時崎徹は車の窓を上げ、前方を見ながら声を掛けた。
「宮崎、奥さんを連れてきてくれ。」
運転席の宮崎高英はすぐにエンジンを切って車を降り、そのまま人だかりの中にいる親子のもとへ向かった。
時崎琴子は宮崎高英の姿を見ると、すぐ逃げようとしたが、早瀬成伸がしっかり腕を掴んでいて、どうしても振りほどけない。
「言ったこと聞こえてるのか?」早瀬成伸はしつこく言う。
「今すぐ時崎家に戻れ!」
時崎琴子はとうとう堪えきれず叫んだ。
「戻らないって言ってるでしょ!自分のことは自分で決めるから、放っておいてよ!」
早瀬成伸は数秒驚いたように黙ったが、すぐに怒鳴り返した。
「なんだその口の利き方は!お前の母親が甘やかしたせいで、父親の俺の言うことも聞けなくなったのか!」
彼は琴子を自分の方に無理やり引き寄せ、もう片方の手を振り上げた。早瀬家の当主になって以来、早瀬鋭以外にこんな態度を取る者はいなかった。
琴子は背筋を伸ばし、振り下ろされる手をじっと見つめ、やがて目を閉じて覚悟を決めた。
どうせ時崎徹の前でここまで恥をかいたのだ、もう少しくらいどうでもいい。彼が自分に期待することなんて何もない。ただの気まぐれの相手、いくら恥をかいても価値なんてない。
その時、突然視界が暗くなり、一人の影が街灯の灯りを遮った。
高橋枫真だった。彼が素早く手を伸ばし、早瀬成伸の腕を止めた。
「……高橋さん。」
早瀬成伸は一瞬で勢いを失い、高橋枫真の視線を受けて琴子の手を放した。
「早瀬さん、落ち着いて話しましょう。」
高橋枫真の声は、いつもの穏やかさが影をひそめ、厳しい響きがあった。
早瀬成伸はたちまち表情を変えて、先ほどとは別人のように笑ってみせた。
「この子は母親に甘やかされて、父親として少し厳しくするだけですよ。まあ、あなたの言う通り、家でゆっくり話します。あなたたちはごゆっくり。私は用事があるので。」
そう言うと、彼は琴子の車に乗って去っていった。
野次馬も徐々に散っていく。本当は助けに行きたかった宮崎高英も、高橋枫真に先を越されてしまい、仕方なく少し離れた場所で待つしかなかった。
道路の向かい側では、時崎徹がいつの間にか車を降り、車体に寄りかかりながら、無表情で高橋枫真と琴子の様子を見ていた。
揉み合いのせいで琴子の髪は乱れ、頬に張り付いた一束が目立っている。
色白の肌に涙目が重なり、ひどく痛々しい。琴子は少し高橋枫真の後ろに身を隠し、彼だけを見つめて動かない。
時崎徹の眉間には深いしわが寄っていく。
「奥様、時崎様がお車でお待ちです。」
宮崎高英は恐る恐る近づいて声を掛けた。時崎家の事情を知っているので、あえて隠したりしない。
高橋枫真はようやく道路の向かいの徹に気づき、軽く会釈をした後、琴子を気遣った。
「大丈夫?」
「枫真兄……ありがとう。あの、上でお茶でもどう?」
琴子は真っ赤な手首をさすりながら、かすれた声で誘った。徹のことはあえて見ず、彼の視線にも気づかないふりをした。
高橋枫真は微笑んだ。
「もう『ありがとう』はやめなよ。もう遅いから、お茶はまた今度にしよう。君は早く上がって。」
「じゃあ、今度ご飯でもごちそうさせて。」
琴子は目を伏せ、宮崎高英の言葉を無視して、メゾネット・アーツの建物へと向かった。
宮崎高英は反射的に後を追う。高橋枫真は道路を渡り、時崎徹のもとへ。
「いつ帰国したんだ?」
時崎徹は目を細め、口調は一応穏やかだったが、どこか探るような色があった。
ちらりと琴子の後ろ姿を目で追い、再び高橋枫真を上から下まで見やる。
「数日前だよ。」
高橋枫真は彼の視線を気にする様子もなく、答えた。
「琴子に会いに?」
二人は幼い頃からの知り合いで、特に仲が良いわけでも悪いわけでもない。二年前、高橋枫真が海外に渡ってからは連絡も途絶えていたが、久々に再会した今、琴子の存在が二人の間に微妙な空気を生み出していた。
時崎徹の胸中に説明しがたい警戒心が芽生えるが、表面上は平然と答えた。
「ああ、最近あいつは言うことを聞かず、すぐに反抗する。」
「女の子なんて、優しくしてあげればすぐ機嫌も直るよ。」
高橋枫真は、二人が離婚騒動をしていることには触れなかった。
時崎徹は両手をポケットから出して袖口を整え、目を細める。
「また今度、ゆっくり話そう。」
そう言いながら肩に軽く手を置いた。その力は強くなかったが、どこか威圧的なものを感じさせる。
高橋枫真は思わず眉をひそめた。
「ああ。」
彼は徹が道路を渡ってメゾネット・アーツへ入っていくのを見送った。宮崎高英はすでに、琴子の住む棟と階を調べていた。
その頃、宮崎高英は琴子の部屋の前で押し問答をしていた。
「奥様、どうか時崎様にお会いください!」
「会わない!」
琴子はドアノブをしっかり握りしめてドアを閉めようとしたが、宮崎高英が体をねじ込んで半分中に入ってきた。エレベーターから徹が降りてくるのが見えて、琴子はあの夜騙されて家に戻されたことを思い出し、まるで不審者でも防ぐかのようにドアを押さえた。
徹は両手をポケットに入れたまま、宮崎高英の後ろに立つ。ドアの隙間と宮崎高英の頭越しに琴子と目が合った。その瞳には明らかな警戒と拒絶が浮かんでいる。
さっき高橋枫真に見せていた頼り切った顔とは、まるで別人だった。
徹の機嫌はますます悪くなる。
「荷物を渡したら、帰るぞ。」
「はい。」
宮崎高英は隙間からディスクを差し出した。
「奥様、これはお車のドライブレコーダーです。警察も事故の件を……」
「説明は要らない。自分で見ろ。」
徹は冷たい声で言い残し、エレベーターへと戻った。
琴子はディスクを受け取りながら、ふと手が止まった。
事故には何か裏があるの? あの時見えた影は幻じゃなかったの?
そんな疑問が頭をよぎった瞬間、目の前のドアが急に開かれた。
勢いで風が入り、琴子は思わず顔を上げた。
徹が大股で歩み寄り、彼女を玄関の靴箱まで追い詰める。
「バタン」と大きな音を立てて、ドアが閉まった。