高橋慎一の姿を見た瞬間、高橋千雪初の表情が一変し、思わず手に力が入った。
——さっきの話、聞かれてしまったのだろうか?
しかし、高橋慎一の顔には何の変化もない。
その時、高橋千雪初は思い出した。このオフィスは高橋慎一自らが設計し、社長室と同じ素材が使われている。防音性も抜群だ。
普段はオフィスに座っていても、外の音はまったく聞こえない。
少しだけ安心した千雪初。
だが、佐藤晴が突然切り出した。
「高橋慎一、あなたと美羽優は一体どういう関係なの?」
高橋千雪初は驚きで顔が真っ青になった。
「俺と美羽優?」と慎一は眉をひそめ、不可解な表情を浮かべる。
千雪初は咄嗟に佐藤晴の手を引き止め、すぐに口を挟んだ。
「小野大翔と彼女の噂、佐藤さんも知ってるんだよ。」
「あなたは美羽優の遠い親戚として、ちゃんと彼女を見てあげてるの?」
佐藤晴は驚いたような表情を浮かべたが、千雪初が緊張で唇を噛みしめているのを見て、すぐに察した。
——千雪初は、高橋慎一に真実を知られたくないんだ。
親友として、晴はすぐにフォローに回る。
「私たちは小さい頃から一緒に育った仲じゃない。どっちの味方なの?」と、冗談めかして慎一を問い詰め、千雪初に意味ありげな視線を送った。
千雪初はほっと息をついた。気がつけば、高橋慎一がそっと彼女を抱きしめ、耳元で優しく囁く。
「千雪、もちろん君の味方だよ。」
「小野大翔にどう罰を与えても、俺は一切文句を言わない。」
「だから、もう怒らないでくれないか?」
慎一は彼女を強く抱きしめ、ただ千雪初の笑顔が見たくて、何度もなだめてくれた。
何年経っても、どれだけ時が流れても、出会った日からずっと、慎一はこうして彼女を大切にしてきた。
彼は千雪初の青春を輝かせ、家庭の苦しみから救い出し、母を失った悲しみの中で寄り添ってくれた。
——でも、そんな彼が裏切った。2人で誓った幸せを裏切った。
慎一が他の誰かを愛しているという現実を、千雪初はどうしても受け入れられなかった。
悲しみが胸を締めつけ、思わず手で心臓を押さえ、声は震え、冷たく叫ぶように言った。
「彼女ときっぱり縁を切って。もう二度と会わないで、忘れて。」
血のにじむような目で慎一をじっと見つめ、その絶望が慎一の心を刺した。
なぜこんなにも苦しんでいるのだろう。まるで自分に向かって言っているような気がした。
動揺した慎一は、何かが遠ざかっていく感覚に襲われた。
千雪初は彼の視線を避け、「小野大翔にできることなの?」と問いかける。
「そうよ、美羽優には東京から出ていってもらうわ。」
「もしまた会ったら、その度に許さない。見かけたら、絶対に許さない。」
その剣幕に、佐藤晴の怒りが場の空気を断ち切った。
「小野大翔が彼女と関係を断つことは絶対に約束するし、東京からも追い出すわ。」と慎一は千雪初の耳元で静かに誓った。
「千雪が望むなら、何でもするよ。」
千雪初は淡々と頷く。
慎一は、これまで約束を必ず守ってきた。
これでしばらくは穏やかに過ごせるだろう。
その後、慎一が食事に誘い、佐藤晴もいたので小野大翔も呼んだ。
高級レストランの個室で。
小野大翔は何度も佐藤晴に頭を下げ、慎一も取りなしてようやく許してもらえた。
千雪初はそんなやりとりに興味もなく、トイレに行くと席を立った。
佐藤晴も後を追う。
「千雪、慎一があんな女と本当に関係を持ったの?裏切ったってこと?」
「そんなことあるはずないじゃない。何かの誤解じゃないの?」
東京で、高橋慎一が千雪初を裏切るなんて、誰一人として信じられないことだった。
千雪初は洗面所で顔を洗い、落ち着こうとしたが、思わず嗚咽してしまった。
そんな姿に佐藤晴は慌てて、ハンカチで涙を拭いた。
「自分の目で見たのよ。」
細かいことを話せばさらに傷つくと分かっていた。簡単な言葉で、精一杯の勇気を振り絞った。
