「千雪、どうしたんだ?」慎一は疑問に思いながらも、千雪の言葉には逆らわず、車をUターンさせた。
「ポルシェに忘れ物をしたの。」千雪は目の奥の冷たい光を隠した。
「分かった。」慎一は笑顔で答える。愛人が追い出された時も冷ややかに見ていたくせに、今はまるで愛妻家のように振る舞っている。慎一のことが以前にも増して他人のように感じられ、千雪は心の中で虚しさを覚えた。
車はすぐにガレージに到着した。慎一が車のドアを開ける。
「千雪、僕が取ってくるよ。」
「うん。ダークグレーのヘアクリップよ。」千雪は念を押した。
慎一が車を降りると、千雪も眠り泣き疲れた翔太を一瞥し、車を出た。
裏庭のホールへ行くと、厚いカーテンが人影を隠している。リビングでは、美羽優が雅の肩を揉んでいた。まるで本当の母娘のような親しさだった。
千雪の脳裏に、病に伏した自分の母を雅が世話し、最期に「千雪を守る」と約束した時の情景がよぎる。雅はずっと自分を守ってくれていたが、それには何か理由があるはずだ。千雪の顔色がみるみる青ざめ、カーテンを強く握りしめた。美羽優の手が止まり、千雪に気づくと、媚びるような笑みを浮かべる。
「お義母さま、私は慎一さんのために、もっと子どもを産みますから。」
「高橋家はあなたを粗末にはしませんよ。」
「千雪さんは本当に可哀想。子どもを望んで漢方も西洋薬も鍼治療も全部試したのに、体はどんどん弱ってしまって……どうかお義母さまからも彼女を励ましてあげてください。」
「高橋家に嫁いだ以上、子どもを産むのが彼女の役目よ。」雅は眉をひそめた。「あの子が子どもを産めないから、私もこんなに苦労する羽目になったのよ。」
「もう放っておきなさい。」
千雪は治療で苦しんだ日々を思い出し、涙が止まらなくなった。雅のことを母親のように思っていたのに、実はずっと計算されていたなんて。もし実母がこの真実を知ったら、きっと天国で安らかに眠れない。
雅が突然、裏庭のホールの方を見る。さっき哀しげな視線を感じた気がした。しかしそこには誰もおらず、揺れるカーテンだけが残っていた。
雅は美羽優の手を払いのけた。
「いい?高橋財閥の奥様は千雪だけよ。いくら慎一の子を産んでも、それは変わらない!」
美羽優は素直に頭を下げた。「はい。」
雅はおとなしい美羽優を見て言った。
「翔太の前で余計なことを言った件は今回は不問にする。明日からは別邸で暮らしなさい。必要がない限り外に出てはダメよ。」
「お義母さま、あの児童養護施設の件は……」
「それは千雪の気持ちが落ち着いてからね。」
千雪は地下駐車場へ戻り、苦しさで息が詰まりそうだった。雅に今すぐ問い詰めに行きたくなる気持ちを、なんとか抑え込む。
〔車に戻る〕
慎一は車のそばで待っており、ヘアクリップを手にしていた。「千雪、どこに行ってたの?」
「お腹の調子が悪くて、トイレに行ってたの。」千雪は慎一の心配そうな表情をじっと見つめた。一瞬、もしかして彼は仕方なくやっているだけなのか、ずっと母親のプレッシャーに従ってきただけなのか、と迷いがよぎる。しかし、彼は美羽優と五年も関係を続けていたのだ。
涙がこぼれそうになり、千雪は慎一に弱い自分を見せたくなくて、前座席のポケットからティッシュを取ろうとした。その拍子に色々な物が落ち、その中の一つが千雪の目を刺した。
千雪の血の気が引き、視界が暗くなる。――翔太が目を覚まし、赤いレースのTバックを拾い上げた。「パパ、これなに?」
千雪も慎一を見た。「慎一、どうしてあなたの車に女物のTバックがあるの?」
