美羽優は「ドサッ」と高橋千雪の前にひざまずき、涙ながらに懇願した。
「千雪さん、どうか高橋様に私を追い出させないでください…」
後部座席の窓が下がり、翔太が顔を出して大きな声で非難した。
「ママ、どうしておばあちゃんの前で美羽先生の悪口を言ったの?」
千雪は泥で汚れた美羽優を見下ろした。今にも壊れそうなほど儚げな様子は、まるで白い小さな花のようだ。美羽優が翔太を連れて来たのは、自分たちの間を裂こうとしているのだと千雪は分かっていた。
「翔太、ママにそんな言い方をしちゃダメよ。ママは誰かの悪口なんて言わないわ」
慎一が穏やかな声で諭した。その優しげな眼差しは、真実を知らなければ感動したかもしれないが、今となっては滑稽にしか見えない。
「ママが言ってないなら、どうしておばあちゃんは美羽先生を追い出すの?きっとママのせいだよ!」
翔太は納得せずに車を降り、美羽優の手を引いた。
「美羽先生、早く立って。ズボンが濡れちゃったよ」
千雪は、息子が美羽優の濡れたズボンを気にしても、自分が雨に濡れていることには無頓着な様子を見て、胸が締め付けられる思いだった。
美羽優は得意げに口元を歪め、それでもあくまで弱いふりをする。
「翔太、大丈夫よ。千雪さんが追い出さないって言ってくれるなら、私はいつまでだってこうしてるわ」
千雪は優しく諭した。
「翔太、ママはいつも言ってるよね。証拠もないのに誰かを疑っちゃダメだって」
翔太は口を尖らせて言った。
「じゃあ、おばあちゃんに美羽先生を追い出さないでって言ってよ。そしたら信じるから」
翔太の中で美羽先生はとても良い人で、パパも好きなのに、ママ以外に誰が告げ口するはずがないと思い込んでいた。
千雪は、息子が美羽優のためにこんなことを言い出すなんて思いもしなかった。自分が甘やかしすぎたのかもしれない。
「翔太、おばあちゃんの決めたことは誰にも変えられないのよ。ママに無理を言わないで」
慎一はあくまで千雪をかばうように見せかけて、実は翔太に言い訳を与えていた。
「じゃあ、僕が自分でおばあちゃんに頼みに行く!パパ、早く本家に連れてって!」
翔太は美羽優の手を引きながら後部座席に乗り込もうとし、美羽優もそれに従った。
千雪は、息子と美羽優が親しげにしているのを見て、もうすぐ別れるのだと自分に言い聞かせたが、心の痛みは消えなかった。
慎一はかじかんだ千雪の指先に手を添えた。
「翔太のことなんて気にしなくていい。美羽優が高橋様に辞めさせられれば、すべて元通りになる…そんなはずないよね」
「高橋様から連絡があった。すぐに帰るように。ここから本家は近いし、君も全身濡れているから、早く着替えた方がいい」
千雪は思い出した。母が亡くなってから、慎一の母・高橋雅はずっと自分を娘のように可愛がってくれた。母と雅は親友同士だった。
慎一が裏切ったのは雅には関係ない、と千雪は自分に言い聞かせた。
そう考えて、千雪は慎一の手を振り払った。
「自分で運転するわ」
美羽優がいた場所がどうしても気になり、そこを避けて車に向かった。慎一は傘を差しながら千雪を車まで送った。社用車はバックミラーの中でどんどん小さくなっていった。
千雪が高橋家の邸宅に着くと、雅は使用人たちに囲まれ傘を差しかけながら出迎え、千雪を抱きしめた。
「千雪、どうしてこんなに濡れてるの?慎一は?」
使用人に熱い生姜湯の用意を頼み、千雪を連れて階段を上がった。雅の心からの心配に、千雪の目に涙が浮かんだ。もし雅が慎一の裏切りを知ったら、どんなに悲しむだろう。心配させたくなくて千雪は言った。
「高橋様、慎一の車は後ろにあります」
雅は千雪をなだめて、階上のバスルームへ。
「まずお風呂に入って、温まりなさい」
着替えて出てくると、雅が千雪の手を取った。
「いい子ね、もう悲しまないで。全部分かっているわ。あなたは私の大切な娘よ。誰にも辛い思いはさせない。あなたがしたいようにすればいい。私はどんなことでも味方よ」
