

咲はドレスを用意してくれていて、更衣室に案内した。

「顔色悪いけど、ちゃんと寝てないでしょ？」

薄化粧では隠しきれないほど琴子の顔は青白かったが、彼女は首を振った。

「大丈夫だから。」

ロングドレスに着替えて、ホール中央のグランドピアノの前に座る。楽譜が用意されていた。深呼吸し、指先を鍵盤に置くと、柔らかな音色が店内に広がる。

二階のVIPルームの窓際には、白いスーツを着た女性が座っていた。ピアノの音に気づき、ちらりと下を見下ろし、向かいにいる外国人男性に何か耳打ちする。

五分ほどで一曲が終わり、ウエイターが近づいてきた。

「徹、VIPルームのお客様から《エリーゼのために》をリクエストされています。」

二階の個室には、さらに高価なピアノが置かれている。普通はピアニストですら弾かせてもらえないが、咲は琴子を信頼していたので、リクエストに応じることにした。

ドレスの裾を持ち、階段を上がっていく。ウエイターがドアを開けると、琴子はゆっくりと中へ入った。

暖かな照明がロマンチックな雰囲気を演出している。ワインレッドのテーブルクロスに、グラスがきらめいていた。席に座っているのは時崎徹と、その隣には白鳥美々。

琴子は思わず立ち止まった。

徹は整った黒のスーツに身を包み、短く整えられた髪と高級な腕時計が目を引く。隣の白鳥美々は白いビジネススーツにウェーブのかかった長い髪。

自信はありそうだが、徹の隣ではどこか控えめな印象に見える。

向かいには外国人のマクダニエルが座っていた。

二人きりのデートではなく、ビジネスの商談中のようだったが、それでも琴子の胸は痛んだ。

琴子が彼らに目を向けると、徹もこちらを見た。半分閉じていた目が一瞬大きくなる。

ワインレッドのドレスに身を包んだ琴子は、長い髪が流れ、小さな顔立ちは清楚さと大人の色気を兼ね備えていた。

彼女が美しいことは知っていたが、ここまでとは思わなかった。

三年間、家の中でしか見たことがなかった琴子の、こんな姿に心を奪われる。

どうせ宮崎から自分の動きを聞き出して、わざと現れたんだろう。

徹は皮肉な笑みを浮かべた。女のこういう駆け引きなら、いくらでも見抜ける。

「徹、彼女とお知り合いですか？」

マクダニエルは徹が琴子をじっと見ているのに気づき、英語で尋ねた。