時崎徹のかすかなタバコの香りが、時崎琴子の鼻をくすぐった。
琴子は驚いたように彼を見上げ、肘で彼の肩に触れながら唇を噛みしめ、黙り込んだ。
「まだ離婚したいのか?」
彼の息遣いが周囲を包み込み、琴子の心臓が一気に高鳴る――
好きな人の前では、彼の優しさにも冷たさにも抗えず、そばにいるだけで胸が苦しくなるものだ。
琴子は深く息を吸い、無理やり平静を装った。
「離婚する。」
「ふん――」
徹は冷ややかに口元を歪め、目の奥に氷のような光を浮かべた。
「痛い目に遭わないと分からないらしいな。覚えておけ、離婚していない限り、妻としての立場を守るべきだ。」
「妻としての立場を守るべき」――その言葉が琴子の頭を一気に冷やす。
彼が言っているのは、高橋枫真のことだろうか。
さっき高橋枫真が彼女を助けた時、徹は傍観者のように見えたが、誰かが琴子を守るのは我慢できないらしい。
しかし、彼自身は白鳥美々の誕生日を祝ったり、親しくしたり、ブラックカードを渡したり……自分の時には「夫の道」を守ることなど考えたこともなかったはずだ。
琴子の瞳に頑なな色が浮かぶのを見て、徹の苛立ちはさらに募った。
彼は身を屈めて強引に琴子の唇を奪った。
唇と歯がぶつかり、たちまち血の味が広がる。
息が奪われ、琴子は思わず小さく声を漏らす――もしまたあの夜のように強引にされたら……
その思いがよぎった瞬間、徹は突然彼女を離した。
ようやく息を取り戻したところで、首筋に鋭い痛みと痺れるような痒みが走る――彼はそこにも痕を残していった。
「徹、いい加減にして!」
琴子は全力で徹を突き飛ばした。
彼は不意を突かれてドアにぶつかり、鈍い音が響いた。
喉を鳴らし、低く唸る。
徹の唇には琴子の血がにじんでいた。
玄関の明かりが彼の体を照らし、どこか投げやりな気だるさを漂わせている。
鋭い視線を琴子と数秒間交わしたあと、徹は無言で背を向けて去っていった。
琴子の心臓は激しく波打ち、しばらくしてからようやくバスルームに向かった。
鏡を見ると、唇の一部が噛み切られ、首には深い紅い痕が新しくついていた。
昨夜のキスマークはまだ消えず、ハイネックでなんとか隠せそうだったのに、今回は唇も首も、どうやっても隠しきれない。
唇を舐めてみると、鋭い痛みが走った。
徹の気持ちを考えている暇もなく、琴子はパソコンの前に座り、USBメモリを差し込む。
中身はドライブレコーダーの映像と、警察の電子供述書だった。
事故を起こしたのは、亡くなった渡辺恵の夫・渡辺衛兵で、警察がすでに逮捕している。
衛兵は「ただ脅かすつもりだったが、恵の運転が下手で大事になってしまった」と供述していた。
琴子はUSBのデータをすぐ周防弁護士に送った。
ほどなく返事が届く。
「時崎さん、もし早瀬鋭さんを早く釈放させたいなら、これを交渉材料にしてはどうでしょう。渡辺家に故意の当て逃げを認めさせ、弟さんの潔白を証明する。その代わり、あなたは告訴を取り下げ、衛兵さんの罪を軽くする。証拠は後で揃っても、交渉の方が早いですよ。」
琴子は迷いなく交渉を選んだ。
鋭は幼い頃から大切に育てられ、冤罪で刑務所にいるのはあまりにも酷だ。
周防にできるだけ早く渡辺家との面会を手配するよう頼み、週末の午前十時に約束が決まった。
金曜の夕方に白鳥美々との約束がある以外、特に重要な予定もなく、この件に集中できそうだった。
徹は車に戻り、運転席の宮崎高英に尋ねた。
「最近、琴子と高橋枫真は親しそうか?」
「この前、奥様は高橋姉弟と一緒に登山に行かれていました。」
宮崎は正直に答え、余計なことを言うべきか迷った。
「高橋枫真の最近の動きを調べろ。」
徹は窓の外を見つめ、胸の奥に妙な苛立ちを感じていた。
琴子が高橋枫真に見せる柔らかい表情――もう何年も自分には向けてくれたことがない。
自分が甘やかしすぎたせいで、他の男にまで夫以上に親しげにするのか。
「高橋さんは高橋家の事業を継ぐほか、『星筑スペース』の経営もされています。」
宮崎は以前から高橋枫真について調べていた。
星筑は共同創業から長い歴史があり、琴子のために作った会社ではないはずだ。
だから今までは何も気にしなかったが、さっきの出来事で一抹の不安がよぎる。
「インテリアデザイン会社か?」
徹は今朝、琴子がスーツ姿だったのを思い出し、目つきを険しくした。
「琴子は仕事に行っていたのか?」
宮崎が小さく答える。
「以前調べたことがありましたが、その時は資料を捨てられました。」
徹は呆れたように笑った。
なるほど、今朝はわざと誘惑したのではなく、仕事帰りに駆けつけてきたのか。
それで泣きながら抵抗し、理不尽だと感じていたのか。
もしかして、他の男のために身を守っていたとでも?
徹は奥歯を噛みしめ、顎のラインが強張る。
ネオンが彼の顔を照らし、怒りがそのまま表情ににじみ出ていた。
デザイン会社には琴子を雇うなと命じていたのに、星筑が知らないはずがない。
琴子が働けているのは、高橋枫真が裏で手を回したからに違いない。
また高橋枫真が琴子を庇う光景が頭をよぎり、徹は拳を握りしめた。
さっきは優しすぎた。もっと思い知らせるべきだった。
あのUSBも取り戻し、彼女を困らせて、自分に頼らせるべきだ。
理性が怒りにかき消される中、「浮気されるのが怖いだけ、男の本能だ。あの女なんて気にしていない」と自分に言い聞かせていた。
「会社に戻る。残業だ。」
宮崎にそう告げる。
忙しくしていれば冷静さを保てる――女ごときに振り回されるはずがない、と。
その後二日間、天穹株式会社には重苦しい空気が漂っていた。
そんな中でも、白鳥美々だけは普段どおり彼に話しかけてくる。
「時崎さん、あとでデザイナーさんと寸法取りの約束があるんですけど、一緒に行きませんか?」
退勤前、彼女はオフィスに入ってきて椅子に座った。
徹は断るつもりだったが、その言葉に一瞬動きを止め、皮肉っぽく笑って答えた。
「いいだろう。」
琴子に振り回されるつもりはない――
見に行くだけなら、別に構わない。