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第11話 施しなんて欲しがるものか

時崎家本邸は郊外の山手にあり、蛇行する山道にネオンが灯る。

琴子がタクシーで到着した時、屋敷はライトで明るく照らされ、彼女の想像したような大火事ではなかった。緊張が少しほぐれる。

しかし、車を降りると焦げ臭いにおいが強く、琴子は心臓が高鳴るのを感じながら急いで玄関に駆け込んだ。

靴も脱がず、まっすぐリビングへ。


ソファには、白髪の老夫人が背筋を伸ばして座り、元気そうに老眼鏡をかけて歌舞伎番組を見ながら、楽しそうにお菓子を食べている。


「琴子!帰ってきたのね!」

老夫人はすぐにお菓子を置き、にこやかに琴子を手招きした。

「さあ、こっちに来ておばあちゃんに顔を見せて!」


息を切らし汗を額ににじませながら琴子が駆け寄ると、急いで尋ねた。

「おばあちゃん、火事じゃなかったの?」


「火事は火事よ。」

老夫人は気にも留めず、庭の方を顎で示した。

「ほら、裏庭で枯れ枝や落ち葉を燃やしただけ。もうとっくに消えちゃったわ。」


琴子はしばし唖然とする。

執事の電話の言い回しを思い返すと、確かに“老夫人がけがをした”とは言っていなかった。

ただ、あの焦った声と、途中で言葉を濁す感じは、まるでおばあちゃんに危険が及んだかのようだった。


「一人で来たの?」

老夫人は琴子の後ろを覗き込む。

「私の可愛い孫は?」


琴子は唇を引き結び、落ち着いた声で答える。

「彼は仕事で忙しいみたい。電話もつながらなかったから……」


老夫人は鋭い目でじっと琴子を見つめる。

「電話に出なかったからって、徹に怒ってるの?」


「そんなことないよ。」

琴子はすぐに否定した。

電話を切られた時、怒りよりも心配の方が強かった。

本当に本邸で何かあった時に、徹がいなかったら……そう思って、すぐに宮崎に連絡し、徹にも伝えてもらった。

今思えば、徹はわざと電話に出なかったのだと分かる。


胸の奥に冷たい失望がじわじわと広がり、苦しくて息が詰まりそうだった。

そんな琴子の顔色を見て、老夫人は彼女が徹に怒っていると思い込み、胸を叩いて約束する。


「大丈夫、おばあちゃんが今日こそあの子を連れ戻してあげるから!」


琴子は心の中がぐちゃぐちゃになった。

おばあちゃんの言葉はまるで、自分の味方をしてくれているようだ。

まさかこの“火事騒ぎ”が、二人を仲直りさせるための仕掛けだったのか……。

疑念に包まれたその時、鋭い視線を感じて思わず振り返る。


そこには、徹が足早に玄関に現れ、まだ消えぬ緊張を瞳に宿したまま、真っ直ぐ琴子を見つめていた。


「ああ、もう……」

祖母は額を押さえながら肘掛け椅子に身を預け、声を大げさに震わせた。

「危うく命を落とすところだったわ!ぼんやりしていたら、おじいさんが私を手招きしているのが見えたのよ!」


琴子はソファの端に座り、指先でベルベットのクッションを無意識にいじっていた。

居心地の悪さに背もたれに沈み込みたくなる。

徹の鋭い視線が一瞬彼女に向けられ、それから祖母に移った。

琴子は唇をきゅっと結び、黙って祖母の芝居を見た。


「おばあちゃん。」


背後から徹の低く落ち着いた声が響く。ダークスーツに身を包んだ彼が逆光の中を歩いてきて、琴子の頭上に影を作った。


祖母は指の隙間から徹を覗き見る。

「おじいさんが手招きした時、何て言ってくれたと思う?」 


祖母は目の前の二人を見てますます満足げだ。

徹は品格と冷静さを漂わせ、琴子は穏やかで静か。二人並ぶ姿はとてもお似合いで、つい将来の子どもの顔を想像してしまう。


徹の視線が琴子をかすめ、彼女の長い髪や、少し緩んだ襟元から覗くなめらかな肌に一瞬喉を詰まらせる。


「おばあちゃんが、曾孫に会うまではあの世に行かないでって。」


「ほら、聞いた? そうよ、まさにそれ! いつになったら私に可愛い曾孫の顔を見せてくれるの?」


祖母の催促は琴子にとって聞き飽きたものだが、今日ばかりは特に気まずい。

耳まで赤くなり、席を立ちたくなる。

これまでは祖母の矛先は琴子に向かいがちだったが、徹が「考える」と言ってはぐらかしてきた。今回は琴子がすかさず声を上げた。


