高橋千雪の夫、高橋慎一は、彼女が深く愛していたその年に裏切った。
「部長、できるだけ早く復帰の手配をお願いします」
「千雪、突然いなくなって、慎一はきっと気が狂いそうだよ」
電話越しの男性の声は落ち着いていたが、どこか驚きが混じっていた。彼はよく知っている。二人は結婚して六年、子供もひとり。家庭は円満そのものだった。慎一は千雪を何よりも大切にし、溺愛していたはずだ。
「もう、彼はどうでもいいわ」
千雪は携帯を強く握りしめた。
「わかった。当時、君を失ったことは組織にとって最大の損失だった。三か月後、迎えが来る。そのとき『高橋千雪』は完全に消える。誰にも見つからない」
「ありがとう、部長」
千雪は電話を切った。パソコンの監視画面には、慎一と家庭教師の美羽優が別荘のあちこちで親しげに絡み合う姿が映っている。
その光景は、彼女の目を強く刺した。
学生時代から十年、共に歩み、ウエディングドレスを着るまで愛し合った彼が、こんな形で彼女を傷つけるとは夢にも思わなかった。
寝室には様々なコンドームが散乱し、いくつかは金庫の中の真っ赤な婚姻届受理証の上に転がっている。翔太を産んでから千雪の体は弱り、もう子どもは望めない。だから、コンドームなどもう使うこともなかった。
だが、慎一はモニターの中で次々とコンドームを開けては、飽きることなく美羽優と過ごしている。
どうして、こんなことができるの?
突然、パソコンにLINEの通知が表示された。慎一のスマホと同期されている。
【翔太が美羽先生のこと、ママって呼びたいって。あなたはどうする?】
すぐさま返信が来る。【もちろん、君が僕の奥さんだ】
「奥さん」という文字を見つめながら、千雪は椅子に崩れ落ちた。胸が締め付けられる。
拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込み、血が滲む。それでも、心の痛みの方が遥かに勝っていた。
なんとか冷静さを保ち、二人の膨大なメッセージ履歴を最後まで読み終えた。
——息子が生まれてから、もうずっと浮気していたのだ。
五年もの間。
慎一は完璧に隠し通していた。
床に倒れた結婚写真が、コンドームの山よりも彼女の心をえぐった。
千雪は、息子の翔太のことを思い出した。
今日は幼稚園の運動会。今ごろ翔太は美羽優と一緒にいて、「ママ」と呼んでいる。そのことを想像するだけで、千雪の胸は張り裂けそうだった。
あの子は、私の息子なのに!
彼女は車の鍵を掴み、階段を駆け下りる。途中、家政婦たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「なにこれ?どうして奥様の服に紛れてるの?」
「こんなボロ布、服って言えるの?」
「しっ、家庭教師のものよ」と誰かが声を潜める。
「彼女の部屋に戻しておきましょう」
「男を誘惑する小悪魔ね。いつか罰が当たるわよ……」
千雪は、家政婦たちが一階の客間の美羽優の部屋に黒いシルクのナイトガウンを放り込むのを見た。嘲笑が響く。
「奥様?奥様!」
家政婦たちはリビングで呆然と立ち尽くす千雪に気づき、慌てて取り繕い、それぞれ持ち場に散った。
——この家で、真実を知らなかったのは自分だけだったのだ。
千雪は力なく幼稚園へ向かうと、翔太と美羽優が楽しそうに遊んでいるのが見えた。
「ママ、いちご大福は?」
両手が空の千雪に、翔太は不満げに問いかけた。
「ごめんね、翔太。忘れちゃった」
「じゃあ、今すぐ買ってきてよ。美羽先生、ずっと食べたいって言ってたよ」
「いいのよ、翔太。食べたければ自分で買いに行くから」と美羽優が優しく答える。
千雪は内心で皮肉に笑った。以前は美羽優が翔太をよく面倒見てくれると感謝していたが、今や翔太は美羽優にべったりだ。
「美羽先生、あのお店のいちご大福がすごくおいしいって言ってたよね。三時間も並ぶ人気店なんだって?」
「一緒にいるのに、三時間も離れたら寂しいでしょ?だからママに買いに行ってもらおう」
「千雪さんが買いに行くなんて……」
「うちのママは僕のために何でもしてくれるんだよ。やらせないと、逆に拗ねちゃうんだ」と翔太は得意げに言った。
その言葉に、千雪の心は一気に冷えた。
そこへ先生がやって来た。「親子で二人三脚の競技です。お子さんと保護者の方、お一人でご参加ください」
千雪は翔太のそばに行こうとした。「翔太、ママが一緒にやるね」
「いいよ」翔太はロープを手に取り、美羽優と自分の足を結び始めた。「美羽先生の方がこういうの上手だから」
「翔太、私はあなたのママなのよ!」千雪は諦めきれずに手を取った。
だが、翔太はその手を振り払って叫ぶ。「ママ、うるさいよ!僕のためにママの席を譲ることもできないの?」
千雪の心に鋭い痛みが走った。「今、なんて言ったの?」
翔太を産むために命懸けだった。必死で育て、毎日そばにいた。それなのに、美羽優がたった三か月世話しただけで、翔太はもう彼女に心を奪われていた。
「千雪さん、あなたは翔太のためなら何でもするんじゃないですか?しかも、体操の先生がママだなんて、みんな羨ましいはず。私の方が若くて、元気で、キレイですし」と美羽優が口を挟む。
「美羽先生がいれば、絶対勝てるよ!」ふたりはハイタッチを交わした。
美羽優は翔太の手を取り、千雪を見て勝ち誇ったように微笑んだ。
千雪は悔しさで全身が震えた。
「お前、何様のつもりだ。うちの奥様にそんな口をきくな!」
慎一の冷たい声が響いた。千雪のそばに来て、美羽優を睨みつける。「お前は翔太の家庭教師にすぎない。もう一度でも奥様に逆らったら、すぐに出ていけ!」
「奥様に謝れ!」
美羽優はすぐに頭を下げ、肩を震わせながら怯えたふりをする。「ごめんなさい、千雪さん。二度としません」
二人の見え透いた芝居を見て、千雪の心はますます冷えきった。今はただ、息子を連れて帰りたいだけだった。
だが、翔太が突然叫んだ。「パパ、なんで美羽先生を怒るの!美羽先生の言う通りだよ。ママなんて、もう古くさいし、鈍いんだ!」
彼は美羽優のために千雪を否定した。
どうして、息子がこんなふうになってしまったの?
千雪は震える声で尋ねた。「そんなに、彼女のことが好きなの?本当にママになってほしいの?」
翔太は冷ややかな目で見返した。「そうだよ」
その言葉が、千雪の最後の支えを断ち切った。
翔太は美羽優の手を取って、競技のスタート地点へ駆けていく。二人が楽しそうに寄り添い、グラウンドを走り回る姿が目に焼き付いた。
千雪の心は、完全に砕け散った。
「千雪、子どもはまだ小さいんだ。無理しないで、体を大事にしてくれ。お母さんには僕から話す。彼女には出ていってもらうから」
慎一は耳元で優しくささやいた。その優しい目も、長年変わらなかった甘い言葉も、今は何の意味もなかった。
もう、何も残っていない。
——夫も子どもも、彼女を選んだのなら、私にはもう何もいらない。
千雪は慎一の手を振り払い、幼稚園をあとにした。
三十日後、彼女はこの世から姿を消す。
もう、この場所に彼らの居場所はない。