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第53話 琴子、俺は助けるべきか、それとも見捨てるべきか


白鳥美々が婚約者の部屋に住み込んだのは、確かに偶然の産物だった。だが、徹にはそれが常識外れだと分かっている。世間に知られれば、非は自分にあるのは明らかだ。


けれど琴子は、そのことを盾に徹を脅してきた。離婚するつもり、本気なんだろうか?


徹はようやくその事実を受け入れたものの、冷ややかに鼻で笑った。——琴子はまだ分かっていない。自分に離婚を切り出す資格なんて、もともとないということを。


徹は黙って白鳥美々の電話を切る。その目の奥は、深い墨色のように沈んでいた。


そこへ宮崎がドアをノックし、許可を得て素早く入ってくる。


「徹様、この書類にご署名をお願いします」


徹は書類に目を通しながら、何気なく尋ねた。


「早瀬家はどうなってる?」


「早瀬さんはもともと業界で評判が良いとは言えませんでした。徹様の後ろ盾を失ってからは、経営も急速に悪化しています。鋭の件で精一杯で、もう持ちこたえられないでしょう」


宮崎が低い声で報告する。


息子を救うため、早瀬成伸は仕事を後回しにし、徹の人脈に頼っていた相手にもそっぽを向かれた。鋭が釈放された今、事業を立て直そうにも、もう遅すぎる。


「最近、早瀬さんから何度も連絡がありまして、徹様に一度お会いしたいと…」


徹の目に、皮肉な色が浮かぶ。自分がいなければ、早瀬家なんて何の価値もない。


指先に力を込めて、素早くサインし、書類を宮崎に戻す。


「会ってやるよ」


宮崎は意外そうに目を見開いた。


「いつにいたしましょうか?」


「状況次第だ」


徹はわずかに眉を上げ、これ以上多くは語らない。宮崎は戸惑いながらも静かに部屋を出て行った。


車がないとやっぱり不便だ。琴子は博覧荘から天穹株式会社まで、移動に二時間もかかってしまった。


十時半、タクシーを降りると、どうせ徹に会うまでまた手間取るだろうと思っていたが、受付でそのまま上階へ案内された。


エレベーターに乗り込むと、受付がすぐに宮崎へ電話を入れる。宮崎は徹へ報告し、その後すぐ早瀬成伸にも連絡、三十分以内に会社へ来るよう伝えた。


エレベーターが最上階に着いたとき、琴子のまぶたがぴくりと跳ねる。目尻を押さえて深呼吸し、社長室のドアを見つめると、不安が胸を締め付けた。


でも、徹との約束は果たしたはず。今度こそ、離婚できるはずだ。


覚悟を決めて、ノックする。


「入れ」


扉越しに聞こえる低く響く声。


琴子がドアを開けると、正午の強い日差しが差し込む中、徹が窓際に立っていた。白いシャツが彼のすらりとした体を際立たせ、前髪が少し乱れている。その姿には、どこか無造作な色気が漂っていた。


彼女が入るのを見ると、徹はゆっくりと体を傾けた。


「白副社長は今日から復帰するって、約束してくれました」


琴子はドアを閉め、徹の数歩後ろまで進む。


「あなたも約束したはずです。彼女が戻ったら、離婚届にサインしてくれるって」


徹はゆっくり振り返り、逆光で表情が陰に隠れる。


その視線に琴子は思わず身がすくむ。


「徹、まさか約束を破る気じゃないでしょうね?」


「もちろん破らないさ」


徹は袖口を整えながら、静かに答える。


「これから会うべき人がいる。それが終わったら、離婚の話をしよう。それでいいか?」


また意見を求められていることに、琴子は違和感を覚えたが、唇を引き結び、うなずいた。


「分かりました」


「そこに座って待っててくれ。今日は必ず話すから」


徹が指さしたソファに腰かけ、琴子は彼の考えを探ろうとする。


静まり返ったオフィス。心臓の音だけがやけに大きく響く。不安はますます強くなっていった。


徹は窓際にもたれて煙草をくゆらせる。指先に揺れる火が、静かな空気をさらに重くする。


「トントン」


ドアがノックされた。


宮崎が顔を出す。


「徹様、早瀬さんがお見えです」


後に続いて早瀬成伸が入ってきた。無理に作った笑顔で徹に挨拶するが、琴子の顔を見て、その笑みが少し引きつった。


琴子は心臓が跳ねるのを感じ、徹を見つめる。


——まさか、父の前で離婚の話をするつもり?


「どうぞ」


徹は琴子に目もくれずデスクに座る。指を組み、威圧感を隠さない。


早瀬成伸は深く頭を下げて向かいに座る。


「今日は本当にありがとうございました。徹さんのおかげで、琴子も無事に鋭を助け出せました」


徹は眉をわずかに動かし、琴子に視線を投げる。


琴子は、その意図をすぐに理解した。唇を噛みしめ、顔色から血の気が引いていく。


「鋭の件では取り乱して、つい余計なことも言いましたが…徹さん、どうか気にしないでください。家族同士、支え合うのが当たり前ですし」


成伸は頭を下げ続ける。だが徹の目には、それは単なる媚びへつらいにしか映らない。


徹が求めているのは謝罪ではない。現実を、琴子にも分からせること——賢い者ならどうするべきかを。


その視線は、次第に琴子を値踏みするものへと変わっていく。


「徹さん…?」


成伸が返答を待ってそっと声をかける。


徹は椅子に背を預け、気だるげな態度で言う。


「謝罪は要らない。他に用は?」


これでやっと成伸は安堵し、しかしすぐに困った顔をする。


「鋭のことで仕事が手薄になってしまって、早瀬家の経営ももう限界です。徹さん、どうか助けていただけませんか?」


徹は急に微笑み、ソファの琴子に目を向ける。


「俺は琴子の意見に従うよ。助けるべきか、それとも…どうする?」


琴子の返答を待つように。

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