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第7話 彼のベッドにある下着


雲を突き抜けるようにそびえ立つビルが、空へまっすぐ伸びている。

琴子は首が痛くなるほど見上げた。


彼女はこれまで一度も時崎徹の会社に足を踏み入れたことがなかった。

早瀬家が時崎家に及ばないことは知っていたが、この富と権力の象徴のようなビルを目の当たりにし、おしゃれなスーツを着こなすエリートたちが行き交う様子を見て、初めてその差は「及ばない」のではなく、「雲泥の差」だと実感した。


今の早瀬家はもちろん、最盛期でさえ時崎家の前では塵のよう。

会社には女性社員が多く、受付の女性ですら完璧なメイクにきちんとしたスーツ姿だ。

こんな環境では、時崎徹が自分を「ただの主婦」と見下すのも無理はない。

たとえ——自分が彼のためにデザイナーの夢を諦めたとしても。


琴子は蒼白い唇をきゅっと結び、言葉にできない劣等感に息が詰まりそうになる。

人気のない隅に身を寄せ、宮崎高英に電話をかけた。


「奥様」

「宮崎さん、今ビルの下にいますので、ちょっと——」


琴子は宮崎高英に書類を取りに来てほしかった。中に入りたくなかったのだ。だが、言い終わらないうちに宮崎高英が慌てて遮った。


「申し訳ありません、奥様!ただいま緊急の会議中です!すぐに人を迎えに行かせます!」


「いえ、私は……」琴子が言いかけると、電話は既に切れていた。

二分もたたないうちに、宮崎高英のアシスタントが小走りで現れ、丁寧に案内する。


「これを徹に渡してください。」琴子は書類とスープを手渡す。

「申し訳ありませんが、社長宛のものは本人に直接お渡し頂く決まりです。どうぞご自身でお持ちください。」

アシスタントは恐縮した様子で、琴子を半ば強引にビルの中へと導いた。

琴子はため息をつきながら、従うしかなかった。



社長室。長い会議を終えたばかりの時崎徹は、疲れた表情でネクタイを緩めていた。


「徹、奥様がいらっしゃいました。」

宮崎高英が入室し、デスクに書類を置く。

時崎徹の動きが一瞬止まり、わずかに険しかった眉がふっと緩む。

——やはり、琴子はこういう時に戻ってくるのだ、と心のどこかで予感していた。


「この後のプロジェクト会議、延期しますか?」宮崎高英が確認する。

時崎徹は少し考え、「三十分遅らせて」と指示した。

琴子が自分から「歩み寄ろう」としている今、簡単には許すつもりはない。

もっとじらして、彼女にしっかり覚えさせなければ。


「かしこまりました。」宮崎高英はすぐに各部署へ連絡を入れる。

琴子はアシスタントに案内され、一般社員用のエレベーターでゆっくりと最上階を目指した。


「徹は今、社長室にいるのでしょうか?」

「この頃、もう本当に息つく暇もないんです。連日の会議続きで、宮崎秘書の話だと、ここ数日は会社で寝泊まりして、夜は国際会議まで……体もたないですよね。」

アシスタントはやや話が逸れたが、琴子の思考も乱されていく。

徹の胃の不調は、若い頃からの無理な働き方と不規則な食生活が原因だった——


「着きました!」アシスタントが立ち止まり、「あとはご自身でお願いします、急ぎの用事があるので」と言い残し去っていった。琴子が我に返ると、目の前には黒い木の扉が二枚。


このドアを徹が行き来する姿を思い浮かべる。

物を置いたらすぐに帰ろう。何を言われても、聞こえなかったふりをすればいい。

深呼吸して、ドアを押し開けた。



室内はシックなグレーを基調とし、どこか徹らしい、控えめでありながらもセンスのある空間。

大きな窓から朝の光が差し込む。空気には徹特有のすっきりとしたシダーの香りが漂い、不意に琴子の中にある記憶が呼び起こされる。


親密な時、彼の温かい手が自分の腰をしっかりと抱き寄せ、ぼんやりとした視界の中に広がるのは彼の逞しい胸板だけ——あの瞬間だけは、彼の存在を確かに感じ、彼のぬくもりにすがることができた。


社長室には誰もいない。

期待が裏切られ、琴子の胸にぽっかりと穴が開いたような虚しさが広がる。

彼は本当に忙しいのか?それとも——自分が来ると知って、わざと席を外しているのか?もともと会うつもりはなかったはずなのに、顔を見られないとなると、その喪失感が心を押しつぶす。


しばらく立ち尽くした後、気持ちを抑えてデスクへ向かう。


保温ポットと書類を置こうとしたその時、デスクの端にかけてあるジャケットが目に留まった。

少ししわのあるジャケットには、ほのかにタバコの匂いが残っている。

徹は潔癖なところがあり、どんなに忙しくても宮崎高英に着替えを家から持って来させていた。

そして、自分がその服を丁寧にアイロンがけしていたことを思い出す。

持ち帰って洗うべきか迷いながらも、気づけばジャケットを腕にかけていた。

何度も繰り返した動作が、無意識に体に染みついている。


我に返り、慌ててジャケットを戻そうとした、その時——



突然、ドアが開く音がした。


琴子が振り向くと、白鳥美々が入ってきた。

黒いサテンのシャツのボタンを二つ外し、白い肌としなやかな曲線を惜しげもなく見せている。膝上丈のタイトスカートに、透け感のある黒いストッキング。セクシーでありながら、バリバリのキャリアウーマンの雰囲気を漂わせている。


「勝手に入っていいと思ってるの?」


白鳥美々は琴子にまっすぐ近づき、全く知らない顔で琴子の腕からジャケットを奪い取った。デスクの上にある保温ポットと書類を見て、眉をひそめる。

「時崎家のお手伝いさん?」


琴子は背が高いが、白鳥美々は10センチはあるヒールを履いて、やっと目線が同じくらいになる。突然ジャケットを奪われ、琴子の表情が険しくなる。


「違います。」


白鳥美々は興味なさそうに、「誰であろうと、これからは勝手に社長室に入らないで。ましてや、彼の私物に触れるなんて絶対ダメよ。」と、命令口調で言い放つ。


そう言って、隣の休憩室のドアを開けて中に入っていく。ドアは開いたままで、ベッドの上は乱雑そのもの——男物の白シャツ、黒いスラックス、そしてベッドの端にはグレーのパンツが転がっている。


白鳥美々は何気なくそれらの服を拾い上げ、バスルームへと運ぶ。続いて、乱れたシーツを直し始める。その瞬間——シーツの下から丸まった黒のレースのストッキングと、ひときわ目立つレオパード柄のレース下着が現れた。

琴子の目に飛び込み、息が止まる。顔から血の気が引いていく。


徹の「忙しい」というのは、つまり、白鳥美々と休憩室で逢瀬を重ねていた、ということ——!


「まだいたの?」

白鳥美々はレースのストッキングと下着をまとめてバスルームに放り込み、琴子を睨む。琴子は込み上げる動揺を必死で押し殺し、書類を指し示す。

「この書類は、徹本人に渡さないといけません。」


「私が預かるわ。」白鳥美々が手を伸ばし、琴子を見る目には明らかな敵意が宿っている。


ここは徹のプライベートな空間なのに、白鳥美々がまるで主人のように振る舞っている。時崎徹の妻である自分が、これほどまでに惨めな気持ちになるとは——琴子は何も言わず、無言で歩み寄った。



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