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第6話 愛人の娘

翔太の言葉は、毒を塗ったナイフのように高橋千雪の胸に突き刺さった。


自分の息子が、家庭を壊し夫を誘惑したあの女のために、彼女の前でひざまずき懇願するなんて——。千雪は翔太を見つめながら、鋭い痛みで息が詰まり、声が震えるのを抑えきれなかった。


「今、なんて言ったの?」


「ママはアクセサリーたくさん持ってるでしょ?全部使いきれないんだから、美羽おばさんに指輪ひとつあげたっていいじゃない」翔太は唇をとがらせ、まるで悪びれる様子もなく甘える。「それに、ママだって美羽さんは僕の面倒をよく見てくれるって言ってたし、ご褒美あげなきゃ。」


「私の代わりにご褒美をあげたの?」


あの日、学校から帰った翔太が玄関にあった指輪を美羽おばさんに渡したら、彼女はとても喜んで、「一生かかっても自分じゃ買えないものだ」と言っていた。かわいそうに。ママはいつも「気前よくしなさい」って言ってるのに、どうして今になって美羽さんを責めるの?


千雪は冷たい洗面台に手をついて、なんとか体を支え、俯いたまま息子を見つめた。


「私のものを勝手に人にあげて、私に聞いたの?翔太。」


「ママが教えてくれたでしょ。勝手に取るのは泥棒だって。」


「ママが死んだら、全部僕のものになるんでしょ?それなら泥棒じゃないよ!」翔太は自信たっぷりに言い放つ。


「誰がそんなこと言ったの?自分の力で生きなさいって、ママは教えたはずよ」千雪は息子の当然のような態度に、胸の奥がどうしようもなく苦くなった。もし自分がいなくなっても、せめて少しは悲しんでくれると思っていたのに、翔太は何も感じていないどころか、すでに自分の遺産のことを考えている。


千雪に叱られ、翔太は唇を震わせ、涙をこらえながらも反抗的な目で睨みつけてきた。もちろん、こう言ったのは祖母だ。いつか高橋家を継ぎ、両親のすべてを相続するのは自分だと。大人になったら美羽おばさんにたくさん宝石を買ってあげるつもりだ。その時になれば、ママももう何も言えない。


「ママ、指輪は返したから、美羽おばさんを許してあげてよ」


「もう美羽おばさんは家に来ないから、これで全部なかったことにしてくれない?」


なにもなかったことに?千雪は幼いながらも冷たい息子の表情に、深い失望を感じた。自分が傷つかなければ、痛みなどわかるはずがない。


「それはお父さんが訴えを起こすって決めたこと。私に言われても困るわ」そう言い残して、千雪は翔太を一瞥もせず洗面所を出て行った。


結局、美羽優は訴えられることはなかった。警察は、翔太が千雪の承諾なく指輪を渡したものの、意図的な窃盗ではない上に幼すぎるため、責任を問わないと判断した。


これらの話は、高橋慎一が千雪に伝えた。


深夜の別荘。慎一は書斎で書類に目を通していた。部屋は相変わらず整然としていて、千雪が投げて壊した結婚写真も元通りに戻されている。まるで何事もなかったかのようだ。千雪は黙って執事と家政婦たちに給与を上乗せした。


