時崎家本邸は郊外の山手にあり、蛇行する山道にネオンが灯る。
琴子がタクシーで到着した時、屋敷はライトで明るく照らされ、彼女の想像したような大火事ではなかった。緊張が少しほぐれる。
しかし、車を降りると焦げ臭いにおいが強く、琴子は心臓が高鳴るのを感じながら急いで玄関に駆け込んだ。
靴も脱がず、まっすぐリビングへ。
ソファには、白髪の老夫人が背筋を伸ばして座り、元気そうに老眼鏡をかけて歌舞伎番組を見ながら、楽しそうにお菓子を食べている。
「琴子!帰ってきたのね!」
老夫人はすぐにお菓子を置き、にこやかに琴子を手招きした。
「さあ、こっちに来ておばあちゃんに顔を見せて!」
息を切らし汗を額ににじませながら琴子が駆け寄ると、急いで尋ねた。
「おばあちゃん、火事じゃなかったの?」
「火事は火事よ。」
老夫人は気にも留めず、庭の方を顎で示した。
「ほら、裏庭で枯れ枝や落ち葉を燃やしただけ。もうとっくに消えちゃったわ。」
琴子はしばし唖然とする。
執事の電話の言い回しを思い返すと、確かに“老夫人がけがをした”とは言っていなかった。
ただ、あの焦った声と、途中で言葉を濁す感じは、まるでおばあちゃんに危険が及んだかのようだった。
「一人で来たの?」
老夫人は琴子の後ろを覗き込む。
「私の可愛い孫は?」
琴子は唇を引き結び、落ち着いた声で答える。
「彼は仕事で忙しいみたい。電話もつながらなかったから……」
老夫人は鋭い目でじっと琴子を見つめる。
「電話に出なかったからって、徹に怒ってるの?」
「そんなことないよ。」
琴子はすぐに否定した。
電話を切られた時、怒りよりも心配の方が強かった。
本当に本邸で何かあった時に、徹がいなかったら……そう思って、すぐに宮崎に連絡し、徹にも伝えてもらった。
今思えば、徹はわざと電話に出なかったのだと分かる。
胸の奥に冷たい失望がじわじわと広がり、苦しくて息が詰まりそうだった。
そんな琴子の顔色を見て、老夫人は彼女が徹に怒っていると思い込み、胸を叩いて約束する。
「大丈夫、おばあちゃんが今日こそあの子を連れ戻してあげるから!」
琴子は心の中がぐちゃぐちゃになった。
おばあちゃんの言葉はまるで、自分の味方をしてくれているようだ。
まさかこの“火事騒ぎ”が、二人を仲直りさせるための仕掛けだったのか……。
疑念に包まれたその時、鋭い視線を感じて思わず振り返る。
そこには、徹が足早に玄関に現れ、まだ消えぬ緊張を瞳に宿したまま、真っ直ぐ琴子を見つめていた。
「ああ、もう……」
祖母は額を押さえながら肘掛け椅子に身を預け、声を大げさに震わせた。
「危うく命を落とすところだったわ!ぼんやりしていたら、おじいさんが私を手招きしているのが見えたのよ!」
琴子はソファの端に座り、指先でベルベットのクッションを無意識にいじっていた。
居心地の悪さに背もたれに沈み込みたくなる。
徹の鋭い視線が一瞬彼女に向けられ、それから祖母に移った。
琴子は唇をきゅっと結び、黙って祖母の芝居を見た。
「おばあちゃん。」
背後から徹の低く落ち着いた声が響く。ダークスーツに身を包んだ彼が逆光の中を歩いてきて、琴子の頭上に影を作った。
祖母は指の隙間から徹を覗き見る。
「おじいさんが手招きした時、何て言ってくれたと思う?」
祖母は目の前の二人を見てますます満足げだ。
徹は品格と冷静さを漂わせ、琴子は穏やかで静か。二人並ぶ姿はとてもお似合いで、つい将来の子どもの顔を想像してしまう。
徹の視線が琴子をかすめ、彼女の長い髪や、少し緩んだ襟元から覗くなめらかな肌に一瞬喉を詰まらせる。
「おばあちゃんが、曾孫に会うまではあの世に行かないでって。」
「ほら、聞いた? そうよ、まさにそれ! いつになったら私に可愛い曾孫の顔を見せてくれるの?」
祖母の催促は琴子にとって聞き飽きたものだが、今日ばかりは特に気まずい。
耳まで赤くなり、席を立ちたくなる。
これまでは祖母の矛先は琴子に向かいがちだったが、徹が「考える」と言ってはぐらかしてきた。今回は琴子がすかさず声を上げた。