雅の優しいまなざしと強い愛情に、千雪の堪えていた思いがあふれ出した。どんなに可愛がってくれても、雅の心の一番は慎一だと思っていた千雪。感激しながらも、離婚を切り出そうとした瞬間、翔太が突然ドアを開けて駆け寄ってきた。
「おばあちゃん、もう美羽先生のことをママなんて呼ばないから、美羽先生を追い出さないで!」
「お母様、甘やかさないでください。千雪が可哀想です」
慎一が入ってきた。千雪は二人を見て、露骨に顔を背けた。慎一は千雪に近づき、額に手を当てようとしたが、千雪は素早く避けた。熱がないのを確認して、慎一はほっと息をついた。
雅は夫婦の様子と孫の顔を見比べ、家政婦からの電話内容がもしかして誤解だったのかと思い始めた。そして翔太に叱った。
「翔太、美羽優のことをママなんて呼んじゃダメ!千雪があなたを産むためにどれだけ体を壊したか分かる?お母さんを傷つけることは絶対に許さないわ。美羽優がそんなことを教えたなら、出て行ってもらいます!」
翔太は涙を浮かべて悔しそうにしていた。自分が望んでママに産んでもらったわけじゃないのに、と心の中で思いながらも、祖母と父の厳しいまなざしに反論できなかった。
「千雪、安心しなさい。美羽優は御夫人家の遠縁だけど、翔太に悪いことを教えたなら、私がきちんと罰するわ。すぐに出て行ってもらう」
このとき千雪は、雅が美羽優を追い出そうとしているのは浮気がバレたからではなく、幼稚園での一件が原因だと気付いた。それだけでこれほど怒るのだから、本当のことを知ったらどうなるのか…。
翔太は「ドサッ」と千雪の前にひざまずき、手を握った。
「ママ、どうかおばあちゃんに美羽先生を追い出さないでって言って。あと30日で僕の誕生日だよ。プレゼントは何が欲しいか聞いてくれたよね?僕、何もいらない。美羽先生がずっとそばにいてくれたら、それだけでいい。ママ、約束破っちゃダメだよ!」
千雪は、幼いながらも傲慢な息子の顔を見つめた。この子が自分を道具にしているのも、母を大切にしないのも、最終的には自分の責任だ。それでも、最後の機会を与えてやろうと思った。
「翔太、本当にそれが一番欲しい誕生日プレゼントなの?」
「うん!」
「後悔しない?」
「しない!美羽先生がずっと一緒にいてくれれば、それでいい!」
「分かった。叶えてあげる」
千雪はそっと手を引いた。
「30日後、そのプレゼントをあげるわよ、翔太」
それは、千雪が家を去る日でもあった。
千雪が顔を背けると、翔太は胸がチクリと痛んだ。ママが自分のことをフルネームで呼ぶなんて、めったにないことなのに。でも昔の優しいママを思い出し、不安な気持ちを無理やり打ち消した。ママは今は怒っているけど、きっとすぐ元に戻ると信じていた。
翔太は雅に向かって叫んだ。
「おばあちゃん、ママがもういいって言ったから、美羽先生を追い出さないで!」
雅は千雪が何も要求しなかったこと、慎一が傍にいることから、事態は収まったと思った。
「ママは許しても、私は許しません。今日から、翔太の世話は別の人にさせます」
そう言い切った。
雅は千雪の前で美羽優を解雇した。翔太がどんなに泣き叫んでも、決して譲らなかった。自分のために雅がここまでしてくれることに、千雪は心が温かくなった。30日後に去るとき、雅がどんなに悲しむだろう。その時はきっと、心配しないでと伝えよう。
美羽優にしばらく会わなくて済むと思うと、千雪の気持ちは少し軽くなった。雅を心配させたくなくて、慎一や翔太と一緒に家へ戻ることにした。
邸宅を出た直後、千雪の携帯が鳴った。美羽優からだった。
【千雪さん、上流階級の嫁が子供を産めなかったら姑が息子に愛人をあてがうって話、知ってますか?】
【千雪さん、本当に可哀想。信じていた人たちに裏切られて。】
【私がどこにいると思います?】
美羽優は別荘の庭に咲くチューリップの写真を送ってきた。それは千雪の母が最も愛した花で、自らの手で植えたものだった。今、その花が美羽優の手で無残にちぎられていた。
千雪は怒りで体が震えた。
「すぐに戻って!」