彼女は主寝室に戻り、もう部屋を出なかった。ここだけが、慎一と美羽優に汚されていない唯一の空間。唯一、息ができる場所。


突然、部屋のドアが開き、翔太がテディベアを抱えて飛び込んできた。その後ろには、雅が新しく雇った介護士、斎藤静が続いていた。


「ママ、あの人嫌い!」


「歯磨き粉もうまく出せないし!」


「パジャマもおもちゃもどこにあるか分からないんだよ!」


「それに僕のクマを洗濯機に入れて、壊しちゃった!」


「もう一緒に寝ない!」


千雪は翔太を抱きしめ、むくれた顔を見つめ、一方で困った様子の斎藤静に目をやった。「もういいわ、下がって」静は深く頷き、静かに部屋を出ていった。


斎藤静の姿が消えた後、千雪はふと彼女の服装に目を留めた。きちんとしたシャツにシンプルなスラックス、ボタンは喉元まできっちり留められ、両手を前で重ね、視線を逸らさない。いかにもプロらしい態度だ。それに比べ、美羽優の大胆なVネックや、しゃがんだ時に太ももが見える短パンを思い出すと、嫌悪感がこみ上げてきた。最初から彼女は何かを狙っていたのだ。家政婦たちも美羽優にユニフォームを着るよう注意したが、「自由が好き」と拒まれ、自分もその時は納得してしまっていた……皮肉なものだ。


翔太に腕を揺すられ、千雪は視線を戻し、潤んだ瞳を見つめた。「斎藤さんは、まだあなたの習慣を知らないのよ。あなたはもう五歳なんだから、歯磨きくらい自分でできるでしょ?分からないことは教えてあげなさい」千雪は優しく言った。


翔太は小さく不満を漏らした。「美羽さんは、何も言わなくても全部分かってたのに。斎藤さんは鈍いよ!」


千雪の心に一瞬、不審がよぎる。美羽優はどうして翔太の好みをそこまで知っていたのか。慎一が教えたのだろうか?


「人の悪口を言ってはいけません」これ以上この話を続けたくなくて、千雪はきっぱりと言った。「もう寝る時間よ」


でも翔太はベッドから離れず、「ママ、今夜は一緒に寝て!お話して!」と駄々をこねはじめた。美羽優がいた頃、千雪が一緒に寝ようとしても翔太は拒んだのに、今になって母親を求めるとは。


「大きくなったんだから、一人で寝なさい」千雪はやんわりと断る。すると翔太は突然大声で泣き出し、千雪の腕にしがみついた。


物音を聞きつけて、慎一が慌てて駆けつけ、翔太を抱き上げる。その拍子に翔太のテディベアが床に転がり、クマのお腹には透明なポケットが縫い付けられていて、中には写真が挟まれていた。洗濯機で洗われたせいで色は薄れていたが、観覧車の下で撮った写真だと分かる——幼稚園の遠足の日で、保護者同伴が不要なはずだった。雅が心配して美羽優にボランティアとして同行させたのだ。その日は慎一も本来は出張のはずだった。


自分のいないところで、彼らはまるで本当の家族のように見えた。写真の中、三人は寄り添い、眩しい笑顔を浮かべている。その光景が千雪の胸を刺す。慎一がかがんでクマを拾い上げ、翔太に返すのを見て、もう彼ら親子のために涙を流すのはやめようと、千雪はそっと顔を背けた。


「千雪、あの日は空港からすぐにお義母さんから電話があって、翔太が遊園地で迷子になったって。君を心配させたくなくて、すぐ探しに行ったんだ」慎一はそっと千雪のそばに寄り、低い声で言い訳する。


翔太も続けて、「ママ、あの日は僕、新しい友だちもできたんだよ!」と言って、クマのポケットから写真を取り出し、裏面を千雪に見せる。そこには、二人の子どもが寄り添って写っている。


千雪がちらっと見ると、慎一がその写真を取り上げ、目の前で細かく引き裂き、ごみ箱に捨てた。


「ママの指輪を盗み、君を悪い方向に導いた写真なんて、もう二度とこの家に置かない。分かったね、翔太」慎一は厳しい口調で息子を叱った。


彼はいつも千雪の前では、彼女の気持ちを大切にしているように振る舞う。しかし千雪の心は冷えきったまま。翔太が泣きながら主寝室を飛び出し、慎一が「息子をしっかりしつける」と慰める声を聞き流した。


二人が部屋を出ると、千雪は「誰か、ごみ箱を片付けて」と静かに命じた。あの写真をもう見たくなかった。


あと29日。


しばらくして、斎藤静が廊下から入ってきて、床に散らばった紙片を片付けていたが、ふと一片を拾い上げて驚いたように言った。


「あれ?これ……美羽優さんの娘さんじゃないですか?」

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