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第54話 早瀬家が傾いても、徹はあなたを選ぶのか


時崎琴子はソファに座っていた。窓から差し込む陽射しは暖かいはずなのに、全身に冷や汗がにじんでいる。


早瀬成伸は時崎徹に背を向けながら、何度も琴子に目配せを送ってきた。しかし、琴子はまったく応じず、膝の上に置いた手を固く握りしめていた。爪が深く掌に食い込んでいる。


徹は、早瀬家が時崎家の支えを必要としていることも、白鳥美々が時崎家に受け入れられないことも、すべて見抜いている。そのうえで、こうして琴子を追い詰め、形だけの妻として居続けるように仕向けているのだ。


琴子は、徹がここまで冷酷になれるとは思ってもみなかった。


「徹くん、琴子の言うことを聞くのはいいが、やっぱり実家のことも考えてやらないと。男は何でも女性に従う必要はない、自分で判断すればいいんだよ」


琴子が黙っていると、成伸は場を和ませようと苦笑いを浮かべつつ徹に話しかけた。


だが、徹の視線は琴子から外れない。あくまで彼女自身に言わせようとしている。


「琴子!」成伸は堪えきれず、声を荒げた。


琴子は無表情のまま視線をそらし、父親を見た。


「いつまで徹に早瀬家を頼るつもり?」


成伸は目を見開き、琴子を睨んだ。


「何を言ってるんだ?家族同士、支え合って当然だろう!」


「でも、お父さんは商売の才能がない」


琴子ははっきりと言った。


成伸が家業を継いでから、早瀬家はずっと下り坂だった。かつて時崎家と並ぶほどだった家も、わずか二十年でここまで傾いたのが何よりの証拠だ。


二年前、焦った成伸は無謀な投資で家の資産をすべて失った。それもまた動かぬ事実だ。


成伸は立ち上がり、怒鳴りつけた。


「女のお前に何が分かる!俺は……」


徹がいるのを思い出し、言葉を飲み込み、無理に怒りを抑えた。


「俺がだめでも、鋭がいる。あいつは頭が良いし、将来は時崎にも助けてもらえば、俺よりずっとやれる!」


「鋭は家業を継ぐつもりはない。彼には彼の道がある」


琴子は冷静に言葉を返す。


「お前は……」


成伸は言い返せず、指先まで震えていた。


二人のやり取りを横目に、徹の表情は徐々に険しくなっていく。


琴子は一体どこからその覚悟を持ったのか。離婚のために、実家すら捨てる気なのか。彼女が電話で優しく「楓真兄さん」と呼んでいた声が、ふいに脳裏をよぎる。


「徹、ちょっと琴子と二人で話したい」


成伸はそう言うと、琴子の腕を引いて部屋を出て行った。


徹はその様子をじっと見送り、何も言わなかった。


琴子も抵抗しなかった。今日譲らなければ、成伸がこのまま引き下がるはずがない。徹の前で言い争いを続けるより、外で話す方がいいと判断した。


応接室のドアが閉まるやいなや、成伸の怒りが爆発した。


「琴子、お前正気か?早瀬家が潰れたら、徹はお前を選ぶと思うか?」


琴子は父の怒りを正面から受け止め、はっきりと言った。


「私たちは離婚するの」


成伸の用意していた叱責は、喉の奥で詰まり、そのまま絶句した。


「もう徹は早瀬家を助けない。この話は諦めて」


琴子はうつむいて続けた。


「今日は離婚届にサインしに来たの」


成伸は呆然とし、琴子が立ち去ろうとしたところを慌てて引き止めた。


「サインするな!お前が時崎家の奥さんでいる限り、うちにもまだ望みがあるんだ!」


琴子はため息をつく。父は自分から離婚を望んでいるとは思っていなかったのだろう。徹に捨てられたわけではないのに。


「早瀬家はもう昔のようには戻れないよ」


「家が再建できなければ、鋭は終わりだ!」


成伸の目は必死だった。


「あいつは出所してからおかしくなった。医者にも診てもらったけど、重度の精神障害だって。最善の治療を受けさせてるが、毎月十万円もかかる。もう金がないんだ!」


琴子は胸が締めつけられるような痛みに襲われた。


「鋭がどうしたの?」


「一度会ってみれば分かる」


成伸の顔には苦悩がにじんでいた。


「時崎家の支えがなくなれば、早瀬家はすぐにでも破産だ。治療費どころか、銀行への借金も何百万も残る」


二年前の投資失敗のあと、徹が琴子と結婚しても与えたのは便宜だけで、直接金を渡したことは一度もなかった。成伸は融資を頼ってなんとか事業を維持したが、実際はとっくに空っぽだった。


「鋭はどこ?」


琴子の頭の中は、もはや家のことではなく弟のことでいっぱいだった。


「東京中央病院……」


言い終わる前に、琴子は父を振り切って走り出していた。


成伸は離婚の事情を知らず、娘が去っていくのを見送るだけだった。そのまま徹のオフィスにも戻らず、建物を後にした。


父娘が相次いで去ったことは、すぐに徹の耳に入った。


「もう帰ったのか?」


「何か急用のようです」


宮崎高英も鋭のことは知らない。


「調べてくれ」


徹は腕時計をゆるめながら、難しい表情を見せた。


三十分後、宮崎が戻ってきた。


「昨夜、鋭が中央病院に運ばれたそうです。精神的にかなり深刻な状態で、今は治療を受けています」


徹は鋭と何度か顔を合わせていた。明るく粘り強い青年で、姉弟の仲も良かったことを知っている。


少し考えてから、椅子の上着を手に取った。


「病院へ行こう」


東京中央病院。


昨夜、鋭は帰宅後ほとんど食事もとらず自室に籠もっていた。夜中、清葉と成伸は激しい物音で目を覚まし、鋭の部屋へと駆けつけた。


部屋の隅で、鋭は頭を抱え「わざとじゃない、僕が轢き殺したんじゃない……」と泣き叫んでいた。


いくらなだめても効果はなく、病院へ連れて行くしかなかった。事故の後、刑務所での苦しみが積もり積もって、ついに限界を迎えたのだ。


医師の診断は反応性精神病。長期間の睡眠不足もあり、まずは鎮静剤で落ち着かせ、今後は治療を続けていくことになった。


琴子が駆けつけた時、鋭はまだ眠っていた。ベッドに近寄ろうとしたところ、清葉に強く引き離された。


「近寄らないで、起こしたらどうするの!」


「鋭は……」


琴子が言いかけると、清葉は彼女を廊下に連れ出した。


「話があるなら外で!」


鋭が入院しているVIPフロアは静まり返っていた。清葉は廊下のベンチに腰を下ろし、顔を覆って泣き崩れる。


「私がどんな罰を受けているのか……やっと授かった息子なのに、なんでこんなことに!全部あんたのせいよ、早く助けてやれって言ったのに!」


その口調には、あたかも琴子がすべての不幸の元凶かのような責めが込められていた。

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