千雪は無表情のまま翔太を見つめていた。その視線に翔太は思わず慎一の背中に隠れる。母の目はいつも優しく包み込んでくれるものだったが、今はまるで別人のように冷たい。もしかして、昨日学校帰りに美羽さんとこっそり会ったことがバレたのかと、翔太は不安になる。
「パパ、ママに何か言ってよ!」翔太は小さな声で慎一に助けを求める。
慎一は穏やかに微笑み、翔太の頭を優しく撫でた。「ママはわざわざ君の誕生日に合わせてリフォームの計画を立ててくれたんだよ。お祝いのために、大規模な改装を決めたんだ。」
「それに、もうすぐ新しい家族も増えるし、家の間取りも見直す必要があるからね。」
「千雪、君もそう思っているんだろう?」慎一は千雪に視線を向ける。
千雪はそっけなく「ええ」とだけ答えた。
翔太はぱっと明るい顔になり、千雪の元へ駆け寄って首に抱きつき、頬にキスをした。「ママ、僕、勘違いしてたよ!」
「やっぱりママは僕のこと一番好きなんだ!」昨夜、パパが言っていた。「ママが一番大切にしている結婚指輪を他人にあげちゃダメだよ。それは二人の愛の象徴で、君と同じくらい大切なんだ」と。だからママは怒ったんだと思っていた。でも、もう心配いらない。ママは僕のことが大好きで、どんなに大きな失敗をしてもきっと許してくれる。怒っているのも、きっと一時だけだ。
千雪は息子の無邪気な笑顔を見て、一瞬だけ心が和らぎ、抱きしめ返そうと手を伸ばした。しかし翔太はすでに千雪の腕の中からすり抜けて、朝食の準備をしにテーブルの向こう側へ行ってしまった。千雪の手は宙に浮いたまま止まる。
「でも、どうして車を壊してしまったんだい?」慎一は千雪の前にしゃがみ込み、彼女の冷たい手をそっと握りながら心配そうに尋ねた。
千雪は彼の優しいまなざしを見て、昨夜の惨めな光景が頭をよぎり、目元が赤くなる。「もう気に入っていないの。誰かの手に渡るのも嫌だったから。」
慎一はじっと千雪を見つめ、静かに言った。「そうだね。君の大切なものは、君がいらなくなっても他の誰にも触れさせない。」
「じゃあ、これからどこに住むの?」翔太はサンドイッチを頬張りながら尋ねる。
「本家に戻って、おばあちゃんと一緒に暮らそう。」慎一の言葉で、千雪が会社の近くのマンションに引っ越すという考えは打ち消された。以前はおばあちゃんと過ごすのが千雪の一番の楽しみだった。もし今行かなければ、慎一の疑念を招くだろう。
「やった!」翔太は嬉しそうに手を叩いた。おばあちゃんがいれば、ママももうきつく怒れない。それに、おばあちゃんはアイスクリームやキャンディーをこっそりくれるのだ。
慎一は立ち上がると、庭で電話をかけ始めた。無意識にブランコのロープに飾られた花飾りを指でなぞる——それは美羽優が作ったものだった。千雪は突然こみあげてきた嫌悪感に、視線を逸らした。
「先に会社へ行くわ。」そう言ってナイフとフォークを置き、立ち上がる。執事が彼女のキャリーケースを押して後ろからついてくる。自分の荷物から、慎一と翔太に関係するものを全て除いたら、たった一つのスーツケースに収まってしまった。これまで父子ふたりに気を遣い、自分を後回しにしてきた日々を思うと、滑稽にすら感じる。
庭で慎一は千雪が車に乗り込むのを見送りながら、じっと目を細めていた。彼女はずいぶん痩せてしまった。慎一は携帯を耳に当てて指示する。「この二日、千雪は何か悩んでいるみたいだ。俺に話さなくても、佐藤晴には話すかもしれない。佐藤に様子を探らせてみてくれ。」
電話の向こうから小野の慎重な声が聞こえる。「慎一さん……もしかして奥様、美羽優さんとのことを気付いてしまったのでは?」
「そんなはずはない!」慎一は即座に否定する。
「そ、そうですね、きっと違います。もし奥様が気付いていたら、絶対に離婚だと騒ぎ立てて家を出ていくはずですし、こんなに冷静ではいられませんよ。」
「家を出る」という言葉が、慎一の胸を刺す。千雪の車が動き出すのを見つめながら、電話を切り、長い足で車を追った。彼女が一人で会社に向かうなんて、滅多にないことだった。しかし車のドアは目前で閉められ、千雪は前を向いたまま、こちらを見ようともしない。慎一はただ車が遠ざかるのを見送るしかなかった。
ダイニングに戻ると、千雪が座っていた席にはスパゲッティとミルクがそのまま残っていた。「奥様は一口も召し上がらなかったのか?」慎一が聞く。
「はい、今朝はずっと元気がなさそうでしたし、食欲もなかったようです。」と、家政婦が答える。いつもなら、たとえ食欲がなくても、彼が作った朝食を少しは口にして、料理を褒めてくれていたはずなのに。慎一の眉間に深いしわが寄り、小野の言葉が再び頭をよぎる。
千雪は高橋財閥の情報部で特別顧問を務めていた。たまに部長に助言をし、ハッカーの攻撃や社員のミスがあれば、密かに解決してきた。彼女の本当の実力を知る者は誰もいない。かつて「留学」と称していた二年間も、実際は特別機関にスカウトされていたのだ。しかし慎一と結婚するため、千雪はすべてを捨て、正体を明かさないことを誓った。そのため、周囲からは一目置かれる存在だった。
退職願を部長の田中に提出したとき、田中は額に汗を浮かべていた。「奥様、何か不手際がございましたでしょうか?」
「いいえ、私の個人的な理由です。」千雪は淡々と答える。
「それでは……退職願は社長の承認が必要でしょうか?」田中は自分の質問が無意味だったと気づく。奥様が辞めるとなれば、社長も当然承知しているだろうし、何より社長は奥様には逆らえないのだ。
「その必要はありません。」
「では、人事部へ回しておきます。」田中は丁寧に頭を下げた。
千雪は軽くうなずき、部屋を出ると、佐藤晴がやってきた。佐藤家と高橋家は古くからの付き合いで、晴と慎一はほとんど幼なじみのような関係だ。千雪が高橋家に嫁いでからは、晴と親友となり、慎一が千雪を怒らせたときは晴がよく間に入ってくれた。慎一以外で千雪が最も信頼しているのは晴だった。
「千雪!小野のやつ、私を裏切ったの!」晴は泣きそうな声で千雪に飛び込んできた。その姿に千雪の胸は締め付けられる。
これまで、晴が涙を見せたのは千雪の結婚式のときだけだった。今回が二度目だ。
「晴、それは違うわ。小野はあなたを裏切っていない。」千雪は昨日の会員制クラブでの出来事を思い出し、胸が苦しくなる。
「もう嘘つかないで! みんな知ってるのよ!」晴は涙ながらに怒りをぶつける。「もう婚約破棄よ!」
晴は小野を心から愛しているし、小野も晴を大事にしていた。たとえ小野が慎一の味方をしたことに腹が立っても、自分のことで二人を引き裂くのは本意ではなかった。愛する人に裏切られる痛みを、晴には味わってほしくない。晴は千雪にとって最も信頼できる友達であり、彼女なら真実を知っても口外しないと信じていた。
「晴、美羽優の恋人は小野じゃない。慎一なの。」
「慎一が、私を裏切ったってこと?」
そのとき、オフィスのドアが開き、慎一が入ってきた。