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第9話 結託


琴子は、母・早瀬清葉の非難に満ちた顔と、いつも変わらぬ責めるような視線をじっと見つめていた。


「もし今回のことが徹のせいだとしたら?」


そう問い返すと、清葉は立ち上がり、声を荒げた。


「何を言ってるの!男は外で働くのが大変なんだから、もっと気を遣って、我慢しなさいって何度言ったの?わがままばかり言ってないで!」


結婚して二年。

時崎徹の冷たい態度や無関心に、不満を漏らしたこともあったが、そのたびに返ってくるのは「良妻賢母でいなさい」という母の説教ばかりだった。


琴子が二年も耐えられたのは、徹に最初に惹かれた気持ちと、そこから生まれた愛情があったから。

もし徹の浮気を知らなければ、母の言葉に流されて、結局は清葉のように卑屈な女性になっていたのだろうか。


五十歳近い清葉は手入れも行き届き、周防先生囲からも羨ましがられる存在だ。

だが、それは表向きにすぎない。


琴子が見てきたのは、夫と息子の顔色ばかりうかがい、自分の意見はほとんど言わない母の姿だった。

そんな人生だけは絶対に嫌だった。


「家に帰って、徹にちゃんと謝りなさい。もう二度と彼の機嫌を損ねないように。」


清葉はまた座り直し、娘の眉間に浮かぶ憂いを見て、呆れと心配の入り混じった声で言った。


「女なんて、結局は男に頼って生きるものよ。あなたが何不自由なく暮らせているのも、全部徹のおかげじゃない……」


その言葉は鈍い刃のように琴子の心に突き刺さった。

思い出されるのは、徹の冷たい目と吐き捨てるような声。


「月に八百万も渡してるだろ?寝る相手にもなって――それでも不満か?」


その言葉を思い出すたび、胸が締めつけられる。


愛があれば、専業主婦でも構わない。

徹の上から目線も我慢できる。

でも、愛されてもいない、尊厳まで踏みにじられてまで、この結婚にしがみつくつもりはなかった。


琴子は唇を固く結び、服の裾を握りしめながらも、目は一層強い意志に満ちていた。


「お母さん、それじゃまるで女の人を見下してるみたいだよ」


二階から弟の早瀬聡が声をかけてきた。

袖をまくり、気だるそうに階段を降りてくる。


「今どき、男に頼るなんて時代遅れだよ。男女平等、知らないの?」


清葉は息子には甘い声で応じる。


「子供は口出ししないの!向こうで遊んでなさい」


聡は琴子より二つ年下で、家族の中でも特に可愛がられていた。


琴子は幼い頃から、女の子が生まれたことで家族が落胆し、母がすぐに弟を産んだことでやっと認められたと何度も聞かされてきた。

その度に胸が締めつけられたが、清葉の口ぶりには「家を継いでくれて良かった」という安堵しか見えなかった。


琴子と清葉は、どうしても考え方が合わない。

今ここで徹の浮気を打ち明けても、母が自分の味方になるとは思えなかった。


「お父さんが私を呼び戻したのって、結局なんの用?」


これ以上母と話していたら、「離婚したい」と叫んでしまいそうで、琴子はじっとしていられなかった。


「この前出張で買ってきたお土産があるの。今日、江藤家に行くんでしょ?ちょうど渡してきてって」


清葉は琴子が帰ろうとするのを止め、また話が長くなりそうだった。


「結婚して二年経つのに、まだ子どもができない。お父さんが病院でちゃんと検査を受けるようにって」


数日前、徹が白鳥美々の誕生日を祝ったニュースを見て、父・早瀬成伸は娘の立場が危ういと感じて焦っていたのだ。


子どもの話になると、琴子の心は切り裂かれるようだった。

徹は彼女に避妊薬を渡し、毎回きちんと飲むのを見届けていた。


「仕事が忙しいから、子どもは数年後にしよう」と言われていたが、今となっては、子どもがいないことでかえって離婚しやすくなったことを心のどこかで安堵していた。


「その話はまた今度」


琴子は立ち上がり、清葉にお土産を渡すよう促した。


「いい加減にしないとダメよ!徹みたいな素晴らしい人、他の女も狙ってるんだから。早く子どもを産んで、彼に自分の存在を示しなさい!」


琴子が何も言わないと、清葉はさらに言い張る。


「ちゃんと専門の先生に予約するから、絶対に行くのよ!」


「時間があるときにね」


琴子は渋々返事をした。


「ダメよ!約束しないと!」


清葉の強気な態度に、琴子は仕方なく答える。


「……わかった。予約が取れたら連絡して」


早くこの場を離れたい一心だった。


聡が上着をつかみ、琴子の後についてきた。


「姉さん、車は?」


聡は自分の黄色いスポーツカーの方へ歩く。


いつもなら琴子の車が隣にあるはずなのに、今日はどこにも見当たらない。


琴子は助手席に乗り込んだ。


「今日は運転してない。途中のバス停で降ろしてくれればいいから」


聡はエンジンをかけ、運転しながら姉を伺う。


「姉さん、何かあったの?」


「どうして?」


琴子は平静を装った。


「姉さん、普段なら母さんの愚痴には少しは反論するのに、今日はずっと避けてた。姉さんが逃げる時は、大抵問題がある時なんだよ」


聡の一言に、琴子は言葉を失った。


「一流のデザインスタジオに入った時は本当に嬉しかった。でも結婚して専業主婦になってから、目の輝きが消えてしまったんだよね。」


聡は照れくさそうに頭をかきながら続ける。


「うまく言えないけど、姉さんの人生は結婚だけじゃない。他にも追いかけたいことがあるはずだよ……」


その言葉で、琴子は弟が「徹だけに人生を捧げるな」と伝えたいのだと気づいた。


「聡、なんだか偉そうなこと言うじゃない」


琴子は冗談めかして話題を変えた。


「それで、聡は自分の進路、決めたの?」


「親父は俺に会社に入ってほしいらしいけど、絶対に嫌だ!今は仲間とゲーム開発をしてるんだ。バカにするなよ。今のゲーム業界は夢があるんだから。成功したら、姉さんの味方になってやる。徹さんの言いなりになる必要なんてないんだ。なんで姉さんが彼の一言で夢を諦めなきゃいけないんだよ……」


聡は熱心に語り、その目は昔、琴子が一流デザインスタジオに採用された時と同じ輝きを放っていた。


早瀬家は昔から男尊女卑だったが、琴子と聡は姉弟仲が良かった。


子どもの頃、父が聡にだけお菓子を買ってきたが、聡は成長するにつれ、姉が何を好きか聞いては一緒に買わせていた。

だから琴子は、聡には何でも話せた。自分の夢まで。


家の重苦しい空気も、弟の何気ない言葉で少し晴れていく。琴子の唇に、かすかな微笑みが浮かんだ。


高橋咲のマンションの近くで車を降り、聡のスポーツカーが去っていくのを見送った後、二つの手土産を持って咲の家に向かった。


マンションの入り口に差し掛かった時、バッグの中の携帯が激しく鳴った。

時崎家の本家からだった。


「奥様!大変です!本家が火事で……おばあさまが……!」


慌てた執事の声に、琴子は手土産を握る手に力が入る。


「どういうこと?おばあさまは山で静養中だったはずじゃ……」


「詳細は後にしてください!早く……徹様に連絡を!」


執事が言う「おばあさま」は、徹が最も敬愛する祖母、時崎家の大おばだった。


琴子は電話を切ると、すぐにタクシーを止め、走りながら徹の携帯に電話をかけた。



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