「うわっ……」翔太はTバックが下着だと分かっているが、意味までは分からず、それを慎一に投げつけた。「パパ、これ美羽先生のじゃない?」
「美羽優の下着がなんであなたの車に?」千雪は冷ややかに問い詰めた。「あなたたち、私に隠れて何をしてたの?」
慎一は答えず、急発進して会員制クラブへと車を走らせた。
包厢のドアを開けると、慎一は親友の大翔の襟首を掴み、顔面に一発殴りつけ、下着を投げつけた。
「昨日、俺の車で何してた?なんで女物の下着があるんだ?」
千雪も続いて部屋へ入り、大翔と目が合う。大翔はすぐに状況を察し、顔を押さえて懇願した。
「ごめんなさい、慎一兄!昨日は酔っ払って、あなたの車で……」
慎一は大翔の手を離した。大翔は這うように千雪のそばに行き、
「奥様、本当に申し訳ありません!どうか慎一兄を誤解しないでください!もう二度と車は借りません!」
部屋の視線が千雪へ集まる。千雪が何も言わないでいると、大翔はスマホを取り出し、動画を再生した。部屋中に艶めいた吐息が響く。
「お前、慎一兄の車でそんなことしてたのか?奥様が潔癖なの知らないのか?」
「奥様、許さないでくださいよ。慎一兄にしっかりお仕置きしてもらわないと!」
千雪は眉をひそめた。「もうやめて。」
「奥様、許してくれるんですか?」大翔は感激して千雪の手を握るが、慎一の視線に気づいて慌てて手を離した。
千雪は淡々と「ええ」とだけ答えた。大翔はほっと胸をなで下ろす。業界内では、慎一を怒らせたら千雪がかばってくれるが、千雪を怒らせたら慎一が本気で仕返しする、と噂されている。それだけに大翔は千雪の機嫌を損ねるのを恐れていた。
「奥様は本当にお心が広い!」
「奥様は美しくて優しい!」
千雪は無理やり微笑みを作る。慎一と十年連れ添い、彼の友人たちも千雪には親切だった。ふと、駐車場システムの案件を思い出す。小野家は最適な条件ではないが、せめて最後に恩返しとして任せてもいいかもしれない。
千雪は慎一を一瞥し、「翔太が外で待っているから、先に行くわ」と言い、返事も待たず部屋を出た。
執事が新しい車を用意して待っていた。
「社用車は?」
「旦那様の指示で、車屋に引き取られて処分されました。」
「ママ、僕のおもちゃまだ車にある!一番お気に入りのレゴなのに!」翔太がぐずり出す。「ママ、レゴ取ってきて!」
千雪は仕方なく再び包厢へ戻り、慎一に電話しておもちゃを取ってもらおうとした。ドアが半開きで、手をかけた瞬間、中から賑やかな声が聞こえてきた。
「で、どんな動画録ったんだ?早く見せろよ!」
「大翔、ちょっとだけ見せてくれ!」
「ただのAVだろ?」大翔はスマホで再生し、「見たことないのか?」
「これだけ?奥様、チョロいな。」
「そんなに鈍いなら、ベッドでもつまらないだろうな。慎一兄もよく我慢してるよ。」と大翔が続ける。「スタイルも顔も学歴も、優さんにはかなわないし。」
大翔の言葉は千雪の心に鋭く突き刺さった。みんな、慎一の裏切りを知っていたのに、自分だけが騙されていた。
慎一は部屋の中央で、顔を影に沈めていた。大翔の言葉を止めることもせず、黙って千雪への侮辱を許していた。
千雪はドアノブを握り締め、胸が張り裂けそうだった。慎一の体に美羽優が絡みつき、彼女が甘い声でささやく。
「慎一さん、私と千雪さん、どっちがいい?」
慎一は答えず、美羽優はさらに体を寄せ、満足げに微笑んだ。
監視カメラで見るのと、実際に目の前で見るのとでは全く違う。千雪の心は血を流し、堪えきれずにドアを押し開けた。
「みんな、何してるの?」