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第8話 彼の機嫌を損ねるな


琴子は、テーブルの上の書類を手に取り、それを白鳥の腕に押し込み、すぐさまスマートフォンを取り出して書類と白鳥を撮った。


「これ、渡したから。後で何かあっても、私は関係ないからね。」


声には疲れきった様子が滲み、争う気力も余裕もなかった。

可愛がられる者は何をしても許される——自分は、徹の目には取るに足らない存在なのだ。社内の温度は快適なはずなのに、琴子の体に冷気が背筋を這い上がり、手先や足先までじわじわと広がっていった。


エレベーターに乗って下まで降り、堂々たる時崎グループの本部の玄関を出た。日差しが降り注いでも、心の底の冷たさは消えない。

車の流れが絶えない大通りの片隅で、琴子は苦笑いを浮かべた。


ホテルでの逢瀬はただの気晴らしで、社内の休憩室で抱き合うのが二人の日常だった。

徹と白鳥が関係を持っていることは知っていたのに、こうして明白な「証拠」を突きつけられると、心がまた引き裂かれるように痛むのはなぜだろう。

突然、携帯電話の着信音が現実に引き戻した。


「もしもし。」


「琴子、今すぐ家に戻りなさい。」父・早瀬成伸の声は命令口調だった。


午後にレストランでピアノを弾く予定があるだけで、今日は土曜日、面接もない。

このまま落ち込んでいるよりは、家に戻る方がましだ。


「分かった。」



一方、徹は会議を延期するどころか、逆に前倒しにした。

琴子を待たせることで、彼女に反省させようと思っていた。

本来なら四十分で終わるはずの会議を、わざと一時間半も引き延ばした。

終わった頃には、もう昼近く。

徹は金縁の眼鏡を外して眉間を揉み、ゆっくりとオフィスへ戻る。


「時崎様、この書類にご署名を!」

財務担当役員が書類を持って追いかけてきた。

宮崎高英が止めようとする。


「時崎様はまだ……」


「渡して。」

徹は珍しく立ち止まり、穏やかに書類を受け取って署名し、相手に返してから再びオフィスへ向かう。

頭の中では、今頃琴子がどんな顔をしているか想像していた。泣かなければいいが、女の涙は面倒だ。

「許す」かどうかの基準は彼が決めること。

余裕の笑みを浮かべ、重厚なドアを押し開けた。


だが、ソファにも、窓際にも誰もいない。

広いオフィスに隠れる場所などない。琴子の姿はどこにもなかった。休憩室から微かな物音がして、徹の表情が一変する。


琴子は何を考えているんだ。

勝手に自分の休憩室に入るとは。ここ数日、仕事のストレスと琴子のことで眠れぬ夜が続き、休憩室で酒をあおっていた。

もし、彼女に空き瓶を見られ、また勝手な思い込みをされでもしたら……


「徹。」休憩室のドアが開き、白鳥美々が現れる。

徹の険しい視線を受けて、驚いた表情を見せた。


「どうしたの?」


ドアノブに伸ばした徹の手が、ちょうど白鳥の胸元に触れそうになり、慌てて手を引っ込めて平静を装う。


「いや、何でもない。なぜここにいる?」


白鳥はにっこりと微笑む。

「あなたのイメージのためよ。午後は大事な記者会見があるでしょ?替えのスーツをクリーニングに出して、ついでに休憩室も片付けたの。どれだけ忙しくても、体調には気をつけて。会社も私も、あなたに頼ってるんだから。」


「オフィスに誰かいた?」

徹はデスクに座り、端に置かれた一枚の書類を見つめる。表情が一瞬で冷たくなった。


「誰もいなかったわ。さっき宮崎さんのアシスタントが書類を届けに来たって言ってたけど。記者会見用の資料よね?奥様が家の使用人に持たせたんじゃないかしら。全く、ちゃんと手渡ししないなんて、不注意よね。もし何かあったらどうするの?」


つまり、琴子はただ書類を届けに来ただけ?

せっかく用意した「譲歩」を、彼女は受け取ろうともしなかったのか。

徹の胸に、怒りがこみ上げてくる。


会議を引き延ばし、あれこれ思い描いていた「主導権を握る」シナリオが、今や滑稽に思えた。

顎を固く結び、冷え切った声で言う。「本当に、最近は礼儀がなっていない。」


徹が琴子を選んだのは、従順さを求めたからだ。あの夜以来、彼女は何度も彼の限界を試そうとする。


今は妻としての自覚すら忘れてしまったのか。


「午後の記者会見、一緒に行くわ。厄介な質問は私に振ってね。」

白鳥は書類を開封して徹の前に置き、柔らかい声に変わる。

「夜は……食事でもどう?」


琴子のせいで溜まった苛立ちを無理に抑え、徹は白鳥の顔をしばし見つめてから、落ち着いた声で返す。


「いいよ。店は任せる。」


今回の誤解はすぐに解け、琴子がいずれ自分の元へ戻ってくることに、徹は一片の疑いもなかった。

だが、時間をかけて、琴子に「後悔」というものを思い知らせてやるつもりだった。


白鳥は満面の笑みで宮崎高英のところへ向かった。

「宮崎さん、前に徹がマクダニエルさんを招待したレストラン、今夜の予約をお願い。」


宮崎はすぐにスマホで手配に取りかかる。

「ありがとう。ここ数日みんな頑張ってくれたから、今日は早めに帰っていいわ。食事は私と徹だけで行くから。」


「え?」宮崎が顔を上げる。

「それは……徹様のご指示ですか?」


白鳥は首を振る。

「違うわ。私の提案。徹は仕事熱心だから、下手するとまた戻ってきてあなたを残業させるかも。でも今日は安心して帰って。何かあったら私が責任を持つから。」


連日の激務で宮崎は疲労、睡眠不足も限界だった。すぐに笑顔で答える。

「ありがとうございます、白鳥部長。」


直属の上司は徹だが、徹と白鳥の関係は誰の目にも明らか。

白鳥が責任を持つと言うなら、素直にその好意に甘えるしかない。


早瀬家は昔、港区の豪邸に住んでいたが、今は都心ののメゾネットに引っ越していた。

世間体は保っているものの、かつての栄華はない。


琴子は家に戻っても心ここにあらず、何度もぼんやりしていた。


「琴子。」

母・早瀬清葉が長々と小言を続けていたが、娘が反応しないのに苛立ち、声を荒げる。

「徹とケンカしたの?」


琴子はなんとか我に返る。

「してないよ。」


清葉はじっと琴子を見つめる。

「でも何かあるんでしょ。」


「お母さんには分からないよ。もう聞かないで。」

琴子はスマホを手に取り、話を避けようとした。


「聞かなくてもいいけど。」

清葉は琴子のスマホを奪い取り、投げ捨てる。

「でも、いつもそんな顔してちゃダメ!徹様は外で頑張ってるんだから、家に帰ってきてまでそんな暗い顔を見せたら、気分が悪くなるでしょ。特に、彼の機嫌を損ねるなんて、絶対にダメよ。分かった?」



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