高橋枫真は琴子の隣に立ち、彼女がしっかりと座るのを見届けてから手を離した。
「何かあったのか?」
琴子は髪を整え、なんとか笑顔を作って首を振った。
「大丈夫。」
そのとき、彼女が手を上げた動きでシャツの襟元が少し開き、白い首筋にうっすらと残るキスマークが枫真的な目に入った。彼の表情が一瞬、暗くなる。
「仕事にはもう慣れたか?」
入社初日に声をかけなかったのは、自分が裏で手を回していたことを悟られたくなかったからだ。
「まあ、なんとか。」
琴子も上田麻衣に疎外されていることは口にしなかった。白鳥美々の性格を思えば、この先うまくやっていくのは簡単ではないだろう。心の準備をしておかないと、この仕事も続けられなくなる。
白鳥美々がわざわざ自分に目をつけた理由を深く考える余裕はなかった。ただ、彼女に揚げ足を取られないようにしなければならない――もう他に道はないのだ。
身なりを整え、琴子は立ち上がって枫真に軽く会釈した。
「枫真……じゃなかった、高橋社長、仕事に戻ります。」
枫真は手を軽く握りしめ、琴子が自分の返事も待たずにすれ違っていくのを見送った。彼の眉は寄ったりほどけたりしたが、しばらくして小さくため息をつき、その場を後にした。
琴子がデスクに戻ると、すぐに上田麻衣がやって来た。
「これ、美々さんの名刺。連絡して、家に採寸しに行く日を決めて。」
名刺はしっかりとした作りで、縁には金色の模様が浮き彫りになっている。そのデザインは、時崎徹の名刺によく似ていた。琴子は初めて徹の名刺を見たとき、こっそり一枚しまい込んだことを思い出す。名刺を受け取りながら返事をした。
「分かりました。」
「本当に白鳥美々と面識ないの?前になんかあったんじゃない?」
麻衣はどうにも腑に落ちない様子だった。
彼女は以前、美々に琴子や竹内里美がサボっている写真を送ったが、その時は美々から特に何も言われなかった。しかし今日の空気は明らかに違う――まさか自分が利用されたのでは?
琴子は深呼吸して顔を上げた。
「もしかしたら、どこかで会ったことがあるかも。でも、あまり覚えていません。」
「まあいいわ。あとは自分でなんとかして。」
ここまで来てしまえば、もうどうでもいい。もともとコネ入社のアシスタントなんて欲しくなかったのだ。
琴子は美々に電話をかけるのが気が進まず、代わりにメッセージアプリで連絡した。美々はすぐに承認した。
「美々さん、時崎琴子です。ご都合のいい時にご自宅で採寸させていただけますか?」
メッセージを送りながら、琴子は美々のプロフィール写真に目を留める。それは十八、九歳くらいの若い頃の写真で、どこかあどけなさが残る顔立ち――だが、よく見るとその瞳には、撮影者の姿が映り込んでいる。
琴子は画像を拡大し、広がる空と壮大な海岸を背景にしたその写真の中に、時崎徹の後ろ姿を見つける。二年間愛してきたからこそ、すぐに分かった。
美々からすぐに返信が届いた。
「金曜日の午後五時に。時間になったら住所を送るわ。」
琴子はそっと画面を閉じ、余計なことを考えないようにした。今日は火曜日。採寸まで特に予定もないので、上田麻衣から任された資料整理に集中することにした。
夜、定時で退社すると、車がメゾネット・アーツのマンション前に到着した。そのとき、不意に人影が飛び出してきた。
前回の事故の後遺症が残っていて、琴子はとっさにブレーキを踏み込む。幻覚ではない、本当に誰かが車の前に立っていた。
「バン!」
早瀬成伸がボンネットを力強く叩き、鬼のような形相で睨みつけてきた。
「時崎琴子、降りてこい!」
琴子が乗っていたのは早瀬家の予備車だったので、見つかっても不思議はなかった。この数日、早瀬清葉からの電話もメッセージも無視していた。きっと父は早瀬鋭の件で焦っているのだろう。シートベルトを外して車を降りると、成伸がすぐに腕をつかんできた。
「お前、時崎徹を怒らせたのか?あいつが早瀬家の取引を全部止めたぞ!」
手首を強く握られ、琴子は眉をひそめて問い返した。
「彼が何をしたの?」
「早瀬家の仕事を全部ストップさせたんだ!」
成伸は自分の非を省みることはない。
厳しいことを言って徹を怒らせれば、せいぜい琴子を家から追い出す程度だと高をくくっていた。娘がしつこく居座れば、相手もどうしようもないだろうと。
だが現実は違った。きっと琴子が思い通りに動かなかったせいで、全てが台無しになったのだと決めつけていた。
「早瀬家の取引を止めるかどうか、私にはどうにもできない。」
徹の行動の早さに琴子は驚いた。昨日自分を甘い言葉で家に呼び戻しながら、裏ではすでに動いていたのか。必死に腕を振りほどこうとするが、成伸の手はますます強く締め付けてきた。
「俺はお前を育ててきたのに!早瀬鋭も救えず、家まで巻き込むつもりか?今すぐ時崎家に戻れ。どんな手を使ってでも徹に許しを乞い、早瀬家の事業を元に戻してもらえ!」
琴子は唇をきつく噛みしめ、顔を青ざめさせて言い返した。
「戻りません!」
ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、マンションの前には徐々に人が集まってきていた。
このまま人目を引くのは嫌だった。父の手を振りほどきながら逆方向に歩き始めたその時、群衆の隙間から停車しているマイバッハを見つけた。窓の隙間からは、時崎徹がじっとこの騒ぎを見つめていた。
成伸はなおも怒鳴り続ける。
「自分の立場を分かっているのか!時崎家に嫁げるなんて何世代にも一度の幸運だ。目の前で気取ってる場合か?離婚したら中古女だぞ、そんな身で誰に嫁げる?あいつに追い出されても、必死でしがみつくしかないだろう!」
琴子はその場に立ち尽くし、顔は真っ青だった。まるで徹の前で、全てのプライドを剥ぎ取られてしまったようだった。
徹の目に浮かぶ冷たい嘲笑が、琴子の心に鋭く突き刺さる。
――きっと彼はこう思っている。「彼女はもともと自分の気を引くための道具にすぎない。自分の周りを回っていればいいのに、何を思い上がっているんだ。そんな価値はない。」