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第4話 屈辱


時崎徹は視線をそらし、冷たい声で言った。

「知らない人だ。」

彼女がわざわざ来たからといって、譲歩するつもりはない。


「知らない」というその一言が、琴子の心を粉々に打ち砕いた。

唇を噛み、必死に平静を保つ。ここまで来たからには、もう引き返せない。

騒ぎを起こしてレストランの評判を落とすわけにもいかない。

ドレスの裾を握る指に力が入り、白くなるほどだったが、深く息を吸い、ピアノの方へと歩き出した。


リクエストされたのは「エリーゼのために」。

愛を象徴する曲だ。楽譜をじっと見つめてから、ようやく指を鍵盤に置く。

誰がリクエストしたのかは分からない。


だが、マクダニエルがしきりにからかう。

「徹、白鳥さんのような素敵な女性がそばにいて、本当に幸運ですね!」


「確かに、彼女はとても優秀です。」時崎徹は微笑みながら、惜しみなく褒めた。


白鳥美々も気さくに応じる。

「入社したばかりの頃は全然でしたよ。徹に一から教えていただいたおかげです。」


曲の前奏が静かに流れるが、会話の声はそれをかき消す。時崎琴子は楽譜を覚えているので、つい食卓の方に視線が泳いでしまう。時崎徹は身体を白鳥美々に少し傾け、腕を椅子の背に回している。


白鳥美々は流暢な英語でビジネスの話をしたかと思えば、時おり時崎徹と小声で言葉を交わす。

琴子も英語は分かるが、専門用語まではついていけない。

二人は息がぴったりで、目配せだけで通じ合っている様子だ。

余裕のあるやりとりに、琴子はますます蚊帳の外だと感じる。


たった五分が、まるで永遠のように感じられた。曲が終わると、会話が鮮明に耳に入る。


「お二人は本当にお似合いですね!」マクダニエルは取引で得をしなかったものの、潔く負けを認めていた。


「お似合い」という言葉に、時崎徹はわずかに眉をひそめる。

しかし、相手は外国人なので、言葉の選び方について特に説明することもない。


白鳥美々はにっこり微笑んだ。「マクダニエルさん、褒めすぎですよ。」


時崎琴子は口元を引きつらせ、徹から視線を外した。

きっと彼は自分のことを恥ずかしいと思っているのだろう。

入ってきたときに一度見ただけで、その後は一切目を向けてくれなかった。

この高価なピアノも、彼らにとってはただの余興の道具。

演奏者もまた、ただのサービススタッフに過ぎないのだ。

もう帰ろう、そう思いながらも、タバコをふかす時崎徹を見ていると、なぜかその場を動けずにいた。


やがて白鳥美々が立ち上がり、財布を手に琴子の方へやって来る。


薄く重ねられた紙幣、ざっと一万円ほどを琴子の前に差し出した。

「素敵な演奏だったわ。私と彼からのチップよ。」白鳥美々は静かな声で言った。


彼?チップ?琴子の胸に鋭い痛みが走る。

白鳥美々を見ると、その穏やかな表情の奥に、明らかな得意げな色が隠れていた。

おそらく、白鳥美々は自分のことを知っている。

あの動画を送ってきた謎の番号も、彼女なのかもしれない。

時崎徹の冷たさには耐えられても、白鳥美々の皮肉には堪えきれなかった。

琴子が何か言いかけた、その時――


「まだ帰らないのか?」時崎徹の不機嫌な声が飛ぶ。冷たい視線が警告のように刺さる。空気を読めということだろう。


その目線に胸が締め付けられ、琴子は金を受け取り、静かにその場を立ち去った。

白鳥美々の自信は時崎徹が与えているもの。自分ではどうにもならない。無理に張り合えば、余計みじめになるだけ。

お金をもらえるだけ、まだいいと思うしかなかった。


ホールに戻り、十時まで演奏を続けた。

咲が車を出しに行き、琴子は着替えて入口で待つ。

初秋の夜は冷え込み、コートをきつく羽織る。時崎徹が背後からやって来て、彼女の隣でタバコに火をつけた。

横目で琴子を見て、「もう二度とこういう店には来るな。用があるなら家で話せ。」と告げる。


琴子は顔を向けた。彼はタバコを噛みしめ、顎は固く結ばれている。

馴染み深く、しかし圧迫感のあるその気配に、麻痺していた心がまた痛み出す。

冷静になればなるほど、傷は深まる。

自分が彼にとって取るに足らない存在だから、彼は琴子が自分のために来たと決めつけているのだろうか。


「誤解しないで。咲の手伝いをしていただけよ。」琴子は一歩身を引いた。


強情な女だ、と時崎徹は目を細め、煙を吐く。

「理由はどうあれ、二度と来るな。恥をかかせるな。」


「私たちは結婚を公表してないし、誰も私があなたの妻だとは知らない。そんなに気にするなら、明日にでも離婚届を出せばいい。」

琴子はその冷たい言葉に、胸がきしむ思いだった。寂しい夜、かつて最も親しかったはずの夫婦の間に、今や冷たい空気が流れている。


時崎徹は鼻で笑い、舌で頬を押し上げる。

「そんな手には乗らない。泣くのは君の方だ。」


琴子は顔を背け、彼に涙を見られないようにした。そのとき、マクダニエルが出てくる。


「徹、ご一緒できて光栄でした。」


時崎徹は皮肉をしまい、にこやかに応じる。

「こちらこそ。せっかくですから、日本にもう少し滞在して、白鳥に案内してもらってください。」


マクダニエルは大きく笑った。

「徹から白鳥さんを奪うなんて、恐れ多いですよ!」


白鳥美々が車で到着し、階段を上がって時崎徹の隣に立つ。

「マクダニエルさん、ホテルまでお送りします。」


マクダニエルは嬉しそうに言った。

「ありがとう、白鳥部長!」


時崎徹は白鳥美々に体を寄せ、腰に手を添えて「気を付けて」と声をかける。

白鳥美々はうなずいてマクダニエルを連れてその場を離れた。

琴子の方を振り返ることもなく、まるで最初から知らない人のように、あるいはわざと無視するかのようだった。

琴子はその背中を見つめ、唇を強く噛みしめた。



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