「おばあちゃん、それは……彼が決めることです。」
その瞬間、徹の視線が鋭くなった。
「薄情な子だね!」
祖母は徹のそばに寄る。
「私があの世でおじいさんに顔向けできなくてもいいの?」
徹は袖口を整えながら淡々と言う。
「曾孫があなたの寿命を縮める原因なら、生まなくていいと思うよ。少しでも長生きしてほしいから。」
祖母は呆れて目をむき、言葉も出ない。ちょうど使用人が食事の準備を知らせに来て、祖母はそのまま食卓へ向かった。
離婚を決めてからというもの、琴子は徹と同じ空間にいるだけで気が休まらない。
前回の食事の気まずさも思い出したくない。
だが、祖母のおしゃべりのおかげで、気まずさが和らいだ。
食後、祖母が琴子を呼び止める。
「二人の部屋はもう準備できてるよ。今夜はご両親も戻らないし、私のそばにいておくれ。」
「えっ……」琴子は胸が高鳴り、徹の方を見た。
泊まるということは、同じ部屋で過ごすということ。
水曜の離婚まであとわずか、気まずさが極まる。
「何を見てるの?」祖母がぴしゃり。「この家では私の言うことは絶対よ。」
結局、二人は逆らえずに残されることになった。
二階に上がると、徹はそのまま書斎へ。琴子は扉が閉まるのを見届け、少し安心して自分の部屋に戻った。
温かいシャワーでようやく心身の緊張がほぐれる。
十分ほどして、バスタオルを巻き、濡れた髪が頬や首筋に張り付いたまま浴室を出る。
ところが、部屋の中央に立つ徹の姿を目にして、琴子はその場で固まった。
彼は寝間着のズボンだけを身につけ、引き締まった上半身を惜しげもなくさらしていた。強い男の気配が部屋に満ちる。
琴子は息を呑み、彼と目が合う。徹の目には、何かを見定めるような光と、抑えきれない熱が潜んでいた。
問いかける間もなく、徹は獣のような素早さで彼女を抱き寄せた。バスタオル越しに熱い胸板が触れ合い、空気が一気に変わる。
「徹、何をするの?」琴子は恐るように声を抑え、彼の胸を押し返しながらタオルを必死に握った。
徹は琴子の濡れた鎖骨に目を落とし、低く笑う。
「どう思う?」
その腕が彼女の腰をさらに引き寄せる。
徹の体が変化しているのを感じ、琴子の目が冷たく光る。
昨夜、白鳥美々がベッドを片付けていた光景、徹のシャツに残ったかもしれない女性の香り――屈辱と嫌悪が一気にこみあげる。
「徹さん、忘れたの?私たち、もうすぐ水曜日に離婚するって決めたでしょう!」
徹は鼻で笑い、琴子の顎をつかんで顔を上げさせる。
「この瞬間のために、わざわざここまで呼び寄せて、火事まで仕組んだんだろう?今さらいい子ぶるなよ。」
「私だっておばあちゃんに騙されて連れ戻されたの!」
徹の表情はますます冷ややかになり、手は彼女の腰からさらに下へ滑る。
「もういい加減にしたら?」
本当なら、こんな茶番には付き合う気もなかった。
確かに、数日彼女に触れていなかったが、今は欲望が限界に達している。もし琴子が応じるなら、それで全て水に流すつもりだった。
琴子が拒もうとしたその時、徹の唇が激しく奪う。
強引で貪欲なキスに、琴子は必死に抵抗するが、それがかえって徹の征服欲を煽る。
バスタオルが床に落ち、濡れた髪がむき出しの肩や胸に絡みつく。
荒い息遣いの中、琴子の強い拒絶が徹の欲望をかきたて、苛立ちを募らせる。
「なあ……本当は欲しいんだろ? 素直になれよ、もっと気持ちよくしてやるから。」
徹の囁きに、琴子の張り詰めていた意思が揺らぎ、体が自然と緩んでしまう。
その変化を見逃さず、徹は彼女を壁に押しつけ、さらに深くキスをしながら、手を伸ばして――
――
「んっ!」
痛みに琴子の意識がはっきり戻る。昨夜の白鳥美々の姿や、徹のシャツに残る他の女の香り――
琴子の瞳が鋭く光り、勢いよく徹の舌を噛んだ。
「……っ!」
徹は顔を上げ、欲望が怒りに変わった目で琴子を見据える。
「琴子、いい加減にしろ。これが最後のチャンスだ、本当にこのままでいいのか?」