高橋千雪は幼稚園を出た。表情がどこか沈んでいる千雪を見て、執事が声をかける。「奥様、どちらへ行かれますか?お車をお出ししましょうか。」
どこへ?今や彼女には頼れる人もいない。行く先は一つしかなかった。
「大丈夫です。」
執事は遠ざかる千雪の背中を見送りながら、何かがおかしいと感じていた。そのとき、携帯が鳴り響く。電話の向こうでメイドが怯えた声を上げる。「奥様がご主人様の秘密を見つけてしまいました!」書斎の荒れようにメイドはすっかり動揺していた。執事はすぐに雅に連絡を入れた。
千雪は車を飛ばし、高速道路を抜けて、街の喧騒から離れ、山梨県の山間へ向かっていた。
一方その頃、高橋財閥の社長室。
慎一は美羽優と情事の最中だった。ベッドサイドに置かれたスマートフォンが鳴る。慎一は警報アプリを開くと、画面の赤い点が急速に遠ざかっていくのが見えた。
「慎一さん、翔太くんのスイミングももうすぐ終わりね?」美羽優が腕を回し、甘えるようにささやく。
慎一は彼女を突き放し、遠ざかる赤い点をじっと見つめる。「慎一」と呼ばれたことで、心にざらつくものを感じた。何か大切なものが失われていくような、そんな感覚だった。
「俺の名前を呼ぶな。」冷え切った声でそう言い放つ。千雪以外に、誰にもそう呼ばせるつもりはなかった。
慎一は慌ててスラックスをはき、振り返りもせず部屋を出ていった。
慎一が去ると、美羽優の愛想笑いは一瞬で消え、ベッドサイドの写真立て――慎一と千雪が写った写真――を手で払い、ゴミ箱に落とした。自分は千雪より若く、魅力的で、ベッドでも慎一を満足させている。翔太も自分を好いてくれている。なのに、なぜ慎一は千雪ばかり気にするのだろう。未練だというのなら、自分で決着をつけてみせる……。
郊外の墓地には春の雨が静かに降っていた。
千雪は母の墓前に長く立ち尽くしていた。かつて母に幸せになると約束したのに、それを守れなかった。嗚咽まじりに語りかけた。「お母さん、ごめんね。私、慎一さんと離婚することにした。翔太の親権は彼に渡す。お母さんを連れて、ここを離れたいの。」
「お母さんを、どこへ連れていくつもり?」ふいに頭上に傘が差しかけられ、優しい声が降り注ぐ。
驚いた千雪が見上げると、そこには慎一の端正な顔があった。
「どうして私がここにいるってわかったの?」千雪は眉をひそめる。どうやら、先ほどの独り言は聞かれていないようだ。
「心が繋がっているからさ。」慎一は千雪を抱きしめ、その腕の力を強めていく。「急に街を出たから、心配でたまらなかった。」
慎一の体温は千雪の冷えきった心に伝わるが、もはや彼女の心を温めることはできなかった。彼の体から漂うデイジーの香水――美羽優がよく使う香りだった。
「何を心配するの?私があなたの後ろめたいことを知って、出ていくのが怖いの?」千雪は慎一の顔から何か手がかりを探そうとする。
慎一は重い表情で空を指し、「千雪、母さんの前で誓う。今までも、これからも、絶対に君を裏切ったことはないし、これからもない。もしそんなことがあれば、天罰が下るだろう」と言い放った。
その言葉の直後、空に雷鳴が轟き渡り、慎一の心は一瞬ひやりとした。まるで天が彼の嘘を暴くかのようだった。
慎一の裏切り、そして偽りの優しさを思い出し、千雪の大きな瞳には冷ややかな色が浮かんだ。
「天罰なんて受けなくていいわ。そんなことで天を汚したくないもの。もしあなたが私を裏切ったら、私はあなたの元を去るだけ。」
「千雪、絶対にそんなことはしない。生涯、君を手放さない。」慎一は彼女の手を取り、唇にそっと触れた。「死ぬまで、君は俺のそばにいる。」
千雪はその言葉に心の中で冷たく笑う。今まで、彼のその“誠実さ”に騙されてきたのだ。だが、離れるのは簡単ではない。街を出てわずか二時間も経たずに見つけ出される。東京中、空港も港も高橋グループの支配下にある。彼が手を離さなければ、逃げられない。今はじっと機会を待つしかない。
慎一は優しく抱き寄せる。「信じてくれてありがとう。でも、さっき“お母さんを連れていく”と言っていたけど、どこに?」
千雪は彼を押し返し、目を伏せて嫌悪を隠す。「母のお墓が古くなってきたから、いったん遺骨を葬儀場に移そうと思ったの。」
慎一はほっと安心し、上着を脱いで千雪の肩にかけ、傘を渡した。墓の周りの草を抜きながら言う。「たしかに土が緩くなってるし、すぐに管理人に移してもらおう。何年か前、君の名義で土地を買って、母さんのために新しい墓地も作ってある。海も山も見えるし、チューリップもたくさん植えてあるよ。掃除や供養も任せてあるし、警備も万全。きっと母さんも喜ぶはず。本当は命日にサプライズで伝えたかったんだ。」慎一は立ち上がり、千雪の手を取った。
雷鳴が続く。「ここは危ない、早く行こう。」慎一は傘を差し、千雪を守りながら坂を下る。
千雪は、慎一の優しいまなざしに十年前の記憶を重ねる。母と共に苦しい日々を過ごしたあの時、彼が助けてくれた。母が最後に安らかに過ごせたのも、彼のおかげだった。こんなにも尽くしてくれたのに、なぜ裏切ったのか――千雪の唇が微かに震える。問いただしたい気持ちがこみ上げる。
そのとき、慎一が助手席のドアを開けた。そこに座っていたのは美羽優だった。千雪の問いかけは胸の奥に飲み込まれる。美羽優は白いワンピースにショールを羽織り、首元には無数の痕が残っていた。その首には、千雪が最近失くした結婚指輪がネックレスとして掛けられている――あのとき千雪は深く落ち込み、慎一も自分の指輪を外し、新しい指輪に作り直そうと約束してくれたはずだった。
慎一の左手薬指には今もその結婚指輪が光っていた。その冷たい輝きが、ナイフのように千雪の心をえぐる。
母の墓参りに、美羽優を連れてきて、しかも結婚指輪まで彼女に与えていたなんて――さっき少しでも慎一の愛を信じそうになった自分を、千雪は心底惨めに思った。慎一は、もう何も惜しくない。
千雪は、砕け散った心を抱えて背を向けた。
その背中に、怒号が響く。「降りろ!奥様の席に座るな!」