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第43話 自分の婚約者の部屋で、まるで滑稽な存在


時崎琴子は、この数日すっかり気分が沈み、仕事でもうまくいかないことばかりだった。


首元に巻いたスカーフがうっとうしくて、うつむくたびに苦しくなる。ようやく金曜の夕方、首の痕がほとんど消えたので、やっとスカーフを外すことができた。


上田麻衣は、琴子ひとりで白鳥美々の家に寸法を測りに行かせるのはさすがに気が引けると思い、自分も同行することにした。ちょうど琴子が車を持っていなかったので、上田が運転して連れて行くことになった。白鳥美々から住所は上田のLINEに送られてきていた。


もともと上田は琴子のことがあまり好きではなかったし、琴子も自分から話しかける気はなかったので、車内の空気は凍りついていた。


琴子は後部座席に座り、早瀬清葉のLINEを開いた。


「琴子ちゃん、なんでお父さんの言うこと聞かないの?」

「すごく怒ってたよ。あなたのこと、ちゃんと躾けられなかったって私を責めてた。」

「小さい頃から早瀬の家で肩身が狭かったのは、私が甘やかしすぎたせいね……」


母からの自責の言葉に、琴子の心は冷たくなっていく。


物心ついた頃から、母が琴子を「甘やかした」ことなんて一度もない。ただ「いい子にしていれば愛される」「おとなしくしていなきゃダメ」「お父さんを怒らせないように」という小言を繰り返すだけだった。


メッセージだけでなく、清葉からは何度も通話がかかってきていたが、琴子はすべて通知オフにして無視していた。最新のメッセージは、昨日の深夜に届いたものだった。


「時崎琴子、あなたには本当にがっかりした!」


その一文を見て、琴子の胸はずきんと痛んだが、それでも返信はしなかった。


一度でも妥協してしまえば、また父の言いなりになって時崎家に戻り、徹の「都合のいい妻」に逆戻りしてしまう。それだけはどうしても嫌だった。


徹に見下されるあの視線を思い出すだけで、背筋が凍る。


額に指先を当て、琴子はじわじわ湧き上がる負の感情をなんとか飲み込もうとした。


実の親であり、早瀬鋭という弟もいる。完全に縁を切ってしまいたくはない。


でも、離婚する前に早瀬家で折れてしまえば、きっともっと面倒なことになる。離婚届を渡してから、徹からは何の返事もない。徹の考えが読めず、この先どう進めばいいのかも分からなかった。


「着いたわよ。」


上田がぶっきらぼうに呟き、さっさとシートベルトを外して車から降りていった。


琴子が我に返ると、車内には自分だけが残っていた。急いでバッグと電子メジャーを持ち、後を追いかける。だが、目の前の邸宅を見た瞬間、思わず足が止まった――


博覧荘園?ここは、時崎徹との新婚の家じゃないか!


ここは隅々まで自分がデザインした場所。この家がどうして白鳥美々のものになっている?リフォームって、一体どういうこと?


「何してるの?早く来て、チャイム押して。」


上田はすでに玄関に立ち、苛立った声をかけてくる。


琴子の中に、かすかな希望がよぎる。もしかしたら、ただここで待ち合わせしてるだけ?徹が隣にもう一軒部屋を用意したのかも?


どちらであれ、美々がこの家に住むよりはマシだ。


胸が痛むのを必死に抑えながら、琴子は階段を上がり、自分で選んだ電子ロックに手を伸ばし、無意識のうちに暗証番号を入力した。


「パスワードが違います。」


冷たい機械音が、最後の望みを容赦なく打ち砕いた。パスワードが変えられている。


「チャイム押しなよ。何、自分の家みたいなことしてるの?」


上田は琴子を脇に押しやり、チャイムを押した。


両開きの木製ドアがゆっくり開き、白鳥美々が顔を覗かせた。二人の姿を見て、にっこり微笑むと、ドアを大きく開けた。


「美々さん。」


上田はさっきまでの態度を一変させ、丁寧に挨拶した。美々の「彼氏」がただ者ではないと察していたのだ。この家に住める人間が普通なわけがない。しかも天穹株式会社の副社長だと聞いている。


「ほら、ちゃんと美々さんにご挨拶しなさいよ。」


上田が琴子の固い表情を見て、小声で促す。


この一枚のドアが、まるで二つの世界を隔てているようだった。家着姿で自然体の美々を目の前にして、琴子の胸は今にもはち切れそうだった。


「もう知り合いだし、そんなに気を使わないでください。」


美々はにこやかに二人を中へといざなう。


「彼が潔癖症なので、スリッパに履き替えてもらえますか?」


上田はスリッパを履きながら周囲を見回した。


「美々さん、玄関の絵、とても素敵ですね!そのペアリング、限定モデルじゃないですか?なんだか見覚えがあるんだけど……」


それは琴子が自分で描いたスケッチだった。徹とのペアリングをモチーフに描いた一枚――限定品なんかじゃない、無名ブランドからわざわざ選んだオンリーワンのデザインだった。


上田が見覚えがあるのは、女物の指輪が今も琴子の薬指にはめられているからだ。徹の方は、一度もつけてくれなかった。


今、その指輪が焼けつくように指先を痛めつけ、琴子は思わず袖口で手を隠した――自分がまるで、笑い者みたいだった。


「いいえ、違いますよ。」


美々は琴子の手元をちらりと見て、意味ありげに微笑んだ。


「彼がどこから手に入れたのか分かりませんけど、私は好みじゃないので、捨てようかと思ってるんです。」


「この絵、結構価値あるんじゃないですか?捨てるのはもったいないし、彼も反対しません?」


上田が驚きの声を上げる。


「これから私がここに住むので、気に入らないものは全部片付けてもらうし、彼が残そうとしても、私が勝手に処分しても何も言いませんよ。」


美々は肩をすくめて笑った。含みのある言葉に、琴子はバッグの持ち手を思わず握りしめる。


スリッパを整えながら、琴子は美々が上田に耳打ちするのを聞いた。


「彼も今家にいるけど、ちょっと事情があって、私たちの関係は内緒にしておいて。知らないフリでお願い。」


「わかりました!」


上田はすぐに口にチャックするしぐさをしてみせた。


琴子は二人についてリビングに入る。見慣れたコントラストのインテリアに、思わず目頭が熱くなる。


そして、リビングのソファに座る男と目が合った瞬間、こらえきれずに視界がぼやけた。


時崎徹は、脚を組んでソファに寄りかかり、琴子を見たとき、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。



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