白鳥美々が婚約者の部屋に住み込んだのは、確かに偶然の産物だった。だが、徹にはそれが常識外れだと分かっている。世間に知られれば、非は自分にあるのは明らかだ。
けれど琴子は、そのことを盾に徹を脅してきた。離婚するつもり、本気なんだろうか?
徹はようやくその事実を受け入れたものの、冷ややかに鼻で笑った。——琴子はまだ分かっていない。自分に離婚を切り出す資格なんて、もともとないということを。
徹は黙って白鳥美々の電話を切る。その目の奥は、深い墨色のように沈んでいた。
そこへ宮崎がドアをノックし、許可を得て素早く入ってくる。
「徹様、この書類にご署名をお願いします」
徹は書類に目を通しながら、何気なく尋ねた。
「早瀬家はどうなってる?」
「早瀬さんはもともと業界で評判が良いとは言えませんでした。徹様の後ろ盾を失ってからは、経営も急速に悪化しています。鋭の件で精一杯で、もう持ちこたえられないでしょう」
宮崎が低い声で報告する。
息子を救うため、早瀬成伸は仕事を後回しにし、徹の人脈に頼っていた相手にもそっぽを向かれた。鋭が釈放された今、事業を立て直そうにも、もう遅すぎる。
「最近、早瀬さんから何度も連絡がありまして、徹様に一度お会いしたいと…」
徹の目に、皮肉な色が浮かぶ。自分がいなければ、早瀬家なんて何の価値もない。
指先に力を込めて、素早くサインし、書類を宮崎に戻す。
「会ってやるよ」
宮崎は意外そうに目を見開いた。
「いつにいたしましょうか?」
「状況次第だ」
徹はわずかに眉を上げ、これ以上多くは語らない。宮崎は戸惑いながらも静かに部屋を出て行った。
車がないとやっぱり不便だ。琴子は博覧荘から天穹株式会社まで、移動に二時間もかかってしまった。
十時半、タクシーを降りると、どうせ徹に会うまでまた手間取るだろうと思っていたが、受付でそのまま上階へ案内された。
エレベーターに乗り込むと、受付がすぐに宮崎へ電話を入れる。宮崎は徹へ報告し、その後すぐ早瀬成伸にも連絡、三十分以内に会社へ来るよう伝えた。
エレベーターが最上階に着いたとき、琴子のまぶたがぴくりと跳ねる。目尻を押さえて深呼吸し、社長室のドアを見つめると、不安が胸を締め付けた。
でも、徹との約束は果たしたはず。今度こそ、離婚できるはずだ。
覚悟を決めて、ノックする。
「入れ」
扉越しに聞こえる低く響く声。
琴子がドアを開けると、正午の強い日差しが差し込む中、徹が窓際に立っていた。白いシャツが彼のすらりとした体を際立たせ、前髪が少し乱れている。その姿には、どこか無造作な色気が漂っていた。
彼女が入るのを見ると、徹はゆっくりと体を傾けた。
「白副社長は今日から復帰するって、約束してくれました」
琴子はドアを閉め、徹の数歩後ろまで進む。
「あなたも約束したはずです。彼女が戻ったら、離婚届にサインしてくれるって」
徹はゆっくり振り返り、逆光で表情が陰に隠れる。
その視線に琴子は思わず身がすくむ。
「徹、まさか約束を破る気じゃないでしょうね?」
「もちろん破らないさ」
徹は袖口を整えながら、静かに答える。
「これから会うべき人がいる。それが終わったら、離婚の話をしよう。それでいいか?」
また意見を求められていることに、琴子は違和感を覚えたが、唇を引き結び、うなずいた。
「分かりました」
「そこに座って待っててくれ。今日は必ず話すから」
徹が指さしたソファに腰かけ、琴子は彼の考えを探ろうとする。
静まり返ったオフィス。心臓の音だけがやけに大きく響く。不安はますます強くなっていった。
徹は窓際にもたれて煙草をくゆらせる。指先に揺れる火が、静かな空気をさらに重くする。
「トントン」
ドアがノックされた。
宮崎が顔を出す。
「徹様、早瀬さんがお見えです」
後に続いて早瀬成伸が入ってきた。無理に作った笑顔で徹に挨拶するが、琴子の顔を見て、その笑みが少し引きつった。
琴子は心臓が跳ねるのを感じ、徹を見つめる。
——まさか、父の前で離婚の話をするつもり?
「どうぞ」
徹は琴子に目もくれずデスクに座る。指を組み、威圧感を隠さない。
早瀬成伸は深く頭を下げて向かいに座る。
「今日は本当にありがとうございました。徹さんのおかげで、琴子も無事に鋭を助け出せました」
徹は眉をわずかに動かし、琴子に視線を投げる。
琴子は、その意図をすぐに理解した。唇を噛みしめ、顔色から血の気が引いていく。
「鋭の件では取り乱して、つい余計なことも言いましたが…徹さん、どうか気にしないでください。家族同士、支え合うのが当たり前ですし」
成伸は頭を下げ続ける。だが徹の目には、それは単なる媚びへつらいにしか映らない。
徹が求めているのは謝罪ではない。現実を、琴子にも分からせること——賢い者ならどうするべきかを。
その視線は、次第に琴子を値踏みするものへと変わっていく。
「徹さん…?」
成伸が返答を待ってそっと声をかける。
徹は椅子に背を預け、気だるげな態度で言う。
「謝罪は要らない。他に用は?」
これでやっと成伸は安堵し、しかしすぐに困った顔をする。
「鋭のことで仕事が手薄になってしまって、早瀬家の経営ももう限界です。徹さん、どうか助けていただけませんか?」
徹は急に微笑み、ソファの琴子に目を向ける。
「俺は琴子の意見に従うよ。助けるべきか、それとも…どうする?」
琴子の返答を待つように。