「おばあちゃん、それは……彼が決めることです。」


その瞬間、徹の視線が鋭くなった。


「薄情な子だね!」

祖母は徹のそばに寄る。

「私があの世でおじいさんに顔向けできなくてもいいの?」


徹は袖口を整えながら淡々と言う。

「曾孫があなたの寿命を縮める原因なら、生まなくていいと思うよ。少しでも長生きしてほしいから。」


祖母は呆れて目をむき、言葉も出ない。ちょうど使用人が食事の準備を知らせに来て、祖母はそのまま食卓へ向かった。


離婚を決めてからというもの、琴子は徹と同じ空間にいるだけで気が休まらない。

前回の食事の気まずさも思い出したくない。

だが、祖母のおしゃべりのおかげで、気まずさが和らいだ。


食後、祖母が琴子を呼び止める。

「二人の部屋はもう準備できてるよ。今夜はご両親も戻らないし、私のそばにいておくれ。」


「えっ……」琴子は胸が高鳴り、徹の方を見た。


泊まるということは、同じ部屋で過ごすということ。

水曜の離婚まであとわずか、気まずさが極まる。


「何を見てるの?」祖母がぴしゃり。「この家では私の言うことは絶対よ。」


結局、二人は逆らえずに残されることになった。

二階に上がると、徹はそのまま書斎へ。琴子は扉が閉まるのを見届け、少し安心して自分の部屋に戻った。


温かいシャワーでようやく心身の緊張がほぐれる。

十分ほどして、バスタオルを巻き、濡れた髪が頬や首筋に張り付いたまま浴室を出る。


ところが、部屋の中央に立つ徹の姿を目にして、琴子はその場で固まった。

彼は寝間着のズボンだけを身につけ、引き締まった上半身を惜しげもなくさらしていた。強い男の気配が部屋に満ちる。


琴子は息を呑み、彼と目が合う。徹の目には、何かを見定めるような光と、抑えきれない熱が潜んでいた。


問いかける間もなく、徹は獣のような素早さで彼女を抱き寄せた。バスタオル越しに熱い胸板が触れ合い、空気が一気に変わる。


「徹、何をするの?」琴子は恐るように声を抑え、彼の胸を押し返しながらタオルを必死に握った。


徹は琴子の濡れた鎖骨に目を落とし、低く笑う。

「どう思う?」


その腕が彼女の腰をさらに引き寄せる。


徹の体が変化しているのを感じ、琴子の目が冷たく光る。

昨夜、白鳥美々がベッドを片付けていた光景、徹のシャツに残ったかもしれない女性の香り――屈辱と嫌悪が一気にこみあげる。


「徹さん、忘れたの?私たち、もうすぐ水曜日に離婚するって決めたでしょう!」


徹は鼻で笑い、琴子の顎をつかんで顔を上げさせる。

「この瞬間のために、わざわざここまで呼び寄せて、火事まで仕組んだんだろう?今さらいい子ぶるなよ。」


「私だっておばあちゃんに騙されて連れ戻されたの!」


徹の表情はますます冷ややかになり、手は彼女の腰からさらに下へ滑る。

「もういい加減にしたら?」


本当なら、こんな茶番には付き合う気もなかった。

確かに、数日彼女に触れていなかったが、今は欲望が限界に達している。もし琴子が応じるなら、それで全て水に流すつもりだった。


琴子が拒もうとしたその時、徹の唇が激しく奪う。

強引で貪欲なキスに、琴子は必死に抵抗するが、それがかえって徹の征服欲を煽る。

バスタオルが床に落ち、濡れた髪がむき出しの肩や胸に絡みつく。


荒い息遣いの中、琴子の強い拒絶が徹の欲望をかきたて、苛立ちを募らせる。


「なあ……本当は欲しいんだろ? 素直になれよ、もっと気持ちよくしてやるから。」


徹の囁きに、琴子の張り詰めていた意思が揺らぎ、体が自然と緩んでしまう。

その変化を見逃さず、徹は彼女を壁に押しつけ、さらに深くキスをしながら、手を伸ばして――


――


「んっ!」


痛みに琴子の意識がはっきり戻る。昨夜の白鳥美々の姿や、徹のシャツに残る他の女の香り――


琴子の瞳が鋭く光り、勢いよく徹の舌を噛んだ。


「……っ!」


徹は顔を上げ、欲望が怒りに変わった目で琴子を見据える。


「琴子、いい加減にしろ。これが最後のチャンスだ、本当にこのままでいいのか?」



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