「どうしてそんなことを……!」と佐藤晴は衝撃を隠せない。
「千雪、どうして私に言わせてくれなかったの。どうしてそんなに我慢してるの?」
「男の浮気は一度あれば何度でもあるのよ!」
「千雪、目を覚まして!」
千雪初は涙を拭い、「ありがとう、晴。あなたが味方でいてくれて」と微笑んだ。
「バカね、あなたは私の一番の友達よ。」
佐藤晴は千雪初の頬にかかる髪を優しく整え、心から気遣う。
「これからどうするつもり?私にできることがあれば言ってね。」
本当は、佐藤晴は慎一と付き合いの長さも深さもある。けれど、千雪初に対しては一番に寄り添ってくれる親友だった。
もし慎一に、晴が千雪初の「別れ」を知っていたと知られたら、きっと晴を許さないだろう。それだけは避けたかった。
「大丈夫、自分で何とかするから。」
「離婚して、彼の手の届かない場所へ行くつもり。」
「本当に、二度と見つからない場所に?」と佐藤晴は驚く。
「その時になったら分かるわ。それまで、私のことは秘密にしておいて。」
「もうすぐ出ていくから。」
佐藤晴はうなずきつつも、寂しそうな声を漏らす。
「私も会えなくなっちゃうの?」
「そんなことない。また連絡するよ。」
両親の離婚で母と暮らし、友達とも離れた千雪初にとって、佐藤晴は初めて心を開いた親友だった。
離れがたい思いがこみ上げる。
それでも晴は千雪初の言葉に少しだけ安心し、ふと怒りを滲ませた。
「美羽優なんて全然千雪に敵わない!慎一は本当に目が節穴じゃないの?」
千雪初は苦笑して首を振る。
どんな理由があっても、すべてが過去になる。でも、美羽優のあの言葉が頭を離れない。
誰だって、若くて活気のある人を好きになるのかもしれない。
翔太も、そして慎一も。
食事を終えてレストランを出たとき。
目の前に高級なフェラーリが停まり、慎一が車から降りてきて、車のキーを千雪初に手渡す。
「千雪、気に入ったかい?」
ちょうどお昼休みで、レストランは高橋グループの近く。多くの社員が見物に集まっていた。
「うわー!御曹司の愛のサプライズだ!」
「高橋社長、本当に奥さん想いなんだね。」
「奥さん、前世できっと徳を積んだんだろうね。」
「私も高橋社長みたいな人と出会いたいなあ。」
「イケメンでお金持ち、しかも一途!」
以前なら、周りの羨望の声に包まれて、慎一の愛情のこもった眼差しを受けるたびに、千雪初の心は満たされ、恥ずかしそうに彼の胸に飛び込んでいた。
彼のオープンな愛情をからかいながらも、心から感謝していた。
けれど今、千雪初は無表情でキーを受け取ると、何も言わず彼の横をすり抜けていった。
彼女は若くて活力のある男性に惹かれたわけでもない。
ただ、今でも彼を愛しているだけ。
どれだけ傷つけられても、彼が近くにいるだけで心が揺れる。
でも、その揺れは棘のように痛い。
こんなに愛しているのに、彼は嘘でしか返してこなかった。
高橋慎一、あなたのためにこんなに苦しむ必要なんてないのに。
「え?奥さん、なんだか嬉しそうじゃないね?」
「女の人が不機嫌なときは、お金じゃなくて愛情の問題だっていうけど…奥さんはお金に困ってないもんね!」
「まさか、高橋社長が奥さんを裏切ったとか!?」
その言葉に、周りの社員が一斉に非難する。
「そんなことあるわけないよ!」
「世界中が知ってるじゃない、高橋社長の奥さん愛!」
「前に奥さんが誘拐されたとき、高橋社長が身代わりになって助けたんだよ!」
みんなが慎一に夢中になり、千雪初を羨む声が止まらない。
「私、一生高橋社長の奥さん推しで働きます!」
だが今の千雪初は、ただ慎一から離れたい、愛したくない、忘れたいと願っている。
残り28日しかない——
車に乗り込むと、突然ドアが開き、手を掴まれた。
慎一が情熱的なキスを額に落とす。
彼女は思わず彼を突き放し、その驚いた瞳をまっすぐ見つめながら告げた。
「もう私にキスしないで!」